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五章
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病室の扉がゆっくりと開いた瞬間だった。
まるで静まり返っていた水面に、一滴のインクが落ちたように──周囲の空気が微かに波打ち、ざわめいた。
奏が、病室を出た。
W03という番号が刻まれたその部屋は、病棟内でも特別視されていた。扉の前には常に看護師詰所の監視が張られ、一般スタッフの出入りは原則として禁止。運良く何かの交換に行けてもそのベッドの周りはカーテンがかかっている事が多く誰も奏の顔を見たことがない。だからか部屋には、「特別な患者がいる」という噂が絶えずささやかれていた。
──そして、今日、その“特別”が表に現れたのだ。
視線が、刺さる。
すれ違うスタッフや入院患者たちが、瞬間的に目を奪われては、無言のまま逸らす。誰も言葉を発さない。だが、明らかに、その歩みに引き寄せられていた。
奏は、車椅子に乗っていた。
押しているのはクレイン。白衣に身を包んだその背中もまた、ただ者ではない空気を纏っていた。ふたりの放つ存在感が、廊下の空気を圧し潰すように漂っている。
──それもそのはずだ。
奏の姿は、まさに“視覚的暴力”とも言えるほどだった。
陶器のような滑らかな肌。透き通るような白に、脆さと危うさが混じる。艶のある黒髪が肩に落ち、伏し目がちな眼差しはどこか儚げで、見つめてはいけないものを覗き込んでしまったような罪悪感すら抱かせる。整いすぎたその顔立ちは、日本人離れしているというより、西洋人形のようだった。
──そして、香り。
近くを通った者だけが気づく、ごく微かに甘く、しかし清冽な空気を纏ったその匂い。嗅覚すら侵す、彼の第二性──オメガの本能が、無意識に空間の重心を歪めていた。
「……あれが、W03……」
誰かが、小さく呟いた声が聞こえた気がした。だが、それ以上は誰も口を開かない。
近寄りたくても、近寄れない。
奏に課された接触制限──クレインによって明確に敷かれた境界線は、病棟中の誰もが理解していた。
「……帽子とマスクをしていた方が良かったな。こちらの配慮不足だ」
クレインが低く言う。
「クレインが気にすることじゃない」
奏はそれに淡々と返すが、その口元にはほんのわずか、緊張の跡が浮かんでいた。
当然だった。彼の姿を真正面から見たことのある者は、そう多くない。だが人は想像で美化する。見た者は、それを現実に昇華し、崇拝にも似た憧れを抱く──窓辺のご令息とまで呼ばれるその少年を、今、誰もが目撃していた。
エレベーターの前に立つと、クレインは制御盤にIDカードをかざす。『関係者以外立入禁止』のプレートが貼られたそのエレベーターは、一般職員の誰一人として使えない特殊ルートだった。車椅子が乗ると、静かに扉が閉まり、奏とクレインだけを東側の特別通路へと運ぶ。
「最近ノア来ねぇよな……」
ふと、奏が漏らす。
「忙しいんだ。連絡は来ていないのか?」
「しばらく顔を出せないってメールが来て、返したけど……未だに既読つかない」
「……そうか。元々そういう奴だ」
淡々としたクレインの返事には、安堵と釘刺しがないまぜになっていた。
エレベーターが静かに止まり、ふたりは東側の玄関へと出た。
“関係者以外立入禁止”の重たい自動扉が開いた瞬間──風が流れ込んできた。
外気。秋の匂い。土と木々の、微かに湿った匂い。夏の熱気が溶けて消え、風が色を変えたのが分かる。
「……外の空気、久しぶりに吸った」
奏が、小さく呟いた。
「そうか。この際、心置きなく吸っておけ」
クレインの声は、静かに笑んでいた。
ふたりの影が、秋の陽に溶けて伸びていく。
空は高く、雲ひとつなかった。
車椅子の車輪が、かすかに乾いた音を立てて進んでいく。滑らかに整備されたアスファルトの道は、医療施設の境界を越えて、まるで一枚の絵画の中に導いていくようだった。
その先に、真紅の光景が広がる。
並木道を覆い尽くすように燃え盛る紅葉。ひとつひとつの葉が光を受けて透け、空の青と溶け合いながら鮮烈に輝いていた。春にはここが桜の並木道になるのだと、クレインが言っていた。だが今は、静かに燃ゆる紅のトンネル――“紅葉回廊”と呼ぶにふさわしい景色が、そこには広がっていた。
