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六章
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「……シートベルト、して」
かりんは短くそう言うと、片手でコンソールボックスをまさぐり、ひとつの小さなパッケージを奏の膝の上にぽん、と置いた。
見るからに人工的な光沢を放つパッケージには、金色の筆記体で気取ったブランド名が印刷されている。そのすぐ下に、派手なフォントで《熟成バナナ味》と書かれていた。
「……ゼリー?」
「うん。はい、あなたの分」
そう言って自分の分も取り出すと、かりんは片手で器用にフィルムを剥がし、キャップ部分を口にくわえた。
ハンドルを片手で操りながら、もう片方の手でゼリーをぎゅっと押し出す。白っぽい半透明の液体がずるりと吸い込まれていく。
──その直後だった。
「うっわ、まっず……!」
思わず咳き込むようにしてかりんが顔をしかめる。眉間に深い皺を寄せて、口元を押さえたその仕草は、どこか本気で苦痛そうだった。
「……バナナとゼリーなんてさ、相性最悪じゃん……なに考えて買ったんだよ」
不満たっぷりに言いながら、それでも吐き出すことはせず、かりんはぐっと飲み込む。その一連の動作が、なぜか微笑ましくも痛々しかった。
奏はパッケージを眺めたまま無言だったが、やがて、ぷっと鼻で笑った。
「気になったって……味じゃなくて、見た目だけで買っただろ」
「そりゃあね。高級って書いてあったし……色がかわいかったの。ピンクと金色のパッケージって、なんか縁起良さそうじゃない?」
かりんは冗談めかしてそう言い、視線を前方に戻す。夜の街灯が流れるようにフロントガラスを過ぎ、二人の顔をちらりと照らす。
車内にはバナナの甘ったるい香料の匂いがほんのりと漂い始めていた。だがそれが、どこかひどく“現実感”を欠いた空気を作り出していた。これから何をするのか、どこへ行くのか、そんな緊張の気配が、この妙にチープなゼリーの存在で和らいでいる──いや、かりんがわざとそう仕向けているのかもしれない。
「……あんた、変なとこで律儀だな」
「あなたもね。ちゃんとゼリー受け取るなんて」
「そりゃ胃が弱いからな」
「お互い、お腹に優しい関係ってことね」
かりんの軽口に、奏は吹き出しそうになったが、すぐに口元を引き結ぶ。こうしている今も、心の底には引っかかるものがある。それでも、彼女のこの薄く張り詰めた明るさを、いま壊したくはなかった。
「そう。いかにも胃に優しそうでしょう? 一応、高級品らしいわよ。コンビニで千円近くしたの」
「……うっわ、まじでまっっず……」
奏もかりんを見習ってゼリーのキャップを開けると吸い込んだ。
見せるほどの人工的な甘味がつんと鼻に来る。
「ほんとにバナナとゼリーなんて相性最悪だろ。見ればわかるのになんで買ったんだよ」
「気になったのよ。最近、あんまり食べられないから。──っていうか、私もZEROのおかげで内臓ボロボロなのよ。あんたより酷いかもね。一時期は医者に“これは死ぬやつだな”とか言われたし。被検体扱いだったわ」
そう言って彼女は胸を張るが、笑いの下に隠しているのは自嘲だとすぐに分かる。冗談交じりの口調にも滲む切実さに、奏は少しだけ眉をひそめた。
「……今でも固形物食ったら吐くから。あ、食べ終わったら後ろに積んでる防水袋、あれ着替え入ってるんだけどさ。中身見て」
奏が振り返って袋を開けると、真っ黒な防刃ベストと、光沢の少ないグレーのサバイバルナイフ、さらに奇妙にマットな質感のジャケットが入っていた。
「これ、レインコート?」
「一応ね。血がついても染みないし、何より服っぽく見えるでしょ?街中歩いてても違和感ないように出来てるの。これが今の流行りよ」
「うげぇ……お前、なんでそんなもん知ってんだよ」
奏の問いに、かりんは視線を前に向けたまま、ふっと笑う。
「私、半年前まで、芸能人のマネージャーやってたの。知ってる?あのCM──レモンサワー持って“果実まるごと!”とか叫んでる女優。あの人の担当だったのよ」
