ZERO〜訳ありオメガ、軍人アルファに囲われて幸せになります〜

犬っころ

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五章

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 月は雲間から顔を覗かせ、まるで誰かの冷たい眼差しのように、夜の公園を静かに見下ろしていた。白く濁った光が、遊具の金属部分に淡く反射している。鎖のひとつひとつが微かに揺れ、冷気を帯びた夜風にさらされるたび、カチリ……と寂しげな音を立てていた。

 ブランコの上に腰掛ける奏は、手のひらで冷たいチェーンを包み込むように握りしめながら、じっと夜空を仰いでいた。

 眠れない夜の逃避行。そのはずだった。だが今は、眠気どころか、脳の隅々まで冷たい現実が染み渡っていた。夜の静寂が、むしろ不安や自責を鋭利に研ぎ澄ます。

 ノアの未読表示。あの公園で見た光景。ベロニカの笑顔、撫でた頭。──そして自分の、取り返しのつかない過去。

 感傷と自己嫌悪の渦に沈み込みながら、風に巻き上げられるように少しだけ揺れるブランコは、まるで自分の心の不安定さをそのまま反映しているようだった。

 ──その時、だった。

 ブランコの足元に、ひとつの影がすっと伸びた。

 最初はただの木の揺らぎかと思った。だが確かに、それは“人”の形をしていた。月明かりに照らされながら、静かに、けれども確実に近づいてくる気配。奏は、反射的に身構えた。

 「……瀬戸、かりん……」

 口をついて出た名前に、自分でも驚いた。気づかないうちに、彼女の輪郭を認識していたらしい。

 グレーのパーカーのフードを深くかぶり、視線を隠すようにうつむいた彼女が、月光に照らされた。

 「警戒しないで」

 けれどその姿は、数日前に見た病人のそれではなかった。両手には小さなリュック。肩で息をし、足元は土埃にまみれている。パーカーの袖口から覗く腕には点滴の跡もなく、すでに病棟の制限を超えて、彼女はここにいる。

 「……あなたも脱走組?」

 かりんはそう言って笑った。その声音には、どこか壊れたガラスのような脆さと、焦燥が滲んでいた。

 ──違う。俺は、こいつとは違う。

 奏の中で、はっきりとした拒絶の感情が芽を吹いた。似たような背景を持つように見えるその姿に、自分を重ねたくなかった。

クレインへ一方的に連絡は入れたものの許可は降りていない。

 「……俺は、許可もらって来てる。お前と一緒にされたくない」

 言葉は冷たく吐き捨てた。だが、それは彼女を突き放すためというより、自分の心を守るためだった。かりんのように、壊れていくのが怖かった。

 かりんは一瞬だけ俯いたが、次の瞬間、静かに顔を上げて口を開いた。

 「……ごめんごめんって。じゃぁ、私、行くね──美桜さんが、待ってるから」

 その名前が空気を裂いた瞬間、奏の背筋がびくりと震えた。あの女の名は、いまや自分の中で“母”という言葉とはかけ離れた意味で、確実に棘のように刺さっている。

 「……戻るのか? また、あいつの元に?」

 かりんは、ゆっくりと首を横に振った。

 「違うわ。──私は……“ぶち壊しに行く”の。あそこにはまだ沢山の仲間が私のようになってる」

 その目に宿った光は、恐ろしいほど澄んでいた。怒りでも復讐心でもない。もっと根深い、“自分の人生を取り戻す”という意志が、彼女の表情に宿っていた。

 「私ね、あなたに言われてやっと気づいたの。どれだけ自分が縛られていたか、どれだけ“選ばされてきたか”。美桜さんの言葉を信じて、甘えて、思考を止めていた。でももう……私、自分で考える。不幸なフリはやめる。」

 そう言って彼女は、ポケットからしわくちゃの紙切れを取り出し、奏の手の中に強引に押しつけた。

 「これ、私の飛ばしの番号。協力してちょうだい。貴方は私のジョーカーになれる、これから私が嘘の報告や裏のある誘いをする時はあなたを御影くんって呼ぶ。それ以外は」

「奏でいい」

 彼女はポケットから数年前の、通話とメッセージのやり取りしかできないものを出した。奏は一瞬だけ躊躇したが、黙ってその紙を受け取る。何も言わず、それをポケットにしまった。

彼女は顔に以前のような弱々しさはない。

 「気に入った」

奏がそういうとかりんは「あら、ありがとう」と嫌味ったらしく言う。
 その時、木々の奥から人の声がした。──追手だ。

 かりんの背筋が緊張し、一瞬だけその場から駆け出しかける。

 「待て。俺は反対側から来た。──俺の足跡に重ねて歩け。誤魔化してやる」

 奏が言い終わる前に、かりんはうなずいた。顔には涙が滲んでいたが、笑っていた。彼女の決意と恐怖が入り混じった笑顔に、何かが胸の奥を刺した。

 「ありがとう……。行ってくる」

 走り出す足音。湿った地面に残された足跡に、彼女の足が慎重に重ねられていく。月光の中、かりんの背がすっと公園の出口に向かって小さくなっていく。

 そして。

遠くから懐中電灯のあかりがうっすらと見える。

 奏は、ブランコの上でじっとそれを見つめながら、もう一度、ポケットの中の紙切れに触れた。

 「……行け。ぶち壊してこい」

 その呟きは、夜風に溶けながら、誰かの背中を確かに押した。
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