ZERO〜訳ありオメガ、軍人アルファに囲われて幸せになります〜

犬っころ

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五章

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窓の外は、すっかり闇に沈んでいた。
 時計の針は午前2時半を指している。中途半端で、妙に心許ない時間帯だった。

 ──喉が、乾いている。
 ──夢を、見ていた気がする。

 奏は、重たいまぶたをゆっくりと開いた。
 暗闇に目が慣れるまでの数秒、世界はぼんやりと滲んでいた。
 病室の天井は薄暗く、無機質な照明の非常灯が壁の隅をかすかに照らしていた。

 暑くも寒くもない、けれど居心地の悪い静けさ。
 空調の低い風音と、点滴スタンドのわずかな揺れ。
 それだけがこの空間に存在していた。

 布団の中から片腕を出す。
 指先が冷えていることに気づいて、奏はそこでやっと、自分が泣き疲れて眠っていたことを思い出す。
 目の奥が重い。頬はまだ湿っていた。

 「……なんで、起きたんだろ……」

 そう呟いた声も、やけに掠れていた。
 喉が引き攣れる。乾いて、詰まって、言葉すら吐き出すのが億劫だった。

 隣に誰かがいればよかった。
 ただ、背中をさすってくれるだけでもよかった。
 そんなこと、普段なら絶対に思わないのに──

 こういう時だけ、ずるいくらいに、さみしくなる。

 ──ノア。

 その名を心の中で呼んだ瞬間、胸が苦しくなる。
 遠ざけたのは自分だ。
 信じなかったのも、自分。
 あのとき「出ていけ」と叫んだのも、自分。

 でも、それでも、もう一度だけでもいいから、
 今この部屋に、そっと入ってきてほしかった。

 「……バカだな、俺」

 苦笑すら出なかった。
 腕で目を覆う。
 見えないものばかりに、こんなに痛めつけられるなんて。

 毛布をぐしゃりと抱きしめる。
 その柔らかさは何も慰めてくれなかったが、せめて冷えた体温を包んではくれた。

 ──あの女は誰? なんで、俺じゃないの?

 問いは夜に溶け、答えはどこにもなかった。
 奏は静かに、だが確かに、
 またひとつ深い孤独の井戸に、沈んでいく感覚を味わっていた。

 「……ノア、ばか……」

 誰にも届かない声を残して、

──眠れない。

 何度目か分からない寝返りの末、奏は毛布の中で小さく息を吐いた。
 喉の奥がきゅっと縮むように痛んで、空気を吸い込むだけで胸が重い。
 遠くで聞こえるナースステーションの足音や、消灯後の病院独特の機械音がやけに鮮明に耳に届く。
 眠りの世界から完全に置いていかれたような、そんな真夜中だった。

 横を向けば、誰もいない。
 ただの空間。冷えた空気と、壁と、天井。
 点滴の針の根元がじんわりと痛みを訴える。

 ふと、クレインが今夜、夜勤だということを思い出した。

 いつもなら、こんな時間に頼ろうなんて絶対に思わない。
 格好悪いし、みっともないし──なにより、そんな甘えを受け止めてもらえる資格なんて、自分にはないと思っていた。

 けれど、今夜だけは、違った。
 この沈黙に飲み込まれるくらいなら、誰かの声が聞きたかった。
 言葉じゃなくてもいい。ただ、そばにいてくれたら。

 震える指先で、スマホを手に取る。
 暗い画面に、自分の顔がぼんやり映っていた。目の下のくま、赤く腫れた目尻。
 こんな顔、見せたくなんてなかった。けど──

 それでも、打った。

 「来て」

 たった二文字。それだけ。
 でも、いまの奏にとっては、誰よりもプライドを削った“叫び”だった。

 送信ボタンを押したあと、しばらく震える手を握り締めていた。
 返事が来なくてもいい。来なければ、それはそれでいい。
 でも──もし、来てくれたら。

 そんな期待が、指先の温度をほんの少しだけ上げた。

 「……来るわけ、ないか」

 呟いた声が、また夜に溶けていった。

 メールを送ってから、ほんの一分も経っていなかった。

 だというのに──廊下の奥から、まるで地鳴りのような足音が近づいてくる。

 バタ、バタ、バタ──
 静まり返った病棟の夜を裂くような、その急迫した響きに、奏の胸がびくりと跳ねた。
 何かが駆けてくる。それも尋常ではない速度で。

 その予感は、すぐに現実になった。

 ノックの音すら省略され、病室のドアが内側に激しく開かれる。

 「──奏、何かあったのか!」

 勢いそのままに飛び込んできたのは、白衣のままのクレインだった。
 乱れた前髪、肩で荒く息を吐く呼吸。
 いつもは冷静なその顔が、今だけは明らかに動揺に染まっていた。