奏は、ふと息を飲む。思考が止まり、胸の内にひんやりとした風が吹き抜けるような感覚があった。
傍らには、さらさらと清らかに流れる川。水面は夕光を反射しながら揺れ、時おり舞い落ちる紅葉が、そのまま季節を流すように漂っていく。せせらぎの音は、遠くで鳴る鈴のように静かで、だがどこまでも澄んでいて、心の底まで沁みてくるようだった。
「……綺麗だろう」
その言葉が、耳元で優しく響く。クレインの声は、どこか得意げで、けれどもそれ以上に、奏にこの景色を見せられたことへの静かな安堵を含んでいた。
「うん……すごく、綺麗」
奏の声は、紅葉に気圧されてか、あるいは胸の奥にじわりと満ちる何かのせいか、やや遅れて返された。
彼の膝に、ふわりと一枚の紅葉が落ちてくる。深紅に染まった五つ葉。まるで誰かがそっと贈ってきたような、その静かな重みに、奏はそっと指を伸ばした。風にさらわれないように、そっとその葉を掴み、手のひらに包み込む。
風が吹く。
耳元でさらりと黒髪が揺れ、垂れた前髪が頬にかかる。指先で梳くようにしてかきあげたその髪は、ここに来た頃よりも確かに長くなっていた。まだ完全には結べない、中途半端な長さ。だけど、まるでそこに時間の証明があるようで、奏は無意識に頬を緩めた。
この数ヶ月、体が蝕まれ、心は閉ざされ、世界はただ白くて冷たいものばかりだった。
だけど、今――ここにいる自分は、風を感じている。色を、音を、手のひらの温度を感じている。
「これ……持って帰ってもいいかな。ノアに、あげる」
ぽつりと呟いた言葉には、照れと迷いと、ほんの少しの期待が混ざっていた。
こんな風に誰かに何かを“あげたい”と思うのは、どれだけ久しぶりだろう。
いつももらってばかりだった。
守られて、世話されて、叱られて、甘えさせてもらって──
けれど今日、自分の手でこの紅葉を拾い、自分の意思でそれを渡したいと思えた。
たったそれだけのことが、胸の奥をじんわりと温めていく。
「……きっと喜ぶ」
クレインの声は、先ほどよりもずっと柔らかかった。まるで何かを肯定するように、確信を持って奏の背中を押すようだった。
奏は紅葉をもう一度見下ろした。
まるで静まり返っていた水面に、一滴のインクが落ちたように──周囲の空気が微かに波打ち、ざわめいた。
奏が、病室を出た。
W03という番号が刻まれたその部屋は、病棟内でも特別視されていた。扉の前には常に看護師詰所の監視が張られ、一般スタッフの出入りは原則として禁止。運良く何かの交換に行けてもそのベッドの周りはカーテンがかかっている事が多く誰も奏の顔を見たことがない。だからか部屋には、「特別な患者がいる」という噂が絶えずささやかれていた。
──そして、今日、その“特別”が表に現れたのだ。
視線が、刺さる。
すれ違うスタッフや入院患者たちが、瞬間的に目を奪われては、無言のまま逸らす。誰も言葉を発さない。だが、明らかに、その歩みに引き寄せられていた。
奏は、車椅子に乗っていた。
押しているのはクレイン。白衣に身を包んだその背中もまた、ただ者ではない空気を纏っていた。ふたりの放つ存在感が、廊下の空気を圧し潰すように漂っている。
──それもそのはずだ。
奏の姿は、まさに“視覚的暴力”とも言えるほどだった。
陶器のような滑らかな肌。透き通るような白に、脆さと危うさが混じる。艶のある黒髪が肩に落ち、伏し目がちな眼差しはどこか儚げで、見つめてはいけないものを覗き込んでしまったような罪悪感すら抱かせる。整いすぎたその顔立ちは、日本人離れしているというより、西洋人形のようだった。
──そして、香り。
近くを通った者だけが気づく、ごく微かに甘く、しかし清冽な空気を纏ったその匂い。嗅覚すら侵す、彼の第二性──オメガの本能が、無意識に空間の重心を歪めていた。
「……あれが、W03……」
誰かが、小さく呟いた声が聞こえた気がした。だが、それ以上は誰も口を開かない。
近寄りたくても、近寄れない。
奏に課された接触制限──クレインによって明確に敷かれた境界線は、病棟中の誰もが理解していた。
「……帽子とマスクをしていた方が良かったな。こちらの配慮不足だ」
クレインが低く言う。
「クレインが気にすることじゃない」