「……あー……知ってる。飲んで痛い目見た……」
奏の脳裏には鬼のように怒るクレインとノアの顔が蘇った。
「ま、オメガってバレてクビになったけどね。1回、薬落としてそれで現場のスタッフが密告したのよ。“あの人、オメガらしいよ”って。それだけで、あの女優は私を切った。即日で。“気持ち悪い”って。これで給料未払いだったらぶち殺すところだった。」
奏はゼリーのゴミをダッシュボードのポケットに押し込みながら、目を細めた。
「……止めなかったのか、その女優。マネージャーとしてのあんたに情はなかったんか」
「あるわけないじゃない。差別に決まってる。おまけに、あの女、裏じゃいろんな芸人と寝てたくせにね。全部知ってたのに、黙っててやったのに」
「はいはい、芸能界の裏話は聞きたくないっての。胸焼けしそうだわ」
「でもね、奏──あなたの顔なら、モデルもできたと思うよ」
その一言はあまりに唐突で、奏は軽く咳き込んだ。
「……どんな話の流れだよ。ってか、褒められても喜ばねーし」
「別に褒めてない。戦場の人間って、顔立ち整ってる率高いから。あなたもその枠ね」
無遠慮で、けれどどこか優しさのあるかりんの言葉に、奏は肩をすくめた。再び後部座席の袋に手を伸ばすと、今度は残りの装備を確認する。ベストを内側に、レインコートを羽織り、サバイバルナイフを入っていた腰のホルスターに装着する──。
──そしてもう一つ、妙にずっしりとした布製の物体が袋に残っていた。
「……なぁ、これ何」
「砂詰めの即席止血具よ。真ん中で繋がってるでしょ?腿の内側に巻きつけて固定して。太ももには大動脈が通ってる。斬られたら、数分で出血死。でも、これ巻いておけばワンチャンある。戦場の救命術よ」
「いや、お前どこでそんな知識仕入れてんだよ」
「そのレモンサワー女優、今度は刑事ドラマの主演なの。監修付きでね。小道具の選定と調達任されたのが最後の仕事だった。脚本、プロップ、全部叩き込まれてさ」
「うわ……。しかもそれ、俺ちょっと見ようと思ってたドラマなんだけど」
「おすすめはしない。裏切る役は最初に出てくる、青いジャケット着た同期よ。犯人は二話目で出てくるカフェの客」
「お前、性格悪いにもほどがあるだろ……」
「ありがとう」
心から嬉しそうに笑うかりんの横で、奏は黙ってシートベルトを締め直した。
エンジンの低くうなる音が、夜の沈黙を破りながら走り出す。
車内のエアコンがわずかに鳴り、フロントガラスには夜の街の灯りが斑に映っていた。狭い空間に沈黙が数秒漂ったあと、不意にかりんが、まるで思い出したように口を開く。
「……ねぇ、奏。これからの流れ、ちゃんと説明しとくね」
助手席に座る奏が、ゼリーの蓋を指で弄りながらちらりと目線だけを送る。
「今から、NPO法人わかばを抜けて──天明堂のZERO製造施設に潜入する。例の地下通路を通ってね。で、そこでやることは大きく三つ」
かりんはハンドルに両手を置いたまま、声を抑えるようにして続けた。
「一つ目。製造ラインの内部の写真を撮る。できるだけ細部まで。機械の構造、薬品の表示ラベル、労働者の様子……ZEROが違法に製造されてるって、誰が見ても分かるように証拠を残す」
「ふつーに危ねぇな……」
「ふつーに危ないわよ?」
軽く肩を竦めながら、かりんは唇を曲げて笑った。だがその目は真剣だった。視線の奥に宿るのは、演技ではない憎悪。──そして執念。
「で、二つ目。製造ラインの停止」
「どうやって?」
「……バナナゼリーをぶちまけるの」
奏はその場で息を飲んだ。
「はァ!? バナナゼリーって、お前……」
「そう。あなたの大嫌いな、あのまずったるいバナナゼリーよ。わざわざ買って、荷台にケースで積んできたの。あれはね、生産ラインの“食品製造区分”を汚染するための爆弾なの。ゼリーといえど、異物混入の扱いになる。粘性もあるし、掃除と検査だけで1週間は止まるって聞いたわ。最悪、機材ごと交換よ」
「……そんな方法、思いつくのお前ぐらいだろ……」
「ありがとう、褒め言葉として受け取るわ」