 手にはまだ仕事中だったのだろう、電子カルテ用の端末が握られていた。
 それを落としかけて、慌ててポケットに押し込む。
 彼がここまで感情を剥き出しにすることなど、ほとんどなかった。

 「……っ、違……違う……」

 思わずベッドの上で身体を起こした奏は、状況についていけず戸惑っていた。
 想像していた“静かに来てくれる”それとは、まるで違った。
ただ雑談相手にしたかっただけだ。

 「メール見て、即座に駆けてきた。お前が“来て”なんて言葉を吐くなんて、ただ事じゃないとしか思えなかった。何があった、体調か、痛みか、それとも──」

 「……ちがう……そうじゃない……」

 奏の声は、か細く震えていた。

 クレインの息が止まる。

 「……眠れなくて、それで……ごめん……」

 その一言に、クレインの全身から力が抜けた。

掠れた声で確認しながら、クレインはそっと病室の中に入り直し、ドアを音もなく閉めた。
 その背中が、先ほどの慌ただしさとは正反対に静かで、しかしどこか張り詰めたものを纏っていた。

 クレインは椅子を引き、奏のベッドの傍に腰を下ろした。
 何も言わずに

 「……なぁクレイン」

 しばらく押し黙っていた奏が、不意に声を漏らした。毛布の上に置かれた手が小さく震えていたが、それを隠すように指先をギュッと握る。

 「……あいつ、マジでありえねぇだろ」

 突然の愚痴は、涙を乾かすような火照りと苦味を孕んでいた。

 「さんざん俺に“お前しかいない”とか“見捨てない”とか、“お前の全部が欲しい”とか言ってたくせに、あの女と……なんだよ、あの距離感」

 口に出した瞬間、胸の奥に張りついていた塊が、熱を持って疼き出す。

 「何あれ? 撫でてんじゃねぇよ、頭。何ニコニコしてんだよ。」

 声が震える。だがもう止まらない。

 「俺、何? 病人ってだけ? 抱きたかっただけ? 運命の番だから義務感? “お前は特別だ”とか“お前だけだ”とか、簡単に言うくせに、都合が悪くなったら無視かよ……」