奏はそれに淡々と返すが、その口元にはほんのわずか、緊張の跡が浮かんでいた。
当然だった。彼の姿を真正面から見たことのある者は、そう多くない。だが人は想像で美化する。見た者は、それを現実に昇華し、崇拝にも似た憧れを抱く──窓辺のご令息とまで呼ばれるその少年を、今、誰もが目撃していた。
エレベーターの前に立つと、クレインは制御盤にIDカードをかざす。『関係者以外立入禁止』のプレートが貼られたそのエレベーターは、一般職員の誰一人として使えない特殊ルートだった。車椅子が乗ると、静かに扉が閉まり、奏とクレインだけを東側の特別通路へと運ぶ。
「最近ノア来ねぇよな……」
ふと、奏が漏らす。
「忙しいんだ。連絡は来ていないのか?」
「しばらく顔を出せないってメールが来て、返したけど……未だに既読つかない」
「……そうか。元々そういう奴だ」
淡々としたクレインの返事には、安堵と釘刺しがないまぜになっていた。
エレベーターが静かに止まり、ふたりは東側の玄関へと出た。
“関係者以外立入禁止”の重たい自動扉が開いた瞬間──風が流れ込んできた。
外気。秋の匂い。土と木々の、微かに湿った匂い。夏の熱気が溶けて消え、風が色を変えたのが分かる。
「……外の空気、久しぶりに吸った」
奏が、小さく呟いた。
「そうか。この際、心置きなく吸っておけ」
クレインの声は、静かに笑んでいた。
ふたりの影が、秋の陽に溶けて伸びていく。
空は高く、雲ひとつなかった。
車椅子の車輪が、かすかに乾いた音を立てて進んでいく。滑らかに整備されたアスファルトの道は、医療施設の境界を越えて、まるで一枚の絵画の中に導いていくようだった。
その先に、真紅の光景が広がる。
並木道を覆い尽くすように燃え盛る紅葉。ひとつひとつの葉が光を受けて透け、空の青と溶け合いながら鮮烈に輝いていた。春にはここが桜の並木道になるのだと、クレインが言っていた。だが今は、静かに燃ゆる紅のトンネル――“紅葉回廊”と呼ぶにふさわしい景色が、そこには広がっていた。
奏は、ふと息を飲む。思考が止まり、胸の内にひんやりとした風が吹き抜けるような感覚があった。
傍らには、さらさらと清らかに流れる川。水面は夕光を反射しながら揺れ、時おり舞い落ちる紅葉が、そのまま季節を流すように漂っていく。せせらぎの音は、遠くで鳴る鈴のように静かで、だがどこまでも澄んでいて、心の底まで沁みてくるようだった。
「……綺麗だろう」
その言葉が、耳元で優しく響く。クレインの声は、どこか得意げで、けれどもそれ以上に、奏にこの景色を見せられたことへの静かな安堵を含んでいた。
「うん……すごく、綺麗」
奏の声は、紅葉に気圧されてか、あるいは胸の奥にじわりと満ちる何かのせいか、やや遅れて返された。
彼の膝に、ふわりと一枚の紅葉が落ちてくる。深紅に染まった五つ葉。まるで誰かがそっと贈ってきたような、その静かな重みに、奏はそっと指を伸ばした。風にさらわれないように、そっとその葉を掴み、手のひらに包み込む。
風が吹く。
耳元でさらりと黒髪が揺れ、垂れた前髪が頬にかかる。指先で梳くようにしてかきあげたその髪は、ここに来た頃よりも確かに長くなっていた。まだ完全には結べない、中途半端な長さ。だけど、まるでそこに時間の証明があるようで、奏は無意識に頬を緩めた。
この数ヶ月、体が蝕まれ、心は閉ざされ、世界はただ白くて冷たいものばかりだった。
だけど、今――ここにいる自分は、風を感じている。色を、音を、手のひらの温度を感じている。
「これ……持って帰ってもいいかな。ノアに、あげる」
ぽつりと呟いた言葉には、照れと迷いと、ほんの少しの期待が混ざっていた。
こんな風に誰かに何かを“あげたい”と思うのは、どれだけ久しぶりだろう。
いつももらってばかりだった。
守られて、世話されて、叱られて、甘えさせてもらって──
けれど今日、自分の手でこの紅葉を拾い、自分の意思でそれを渡したいと思えた。
たったそれだけのことが、胸の奥をじんわりと温めていく。
「……きっと喜ぶ」
クレインの声は、先ほどよりもずっと柔らかかった。まるで何かを肯定するように、確信を持って奏の背中を押すようだった。
奏は紅葉をもう一度見下ろした。
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