ふざけた調子でそう言いつつも、その横顔にはひと欠片の冗談も滲んでいなかった。
「そして、三つ目──これが最も重要。オメガたちの救出よ。あそこに監禁されてる子たちは、ほとんどが“失踪扱い”の少女たち。戸籍も潰されて、家族もいない、社会的に“存在してない”ってことにされてる。薬を打たれて、発情させられて、輪姦されてる子もいる。……そんなの、終わらせなきゃいけない。絶対に」
奏は、口の中が急激に苦くなるのを感じた。
「俺が……その現場に入る意味って、あるか?」
「あるに決まってる。あなたが“上位オメガ”で、しかも生き残ってるって事実そのものが、彼女たちにとって希望よ。あんたが入って話して、触れて、動画を撮る。そのすべてが証拠になるし、彼女たちにとっての“証人”になる。……無理はさせない。でも、できることはして欲しい」
かりんは一瞬だけ目を伏せて、ハンドルを握る手に力をこめた。
「それが終わったら、即警察に行くわ。動画と証拠写真、あなたの証言、私の身元、それにあのクソ女の裏帳簿──すべて叩きつける。最終的には“警察”という武器を使うの。どんな大物でも、あれには勝てない」
「……」
「怖いなら逃げてもいい。でも、私は行く。あの女に、終止符を打ちに」
奏はしばらく黙っていたが、やがて静かに息を吐いた。
「……やっぱお前、頭ぶっ飛んでるな」
「それ、今さら言う?」
「でも……いいぜ。全部、やろう。逃げる気なんて、最初からねぇ」
「そうこなくっちゃ、唐辛子スプレーも何本か買っておいたから。腰のホルスターまだ空きがあるでしょう?入れておきなさい」
そして奏はその禍々しい赤い缶をホルスターに入れる。
二人は視線を交わさなかった。ただ同じ方向を見て、まっすぐに進んでいく。
車内の空気が、わずかに重くなったのは、その言葉の直前だった。
「あんた、顔に出そうだから……先に言っておくわね」
不意に、かりんの声が沈む。これまでの皮肉や軽口に混じっていた“余裕”の成分が、一滴残らず消えていた。
「──美桜さん、あんたのこと、殺すつもりだって。何を言われても感情的にならないでね。そして私は計画を遂行するために助けられない所もある。そして奏を利用する」
静かに吐き出されたその言葉が、車内に鋭く突き刺さる。ダッシュボードのLEDの光が、奏の顔をうっすら照らしていた。目が見開かれることはなかった。だがその瞳の奥で、何かが深く沈んでいく音がした。
「……は?」
わかっていたはずの現実に、名前がついた瞬間、現実はナイフになる。
「“幸せそうな顔しやがって”って、怒り狂ってたよ。あんたがノアに守られて、愛されて、VIP対応受けてるって分かった時の顔……すごかったわ。狂犬が血の匂い嗅ぎつけたみたいだった」
かりんの手はハンドルをしっかりと握っていたが、指先にはじっとりとした汗が滲んでいた。
「これから、あんたはZEROの最終実験に回される予定。何でそんなに長生きしてるのか、どこが普通のオメガと違うのか、どれくらい投与すれば壊れるのか──全部、解剖して確かめるつもりらしいよ。で、終わったら……」
言い淀む。ハンドルを握る手が、一瞬だけ震えた。
「子宮、取られる。そのあと、性奴隷として生き延びることになる。ううん、“生かされる”って表現が正しいのかもね」
車内の空気が、ぐらりと傾いたように思えた。鼓膜の裏で、どくどくと血の音が響く。言葉の重さに、体の奥の何かがざらついた。
「──最悪だな」
奏は笑わなかった。ただ、ふっと吐息だけを漏らして、目を細める。そのまま口角をわずかに歪めて、皮肉交じりに言った。
「……もし、その筋書き通りになったら、お前が責任もって俺を買い取れよ。せめて知ってる奴に飼われる方がマシだろ?」
かりんは笑わなかった。
赤信号で車が停まり、窓の外をネオンが静かに流れていく。かりんは真正面を見据えたまま、小さく、そして静かに呟いた。
「……その時は、私も隣で繋がれてるはずだわ」
信号が青に変わる。加速音が路面に響き、マフラーが夜を割った。
静かな絶望と覚悟が、二人の間に張りつめた空気のように漂っていた。
「奴隷の先輩として俺の事は01番って呼べよ、そんで敬え」
