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一章
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夜の帳が完全に街を包み、時刻はすでに23時を回っていた。
ビルの谷間を抜ける風は肌寒く、昼の熱気はとっくに跡形もない。細い路地にひっそりと佇むバー「オリゾンテ」の看板には、手書きの紙がテープで留められている。
【私情により今日、明日臨時休店──明後日からは通常営業 Bar Horizonte】
その文言に目を留めた奏は、しばし立ち止まったまま無言で見つめる。
額には汗とも涙ともつかぬ湿気が滲み、呼吸はどこか浅い。
だが、次の瞬間には決意したように扉へと手をかけた。重いドアが開くと同時に、小さく控えめな鈴の音が、まるで遠くの教会の鐘のように静かに響いた。
一歩足を踏み入れた先にあったのは、相変わらず照明の落とされた、深い琥珀色の空間。
静寂の中で空気すら濃く感じられる。店内には客の姿はなく、唯一カウンターの奥に佇んでいたのは、黒髪をマンバンに束ねたバーテンダー、伊月だった。
その姿を見た瞬間、奏の膝が緩む。
だが、倒れそうになる前に、伊月は瞬時にカウンターを離れ、無言で数歩駆け寄ってきた。何かを確認するように奏の顔を見つめたその視線には、怒りと安堵、焦燥と微かな安堵が入り混じっていた。
奏は「悪い、心配かけて――」と言いかけた。
だがその言葉の最後までは、声に出せなかった。
次の瞬間、空気を切り裂くような鋭い音が鳴り響き、頬に鈍い熱が走る。伊月の手が奏の顔を平手で打っていた。
「話なら聞いてやる。頼ってくれてもいい。……だけどまず、俺に言うことがあるだろ」
その声は怒気に満ちているが、それ以上に深い感情が滲んでいた。
何より、目の前の伊月の表情が──まるで奏以上に傷ついているように見えた。
頬がじんと痛む。それよりも胸が痛かった。
「……連絡、返せなくてごめん。心配してくれたのに……悪かった」
言葉にして初めて、自分がどれほど心配をかけたかを思い知る。
伊月の額には薄く汗が滲んでいて、その苛立ちを隠しきれていない。
「二度と同じことするなよ」
「……ごめん、なさい」
声が震える。
伊月は「ったく……お前ってやつは」と舌打ち交じりに短く吐き、焦燥を紛らわすように後頭部を軽く掻いた。そしてポケットからタバコを取り出し、火を灯す。
その動作のすべてが乱雑で、それでいてどこか優しかった。
やがて伊月は裏の棚から何かを取り出し、丁寧に梱包された箱の封をハサミで静かに切った。
現れたのは、銀色の留め具がついた、白く質素な首輪だった。
「首輪だ。今回は……噛まれてない。それだけだ」
その言葉に、奏の心臓がわずかに震える。
伊月は無言でそれを奏の首に巻きつけ、ちょうどよい長さでロックをかけた。
本来、それは親や婚約者が贈るべきもの。
だが伊月は親代わりとして、奏がオメガであることが理由で再び傷つくことのないよう、ずっと前からこの首輪を用意していたのだ。
「……違和感する」
そう呟く奏に、伊月は眉間に皺を寄せながら即座に言い返す。
「我慢しとけ、バカガキ」
首輪を付けたまま俯いた奏の手を取って、無言のままテーブル席へと連れていく。
奏の首筋に点々と浮かぶ赤い痕──まるで、所有の証のようなキスマークを目にした瞬間、伊月の中にノアへの怒りが再燃した。
愛し合っているというには軽すぎる、けれど、ただの一夜の過ちとして片付けるには重すぎる痕跡。
伊月はそのすべてを、自分の無力さへの苛立ちに変えて、胸の内に押し込める。
「……これで少しはマシな顔になるだろ」
そう言って保冷剤を奏の頬にそっと当てる。
奏は黙ったまま受け入れ、そのままテーブルに突っ伏すようにして目を閉じた。
タバコの火がまた一つ、静かな空気の中で赤く瞬いた。
