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二章
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クレインが去った診察室には、わずかに消毒薬と金属の匂いが残っていた。
そこには、軍医と上官ではなく、かつて同じ部屋で寝起きし、同じ戦場を潜った「同期」としての沈黙が、まだ漂っているようだった。
やがて、ノアは立ち上がる。
机の上に置き去りにされたZEROの資料に一瞥をくれ、無言でそれを手に取ると、深く息を吐いた。
「……戻るか」
呟きは誰に向けたものでもなく、自分の胸の奥に投げ捨てたものだった。
再び軍人の顔に戻るように表情を引き締め、ノアは診察室を後にした。
廊下の先には、自分の執務室。
山のように積まれた報告書と、未処理の書類――そして、“日常”が待っている。
デスクの上には、今日締切の報告書が6件。
昨夜提出された部隊評価レポートに、未読の命令電報が2通、そして机の端に積まれた厚みのある案件ファイル――作戦運用部からの査問付き案件。
まるで、感情を排除するかのようにノアは迷いなく席に着いた。
椅子がきしむ音も気にせず、モニターを点け、次々と書類へ手を伸ばす。
無表情のまま画面に目を走らせ、キーボードを叩く指は規則正しく冷静だった。
一文字、一行、一段落。
淡々と処理を重ねるその姿は、まるで精密機械のようですらあった。
時計の針が音もなく進むなか、室内にはただノアの指が生む小さな打鍵音だけが鳴り続けていた。
報告書を3件終えたあたりで、ふと、視界の端にある一枚のファイルに目が止まる。
表紙に貼られた、手書きの仮ラベル。
──「御影 奏」
クレインが午前中に送ってきた、初診前の予備資料と問診のためのテンプレート書式だった。
ノアの指が、そのファイルへわずかに伸びかけて……止まる。
触れてはいけない、と本能が告げる。
いや、触れてしまえば何かが壊れる気がした。
ノアはその手をゆっくりと引いた。
そして再び、別の報告書へ視線を戻す。
何事もなかったように、仕事の続きを始める。
──まるで、“奏”という名前など、最初からこの部屋に存在していなかったかのように。
だが、心臓の裏側で何かがくすぶっている。
それは熱でもなく、痛みでもなく、ただ確実に“ノアを揺らすもの”だった。
彼はただ黙って、仕事を続けた。
それが唯一、今の自分にできる「均衡」だった。
……22時03分。
ノアはディスプレイの片隅に表示された時間を見て、ひとつ息を吐いた。
重ねた書類を片手で抑えながら椅子を引くと、背もたれが軋む音が静かに室内に響いた。
朝、家を出る前に、奏へ残したメモが脳裏に過ぎる。
「日付が変わる前には戻る」――ただそれだけ。たったそれだけなのに、自分で約束した以上、破るつもりはなかった。
時計を見る限り、まだ“今日”は終わっていない。
──なら、そろそろ帰るか。
ジャケットを手に取ると、その重さが肩に落ちる。
背後の書類の山が視界から消えると、代わりに浮かぶのは、夜のリビングでじっと息を潜めているであろう、あの“番”の姿。
きっと、待ってはいない。
だが、こちらが“帰る”という行為を選ぶ理由は、もうそれだけで充分だった。
ノアはゆっくりと部屋を出る。
無言のまま、軍人の歩調で、確実に――“家”へ向かっていた。
そこには、軍医と上官ではなく、かつて同じ部屋で寝起きし、同じ戦場を潜った「同期」としての沈黙が、まだ漂っているようだった。
やがて、ノアは立ち上がる。
机の上に置き去りにされたZEROの資料に一瞥をくれ、無言でそれを手に取ると、深く息を吐いた。
「……戻るか」
呟きは誰に向けたものでもなく、自分の胸の奥に投げ捨てたものだった。
再び軍人の顔に戻るように表情を引き締め、ノアは診察室を後にした。
廊下の先には、自分の執務室。
山のように積まれた報告書と、未処理の書類――そして、“日常”が待っている。
デスクの上には、今日締切の報告書が6件。
昨夜提出された部隊評価レポートに、未読の命令電報が2通、そして机の端に積まれた厚みのある案件ファイル――作戦運用部からの査問付き案件。
まるで、感情を排除するかのようにノアは迷いなく席に着いた。
椅子がきしむ音も気にせず、モニターを点け、次々と書類へ手を伸ばす。
無表情のまま画面に目を走らせ、キーボードを叩く指は規則正しく冷静だった。
一文字、一行、一段落。
淡々と処理を重ねるその姿は、まるで精密機械のようですらあった。
時計の針が音もなく進むなか、室内にはただノアの指が生む小さな打鍵音だけが鳴り続けていた。
報告書を3件終えたあたりで、ふと、視界の端にある一枚のファイルに目が止まる。
表紙に貼られた、手書きの仮ラベル。
──「御影 奏」
クレインが午前中に送ってきた、初診前の予備資料と問診のためのテンプレート書式だった。
ノアの指が、そのファイルへわずかに伸びかけて……止まる。
触れてはいけない、と本能が告げる。
いや、触れてしまえば何かが壊れる気がした。
ノアはその手をゆっくりと引いた。
そして再び、別の報告書へ視線を戻す。
何事もなかったように、仕事の続きを始める。
──まるで、“奏”という名前など、最初からこの部屋に存在していなかったかのように。
だが、心臓の裏側で何かがくすぶっている。
それは熱でもなく、痛みでもなく、ただ確実に“ノアを揺らすもの”だった。
彼はただ黙って、仕事を続けた。
それが唯一、今の自分にできる「均衡」だった。
……22時03分。
ノアはディスプレイの片隅に表示された時間を見て、ひとつ息を吐いた。
重ねた書類を片手で抑えながら椅子を引くと、背もたれが軋む音が静かに室内に響いた。
朝、家を出る前に、奏へ残したメモが脳裏に過ぎる。
「日付が変わる前には戻る」――ただそれだけ。たったそれだけなのに、自分で約束した以上、破るつもりはなかった。
時計を見る限り、まだ“今日”は終わっていない。
──なら、そろそろ帰るか。
ジャケットを手に取ると、その重さが肩に落ちる。
背後の書類の山が視界から消えると、代わりに浮かぶのは、夜のリビングでじっと息を潜めているであろう、あの“番”の姿。
きっと、待ってはいない。
だが、こちらが“帰る”という行為を選ぶ理由は、もうそれだけで充分だった。
ノアはゆっくりと部屋を出る。
無言のまま、軍人の歩調で、確実に――“家”へ向かっていた。
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