「なんで17のあんたを敬わないと行けないの。私、24歳。せめて後輩として私のことは02番って呼んで可愛がってちょうだいね」
かりんは短くそう言うと、片手でコンソールボックスをまさぐり、ひとつの小さなパッケージを奏の膝の上にぽん、と置いた。
見るからに人工的な光沢を放つパッケージには、金色の筆記体で気取ったブランド名が印刷されている。そのすぐ下に、派手なフォントで《熟成バナナ味》と書かれていた。
「……ゼリー?」
「うん。はい、あなたの分」
そう言って自分の分も取り出すと、かりんは片手で器用にフィルムを剥がし、キャップ部分を口にくわえた。
ハンドルを片手で操りながら、もう片方の手でゼリーをぎゅっと押し出す。白っぽい半透明の液体がずるりと吸い込まれていく。
──その直後だった。
「うっわ、まっず……!」
思わず咳き込むようにしてかりんが顔をしかめる。眉間に深い皺を寄せて、口元を押さえたその仕草は、どこか本気で苦痛そうだった。
「……バナナとゼリーなんてさ、相性最悪じゃん……なに考えて買ったんだよ」
不満たっぷりに言いながら、それでも吐き出すことはせず、かりんはぐっと飲み込む。その一連の動作が、なぜか微笑ましくも痛々しかった。
奏はパッケージを眺めたまま無言だったが、やがて、ぷっと鼻で笑った。
「気になったって……味じゃなくて、見た目だけで買っただろ」
「そりゃあね。高級って書いてあったし……色がかわいかったの。ピンクと金色のパッケージって、なんか縁起良さそうじゃない?」
かりんは冗談めかしてそう言い、視線を前方に戻す。夜の街灯が流れるようにフロントガラスを過ぎ、二人の顔をちらりと照らす。
車内にはバナナの甘ったるい香料の匂いがほんのりと漂い始めていた。だがそれが、どこかひどく“現実感”を欠いた空気を作り出していた。これから何をするのか、どこへ行くのか、そんな緊張の気配が、この妙にチープなゼリーの存在で和らいでいる──いや、かりんがわざとそう仕向けているのかもしれない。
「……あんた、変なとこで律儀だな」
「あなたもね。ちゃんとゼリー受け取るなんて」
「そりゃ胃が弱いからな」
「お互い、お腹に優しい関係ってことね」
かりんの軽口に、奏は吹き出しそうになったが、すぐに口元を引き結ぶ。こうしている今も、心の底には引っかかるものがある。それでも、彼女のこの薄く張り詰めた明るさを、いま壊したくはなかった。
「そう。いかにも胃に優しそうでしょう? 一応、高級品らしいわよ。コンビニで千円近くしたの」
「……うっわ、まじでまっっず……」
奏もかりんを見習ってゼリーのキャップを開けると吸い込んだ。
見せるほどの人工的な甘味がつんと鼻に来る。
「ほんとにバナナとゼリーなんて相性最悪だろ。見ればわかるのになんで買ったんだよ」
「気になったのよ。最近、あんまり食べられないから。──っていうか、私もZEROのおかげで内臓ボロボロなのよ。あんたより酷いかもね。一時期は医者に“これは死ぬやつだな”とか言われたし。被検体扱いだったわ」
そう言って彼女は胸を張るが、笑いの下に隠しているのは自嘲だとすぐに分かる。冗談交じりの口調にも滲む切実さに、奏は少しだけ眉をひそめた。
「……今でも固形物食ったら吐くから。あ、食べ終わったら後ろに積んでる防水袋、あれ着替え入ってるんだけどさ。中身見て」
奏が振り返って袋を開けると、真っ黒な防刃ベストと、光沢の少ないグレーのサバイバルナイフ、さらに奇妙にマットな質感のジャケットが入っていた。
「これ、レインコート?」
「一応ね。血がついても染みないし、何より服っぽく見えるでしょ?街中歩いてても違和感ないように出来てるの。これが今の流行りよ」
「うげぇ……お前、なんでそんなもん知ってんだよ」
奏の問いに、かりんは視線を前に向けたまま、ふっと笑う。
「私、半年前まで、芸能人のマネージャーやってたの。知ってる?あのCM──レモンサワー持って“果実まるごと!”とか叫んでる女優。あの人の担当だったのよ」
「……あー……知ってる。飲んで痛い目見た……」
奏の脳裏には鬼のように怒るクレインとノアの顔が蘇った。