伊月はグラスを磨きながら、ただ一人、夜の空気に煙をくゆらせていた。
ビルの谷間を抜ける風は肌寒く、昼の熱気はとっくに跡形もない。細い路地にひっそりと佇むバー「オリゾンテ」の看板には、手書きの紙がテープで留められている。
【私情により今日、明日臨時休店──明後日からは通常営業 Bar Horizonte】
その文言に目を留めた奏は、しばし立ち止まったまま無言で見つめる。
額には汗とも涙ともつかぬ湿気が滲み、呼吸はどこか浅い。
だが、次の瞬間には決意したように扉へと手をかけた。重いドアが開くと同時に、小さく控えめな鈴の音が、まるで遠くの教会の鐘のように静かに響いた。
一歩足を踏み入れた先にあったのは、相変わらず照明の落とされた、深い琥珀色の空間。
静寂の中で空気すら濃く感じられる。店内には客の姿はなく、唯一カウンターの奥に佇んでいたのは、黒髪をマンバンに束ねたバーテンダー、伊月だった。
その姿を見た瞬間、奏の膝が緩む。
だが、倒れそうになる前に、伊月は瞬時にカウンターを離れ、無言で数歩駆け寄ってきた。何かを確認するように奏の顔を見つめたその視線には、怒りと安堵、焦燥と微かな安堵が入り混じっていた。
奏は「悪い、心配かけて――」と言いかけた。
だがその言葉の最後までは、声に出せなかった。
次の瞬間、空気を切り裂くような鋭い音が鳴り響き、頬に鈍い熱が走る。伊月の手が奏の顔を平手で打っていた。
「話なら聞いてやる。頼ってくれてもいい。……だけどまず、俺に言うことがあるだろ」
その声は怒気に満ちているが、それ以上に深い感情が滲んでいた。
何より、目の前の伊月の表情が──まるで奏以上に傷ついているように見えた。
頬がじんと痛む。それよりも胸が痛かった。
「……連絡、返せなくてごめん。心配してくれたのに……悪かった」
言葉にして初めて、自分がどれほど心配をかけたかを思い知る。
伊月の額には薄く汗が滲んでいて、その苛立ちを隠しきれていない。
「二度と同じことするなよ」
「……ごめん、なさい」
声が震える。
伊月は「ったく……お前ってやつは」と舌打ち交じりに短く吐き、焦燥を紛らわすように後頭部を軽く掻いた。そしてポケットからタバコを取り出し、火を灯す。
その動作のすべてが乱雑で、それでいてどこか優しかった。
やがて伊月は裏の棚から何かを取り出し、丁寧に梱包された箱の封をハサミで静かに切った。
現れたのは、銀色の留め具がついた、白く質素な首輪だった。
「首輪だ。今回は……噛まれてない。それだけだ」
その言葉に、奏の心臓がわずかに震える。
伊月は無言でそれを奏の首に巻きつけ、ちょうどよい長さでロックをかけた。
本来、それは親や婚約者が贈るべきもの。
だが伊月は親代わりとして、奏がオメガであることが理由で再び傷つくことのないよう、ずっと前からこの首輪を用意していたのだ。
「……違和感する」
そう呟く奏に、伊月は眉間に皺を寄せながら即座に言い返す。
「我慢しとけ、バカガキ」
首輪を付けたまま俯いた奏の手を取って、無言のままテーブル席へと連れていく。
奏の首筋に点々と浮かぶ赤い痕──まるで、所有の証のようなキスマークを目にした瞬間、伊月の中にノアへの怒りが再燃した。
愛し合っているというには軽すぎる、けれど、ただの一夜の過ちとして片付けるには重すぎる痕跡。
伊月はそのすべてを、自分の無力さへの苛立ちに変えて、胸の内に押し込める。
「……これで少しはマシな顔になるだろ」
そう言って保冷剤を奏の頬にそっと当てる。
奏は黙ったまま受け入れ、そのままテーブルに突っ伏すようにして目を閉じた。
タバコの火がまた一つ、静かな空気の中で赤く瞬いた。
伊月はグラスを磨きながら、ただ一人、夜の空気に煙をくゆらせていた。
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