 クレインは一言も挟まず、ただ黙って聞いていた。その表情には一切の否定も諭しもなく、ただ「聞いている」という姿勢だけがあった。

 「……クソみたいに愛してるとか、言っといて。あいつ、平気な顔で他のやつに手ぇ伸ばせんだな。こっちは一人でぐちゃぐちゃになってんのに、平然と笑ってんの」

 声が詰まりそうになる。だけど、奏は吐き出さずにはいられなかった。

 「馬鹿みてぇだよな、俺。勝手に信じて、勝手に安心して、勝手に……こんな、惨めな気持ちになるとか……思ってなかったのに……」

 その言葉に、クレインはようやく静かに頷いた。

 「……ああ。ノアは最低だな」

 淡々としたその一言は、どこまでも優しく、どこまでも本気だった。

 「……そうだよな」

 奏は、俯いたまま目を閉じる。まるで、少しだけ息がしやすくなったかのように。

 「……最低なんだよ、あいつ……俺をこんな気持ちにさせといて、知らん顔かよ」

 「うん。……有り得ない」

 クレインの相槌は決して大げさでも、情に流されたものでもなかった。だがその静かな肯定が、どれだけ奏の心を救っているか──奏自身が一番わかっていた。

 ベッドの脇には、薄い白の点滴が静かに揺れていた。

 夜はまだ深く、窓の外にある海も公園も闇に沈んでいたが、その沈黙の中で、誰にも聞かせたことのない心の声だけが、確かにクレインの胸に届いていた。

 長い沈黙が、二人の間をゆっくりと流れた。

 点滴の滴る音だけが、夜の病室に小さく響く。そのリズムはまるで、奏の張り詰めた心のなかに潜む感情を、ひとしずくずつ解いていくかのようだった。

 そして──

 「一つ誤解がある」

 クレインの低い声が、夜の静寂を割った。

 「……は?」

 奏が顔を上げた。声は掠れていたが、そこには確かに“怒り”とは別の戸惑いが滲んでいた。

 「さっき、お前が見た“女”──あれはベロニカ・エーレルト。ノアが20歳の時、戦地で保護した子供だ」

その名が口にされた瞬間、奏の表情が一瞬だけこわばった。

 「……は?」

 「14歳の時、親を殺された。ノアが特殊作戦中に見つけた。命を救われた彼女は、そのまま米軍の保護を受け、ノアと同じように異例の入隊をとげた」

淡々と語られる事実。その一つひとつが、奏の胸の中に、氷のような冷たさで突き刺さっていく。

 「ずっと“師弟”だったんだ。お前が見たあの仕草も、親愛と敬意の裏返し──情愛とは違う。ベロニカも、ノアにとっては“戦場で守り抜いた部下”のひとりだ。それ以上でも以下でもない」

 「……なんで、それを……」

 「言おうとしたがお前が何も言うなと言っただろう。だから、てっきりベロニカの事を知ってるのかと思った」

クレインはそう言いながら、ゆっくりと椅子の背にもたれた。顔の表情は変わらないが、その目だけが、どこか申し訳なさそうに伏せられていた。

 「ノアは、誰かを守る時、徹底的に背負う。だから、言葉を選ぶ。……それに私たちは仕事柄、どこで何をしていたか。なんて言えないんだ」 

 「………………」

 奏は何も言わなかった。

 ただ、濁った瞳の奥で、何かが崩れかけていた。

 「お前が今、あいつに怒ってるのは当然だ。だが──“あれを見て傷ついた”なら、少しだけ、話を聞いてやる余地は残してもいいと思う」

 クレインの言葉は、命令でも、説得でもない。

 ただひとつの、祈りにも似た“導き”だった。

奏は、じっと両膝の上を見つめていた。

 指先が、わずかに震えている。クレインの言葉が終わってから、もう何分も経ったはずなのに、胸の奥に落ちた“事実”は、まだ完全には飲み込めていなかった。

 ──ベロニカは、ノアにとって部下。しかも、戦場で保護した少女。

 ノアは、彼女を「守る」立場にあった。ただそれだけ。

 それだけのはずなのに。

 「……俺……最低だな」

 ぽつりと漏れた独白は、誰に向けたわけでもない。それでも、クレインは無言のまま椅子の上で姿勢を崩さず、ただ耳を傾けていた。

 「勝手に……勘違いして、見たくもない妄想して、あいつに何も聞かずに……っ、怒鳴って、追い出して……」

 胸の奥から、何かがじわりと込み上げてくる。怒りでも、恥でもない。もっと鈍く、もっと深く、骨の中に滲むような後悔だった。

 「最初から信じてないのと一緒だよな……俺」

 あれほど好きだ、守りたい、味方だって言ってくれていたのに。
 ノアは、何ひとつ裏切っていなかった。
 裏切っていたのは、自分の方だったのだ。

 「……あいつ、きっと……すげぇ傷ついたよな……」

 ノアの表情を思い出そうとしても、怒った顔ではなく、ただ悲しそうに俯いたあの後ろ姿しか浮かばない。

 自分のせいで、あの人を悲しませた。
 それが、いちばんつらい。

 「……謝りたい」

 やっと絞り出したその一言に、クレインが静かに目を細めた。

 「ならば、自分の言葉で伝えろ。誰よりも、お前のその一言を待っているのは──あの男だ」

 奏は、顔を上げる。潤んだ目の奥にはまだ葛藤と戸惑いがあったが、それでも、わずかに震える口元は、何かを決意しかけていた。

 今はまだ、すぐに会う勇気はない。

 けれど──

 「……明日、会ったら……ちゃんと言う」

 それはかすかな決意表明だった。だが、クレインは満足そうに、ふっと鼻から息を抜いた。

 「それでいい」

 優しくもなく、特別な慰めもない、クレインらしい簡潔な返答。

 けれどそれは、少年の決意をまっすぐに受け止めた、確かな承認だった。

 病室の夜はまだ深く、静かに続いていた。
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