「ま、オメガってバレてクビになったけどね。1回、薬落としてそれで現場のスタッフが密告したのよ。“あの人、オメガらしいよ”って。それだけで、あの女優は私を切った。即日で。“気持ち悪い”って。これで給料未払いだったらぶち殺すところだった。」
奏はゼリーのゴミをダッシュボードのポケットに押し込みながら、目を細めた。
「……止めなかったのか、その女優。マネージャーとしてのあんたに情はなかったんか」
「あるわけないじゃない。差別に決まってる。おまけに、あの女、裏じゃいろんな芸人と寝てたくせにね。全部知ってたのに、黙っててやったのに」
「はいはい、芸能界の裏話は聞きたくないっての。胸焼けしそうだわ」
「でもね、奏──あなたの顔なら、モデルもできたと思うよ」
その一言はあまりに唐突で、奏は軽く咳き込んだ。
「……どんな話の流れだよ。ってか、褒められても喜ばねーし」
「別に褒めてない。戦場の人間って、顔立ち整ってる率高いから。あなたもその枠ね」
無遠慮で、けれどどこか優しさのあるかりんの言葉に、奏は肩をすくめた。再び後部座席の袋に手を伸ばすと、今度は残りの装備を確認する。ベストを内側に、レインコートを羽織り、サバイバルナイフを入っていた腰のホルスターに装着する──。
──そしてもう一つ、妙にずっしりとした布製の物体が袋に残っていた。
「……なぁ、これ何」
「砂詰めの即席止血具よ。真ん中で繋がってるでしょ?腿の内側に巻きつけて固定して。太ももには大動脈が通ってる。斬られたら、数分で出血死。でも、これ巻いておけばワンチャンある。戦場の救命術よ」
「いや、お前どこでそんな知識仕入れてんだよ」
「そのレモンサワー女優、今度は刑事ドラマの主演なの。監修付きでね。小道具の選定と調達任されたのが最後の仕事だった。脚本、プロップ、全部叩き込まれてさ」
「うわ……。しかもそれ、俺ちょっと見ようと思ってたドラマなんだけど」
「おすすめはしない。裏切る役は最初に出てくる、青いジャケット着た同期よ。犯人は二話目で出てくるカフェの客」
「お前、性格悪いにもほどがあるだろ……」
「ありがとう」
心から嬉しそうに笑うかりんの横で、奏は黙ってシートベルトを締め直した。
エンジンの低くうなる音が、夜の沈黙を破りながら走り出す。
車内のエアコンがわずかに鳴り、フロントガラスには夜の街の灯りが斑に映っていた。狭い空間に沈黙が数秒漂ったあと、不意にかりんが、まるで思い出したように口を開く。
「……ねぇ、奏。これからの流れ、ちゃんと説明しとくね」
助手席に座る奏が、ゼリーの蓋を指で弄りながらちらりと目線だけを送る。
「今から、NPO法人わかばを抜けて──天明堂のZERO製造施設に潜入する。例の地下通路を通ってね。で、そこでやることは大きく三つ」
かりんはハンドルに両手を置いたまま、声を抑えるようにして続けた。
「一つ目。製造ラインの内部の写真を撮る。できるだけ細部まで。機械の構造、薬品の表示ラベル、労働者の様子……ZEROが違法に製造されてるって、誰が見ても分かるように証拠を残す」
「ふつーに危ねぇな……」
「ふつーに危ないわよ?」
軽く肩を竦めながら、かりんは唇を曲げて笑った。だがその目は真剣だった。視線の奥に宿るのは、演技ではない憎悪。──そして執念。
「で、二つ目。製造ラインの停止」
「どうやって?」
「……バナナゼリーをぶちまけるの」
奏はその場で息を飲んだ。
「はァ!? バナナゼリーって、お前……」
「そう。あなたの大嫌いな、あのまずったるいバナナゼリーよ。わざわざ買って、荷台にケースで積んできたの。あれはね、生産ラインの“食品製造区分”を汚染するための爆弾なの。ゼリーといえど、異物混入の扱いになる。粘性もあるし、掃除と検査だけで1週間は止まるって聞いたわ。最悪、機材ごと交換よ」
「……そんな方法、思いつくのお前ぐらいだろ……」
「ありがとう、褒め言葉として受け取るわ」
ふざけた調子でそう言いつつも、その横顔にはひと欠片の冗談も滲んでいなかった。
