ZERO〜訳ありオメガ、軍人アルファに囲われて幸せになります〜

犬っころ

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六章

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 「おやすみ」とクレインと交わした会話の余韻が、まだ耳に残っている。

 だが──奏はその直後から、ひとり密かに“準備”を始めていた。

 ベッドの下からそっと引き出したのは、銀色の光を放つロール。伊月にねだった品物だった。

 「トースターはあるのに、アルミホイルがねぇとパンも焼けねぇんだよ」と言い訳して持ってきてもらったそれは、いまや奏の“鍵”になっていた。

 病室内には三箇所、センサーが設置されている。ドアの上部、ベッドの天井裏、そしてトイレの天井。

 奏は一枚、また一枚と、アルミホイルを重ねていく。折り畳んでは密着させ、さらに重ね、粘着テープで貼りつける。精密機器の受信感度を奪うには、厚みと密閉性が何よりも重要だった。どの箇所も万が一バレれば即通報対象だ。慎重に、音を立てず、そして何よりも迅速に。

 ──これで、ここは“無人”になる。

 奏は胸の奥を震わせながら、最後のテープを貼り終えた。

 時計は、23時30分を回っていた。

 予定通りだ。

 ベッドの下に用意しておいたスニーカーを履き、しっかりと靴紐を結ぶ。その手つきは、まるで戦場に赴く兵士のように無駄がなかった。窓の鍵を静かに外す。音が出ないよう、指先に力を分散させながら、そっと窓を押し開けると──冷たい夜風が頬を撫でた。

 4階。およそ15メートルの高さ。

 通常なら迷う高さだ。だが今の奏にとって、この窓しか出口はなかった。

 ──“そこしかなかった”のだ。

 病院内は数日前のかりんの脱走騒動で、前例のないほど厳戒態勢が敷かれていた。出入り口はロック強化され、職員用通路には監視がついた。

 窓を出るしか、道はない。

 奏は深く息を吸い込むと、窓枠にそっと足をかける。見下ろす地面は、遠く、深く、冷たい。だが迷いはなかった。

 壁に這うように設置された配管が、下まで続いている。点検用に設けられた太いパイプ。手の届く場所にあるそれを、奏は迷わず掴んだ。

 片手ずつ、慎重に、だが迷わず降りていく。

 金属が冷たい。指先の感覚が次第に鈍くなっていく。けれど、その痛みこそが“生きている”という証拠に思えた。

 ──カラン、とどこかで小石が落ちるような音がしたが、奏は振り返らなかった。

 そして、ついに。

 「……よし」

 地面に足をつけたその瞬間、息を吐いた。安堵というより、決意の吐息だった。

 奏は身を屈め、物陰を縫うように走り出す。すでに視界には、基地の壁が見えている。

 【正面、BC7の壁にいる】

 スマホに短くメッセージを打ち込み、再び走る。誰かに送ったその文面が、まるで自分を追い詰める呪文のようだった。

 ――かりんは本当に来るのか? 本当に“壊しに”行くつもりなのか?

 胸の奥に渦巻く不安と疑念を振り払うように、奏は地面を蹴った。走るたび、スニーカーが土を削る音が心臓の鼓動と混ざる。

 その姿は、ただ逃げているのではない。

 ──選び取ったんだ。自分の足で、出口を。

ただ無我夢中で夜の紅葉の下を走っていた。

ノアとクレインに対する、申し訳なさがないわけじゃなかった。むしろ、それは胸の奥にひどく澱んでいる。

 ──あの人たちは俺を、本気で守ろうとしてくれていた。

 そう分かっている。分かっているのに。

 夜風に身をさらしながら走るこの身体のどこにも、罪悪感を止まらせるブレーキは備わっていなかった。ただ全身が前へ、前へと命令してくる。もはや感情よりも衝動のほうが強かった。

 “ここまで来て、もう止まれるわけがない。”

 背中を押していたのは、怒りでも、憎しみでもない。もっとずっと深くて、曖昧で、脆いものだった。

 ──かりんが、美桜に終止符を打ちに行く

 美桜。母親。俺を産んだ存在でありながら、俺の存在を利用し、壊し、棄てた女。

 そんな彼女を、他人の少女──あの夜、公園で偶然出会った、声の震える彼女が──わざわざ命懸けで終わらせようとしているのだ。

 「……それでいいのかよ、俺」

 思わず、声が漏れる。誰も聞いていない夜の空に、呆れにも似た声がにじんで溶けた。

 本来なら、その“ケリ”をつけるのは俺のはずだった。

 息子である自分が、真正面から母親と向き合い、あの地獄のような年月に決着をつけるべきだった。どれだけ逃げようと、どれだけ言い訳を並べようと、それは変わらない。

 なのに──

 その役割を、他でもないかりんに背負わせようとしている。

 彼女は、俺と違って何の血も繋がっていない。ただ、“同じように壊された”というだけで、自らその火の中へ飛び込もうとしている。

 その背に、すべてを預けるような形で。

 ──そんなの、フェアじゃない。

 たとえ、俺が彼女の踏み台になるだけでもいい。かりんが本気で“終わらせたい”と願うなら、俺はその計画に乗る。乗って、支える。そして、ちゃんと自分の足で立って、終わらせる。