「そして、三つ目──これが最も重要。オメガたちの救出よ。あそこに監禁されてる子たちは、ほとんどが“失踪扱い”の少女たち。戸籍も潰されて、家族もいない、社会的に“存在してない”ってことにされてる。薬を打たれて、発情させられて、輪姦されてる子もいる。……そんなの、終わらせなきゃいけない。絶対に」
奏は、口の中が急激に苦くなるのを感じた。
「俺が……その現場に入る意味って、あるか?」
「あるに決まってる。あなたが“上位オメガ”で、しかも生き残ってるって事実そのものが、彼女たちにとって希望よ。あんたが入って話して、触れて、動画を撮る。そのすべてが証拠になるし、彼女たちにとっての“証人”になる。……無理はさせない。でも、できることはして欲しい」
かりんは一瞬だけ目を伏せて、ハンドルを握る手に力をこめた。
「それが終わったら、即警察に行くわ。動画と証拠写真、あなたの証言、私の身元、それにあのクソ女の裏帳簿──すべて叩きつける。最終的には“警察”という武器を使うの。どんな大物でも、あれには勝てない」
「……」
「怖いなら逃げてもいい。でも、私は行く。あの女に、終止符を打ちに」
奏はしばらく黙っていたが、やがて静かに息を吐いた。
「……やっぱお前、頭ぶっ飛んでるな」
「それ、今さら言う?」
「でも……いいぜ。全部、やろう。逃げる気なんて、最初からねぇ」
「そうこなくっちゃ、唐辛子スプレーも何本か買っておいたから。腰のホルスターまだ空きがあるでしょう?入れておきなさい」
そして奏はその禍々しい赤い缶をホルスターに入れる。
二人は視線を交わさなかった。ただ同じ方向を見て、まっすぐに進んでいく。
車内の空気が、わずかに重くなったのは、その言葉の直前だった。
「あんた、顔に出そうだから……先に言っておくわね」
不意に、かりんの声が沈む。これまでの皮肉や軽口に混じっていた“余裕”の成分が、一滴残らず消えていた。
「──美桜さん、あんたのこと、殺すつもりだって。何を言われても感情的にならないでね。そして私は計画を遂行するために助けられない所もある。そして奏を利用する」
静かに吐き出されたその言葉が、車内に鋭く突き刺さる。ダッシュボードのLEDの光が、奏の顔をうっすら照らしていた。目が見開かれることはなかった。だがその瞳の奥で、何かが深く沈んでいく音がした。
「……は?」
わかっていたはずの現実に、名前がついた瞬間、現実はナイフになる。
「“幸せそうな顔しやがって”って、怒り狂ってたよ。あんたがノアに守られて、愛されて、VIP対応受けてるって分かった時の顔……すごかったわ。狂犬が血の匂い嗅ぎつけたみたいだった」
かりんの手はハンドルをしっかりと握っていたが、指先にはじっとりとした汗が滲んでいた。
「これから、あんたはZEROの最終実験に回される予定。何でそんなに長生きしてるのか、どこが普通のオメガと違うのか、どれくらい投与すれば壊れるのか──全部、解剖して確かめるつもりらしいよ。で、終わったら……」
言い淀む。ハンドルを握る手が、一瞬だけ震えた。
「子宮、取られる。そのあと、性奴隷として生き延びることになる。ううん、“生かされる”って表現が正しいのかもね」
車内の空気が、ぐらりと傾いたように思えた。鼓膜の裏で、どくどくと血の音が響く。言葉の重さに、体の奥の何かがざらついた。
「──最悪だな」
奏は笑わなかった。ただ、ふっと吐息だけを漏らして、目を細める。そのまま口角をわずかに歪めて、皮肉交じりに言った。
「……もし、その筋書き通りになったら、お前が責任もって俺を買い取れよ。せめて知ってる奴に飼われる方がマシだろ?」
かりんは笑わなかった。
赤信号で車が停まり、窓の外をネオンが静かに流れていく。かりんは真正面を見据えたまま、小さく、そして静かに呟いた。
「……その時は、私も隣で繋がれてるはずだわ」
信号が青に変わる。加速音が路面に響き、マフラーが夜を割った。
静かな絶望と覚悟が、二人の間に張りつめた空気のように漂っていた。
「奴隷の先輩として俺の事は01番って呼べよ、そんで敬え」
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