 たとえノアに──

 あの、低くて静かな声で「どうしてお前は」と問い詰められるとしても。

 たとえクレインに──

 無表情のまま淡々と「最低だな」と吐き捨てられるとしても。

 それでも構わない。

 どれだけ嫌われたっていい。どれだけ軽蔑されたっていい。

 自分が、自分の母親にケリをつけられないまま、“誰か”にそれを託して済ませた男であることのほうが──よっぽど惨めだった。

 たとえ、その選択が全部間違いで、誰にも救われないとしても。

 「……これは俺の罪だ。俺が、やらなきゃならない」

 吐き出すように、そう呟く。

 そしてまた、走った。

 月の光に晒されながら、風に喉を焼かれながら、罪と責任の両方を背負った足音が、静まり返った基地の外れに響き続けていた。

 正面、BC7と刻まれたコンクリートの壁が、冷たい灰色の影を落としてそびえ立っていた。見慣れたはずのその壁が、今夜は異様な緊張を孕んだまま、静かに夜の空気を睨んでいるようだった。

 その壁に、一本の赤い紐が垂れ下がっていた。まるで暗がりに浮かぶ血のような、その鮮やかな赤。風に揺れ、まるで誘うようにたゆたうそれを、奏は無言で見上げた。

 監視カメラには、手際よく巻きつけられたアルミホイルが光を反射している。その角度、範囲、完璧だった。そして壁の下部、格子のように組まれていた鉄製の補強フレームは、何者かの手によって切断され、わずかに口を開いていた。すべてが“用意されていた”逃走ルート──否、破壊工作だった。

 かりんの仕業に違いない。

 奏はしばし息を止める。無数の思考が胸をかすめる中で、それでも手は赤い紐へと伸びていた。ぎゅ、と掌に感触を掴むと、足元の地を蹴る。

 壁を登る。足先がコンクリートを蹴るたび、靴底が砂利を擦る音が響く。腕が軋み、掌が焼けるように痛む。だが痛みに構う余裕などなかった。這い上がるそのたび、心臓が胸を突き上げる。呼吸は乱れ、背中には汗がにじむ。

 ──その時、上から影が伸びた。

 「奏!」

 声がした。夜気の向こうから降り注ぐ灯りに照らされて、そこにいたのは、かりんだった。

 細い身体を前のめりにして、赤い紐を必死に押さえている。風に揺れる髪が夜の闇に踊り、表情は強い決意に染まっていた。

 奏が壁の縁に手を掛けると、かりんはその腕を掴み、ぐっと引き上げる。彼の体が壁の上へと滑り込むように引き上げられた。

そして挨拶を交わす間もなくかりんが掛けたハシゴで次は壁を降りた。

目の前には、禍々しくもどこか愛嬌のある車体があった。

 それは、一目見ただけで“ただの車じゃない”と分かる代物だった。

 夜の街灯がそのボディに映り込み、派手なパールピンクの塗装がどこかネオン街の喧騒を思わせた。鋭く跳ね上がったボンネットのライン、地を這うような低い車高、むき出しのマフラーから漏れる重低音はまるで獣の咆哮のようだった。車は生きていた。その姿には、女の子らしいかわいさと、破壊衝動のような狂気が同居していた。

 「……来てくれて、良かった」

 かりんはそう言って微笑んだ。だがその顔には疲労の色と焦燥、そしてどこか覚悟のような静けさが混ざっていた。

 「助手席に乗ってちょうだい。……最後の晩餐、用意してあるの。もちろん、胃に優しい高級ゼリーよ。あなたが食べられるように」

 助手席のドアが、軽い音を立てて開いた。まるで誘うように。

 奏は数秒間、何も言わずに車を見つめていた。けれど、その目にはもう迷いはなかった。静かに足を進めると、座席に身を滑り込ませ、ドアを閉めた。

 ──エンジンが唸る。

 高鳴る心臓の音と車の鼓動が、シンクロするかのように重なっていった。
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