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一章
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蓮は自室の引き出しを荒く開け放ち、埃の匂いのする財布の奥から、自分名義のキャッシュカードを一枚だけ抜き取った。それを確認もせず、ジーンズのポケットに雑に突っ込む。まるでそれが命綱であるかのように。
吐き出すように息をついてから、勢いよく部屋の扉を開け、廊下を全力で駆ける。もう靴下のままだった。扉が壁にぶつかる音も、絨毯を蹴る足音も、気にならなかった。とにかく早く──今すぐ、病院へ。
玄関の扉を勢いよく引く。冷たい風が鼻を刺すように吹き抜けた。外の空気はやけに乾いていて、朝方の陽差しが逆に苛立たしかった。
玄関の靴箱の上に、置いたばかりのスマホがあることには気づかず、そのまま、振り返りもせず門へ向かって走る。無意識に全身が焦りに突き動かされていた。胸の奥をかき乱す不安が、理性より早く脚を動かしていた。
いつもは厳重に見張られているはずの門番の姿も、今日はなぜか見当たらない。本家の周囲を清掃しているはずの組員の影もなかった。
まるで、誰かがこの瞬間だけを意図的に空白にしたかのように。
「……嘘だろ……」
独り言のような呟きが口からこぼれる。門の重たい鉄扉の前で立ち止まり、蓮はほんの一瞬、足を止める。だがすぐに、鉄格子の隙間から誰もいない通りを確認し、決意するように拳を握った。
止まっている時間なんかない──
あいつが呼んでる気がする。
あの子が、俺を待ってる。
走れ。考えるのはその後だ。
蓮は門の閂を外し、無理やり扉を押し開けて、外へと飛び出した。
門を抜けると、視界が一気に開けた。まるで檻から放たれた小動物のように、蓮は舗装された私道をひた走る。まだ午前の空気が残る中、冷たい風が頬を裂くように吹きつける。だが足は止まらない。いや、止められるわけがなかった。
すぐ目の前にあった小さなコンビニ。馴染みの看板の明かりが、今日は妙に心許なく見えた。自動ドアをすり抜けるように中へ入ると、レジ横のATMにまっすぐ向かい、キャッシュカードを突っ込む。画面の表示がもどかしいほど遅く感じた。
「……早く……」
かすれた声が喉から漏れる。
1万円だけ。それ以上は下ろしている時間もない。
指が震えてうまくタッチできず、何度も数字を打ち直す羽目になった。ようやく現金が吸い出されるように出てきた瞬間、蓮は財布にも入れず、レシートすら無視してそれをポケットに突っ込む。
そして店を飛び出す。
ちょうど店先に停まっていた一台のタクシー。
運転席の窓を拳でコンコンと叩きながら、運転手の顔もろくに見ずに叫ぶ。
「中央の私立病院まで……!かっ飛ばして下さい!」
言葉を放った瞬間、息が詰まった。
心臓の鼓動が、耳の奥で爆音のように鳴っていた。
ハンドル越しに見えた初老の運転手が軽く頷いたが、蓮はもうその返答すらちゃんと聞いていなかった。タクシーの後部座席に身体を滑り込ませた途端、両手が膝の上で震えているのに気がついた。
それは、寒さのせいではなかった。
血の気が引いていく指先。
病院からの着信──
嫌な予感が、喉元で膨れ上がっていた。
「……雅也、待ってて……」
車が動き出す振動の中で、蓮は小さく呟いた。
追い立てられるようにして。
何かを、祈るようにして。
タクシーの車内。
肌にまとわりつくような不安が、蓮の呼吸を重たくしていた。
信号で止まった瞬間、耐えきれずに口を開く。
「……弟が……死ぬかもしれない」
声は震え、喉に引っかかりながらも何とか言葉になった。
それを聞いた運転手が、ルームミラー越しにちらりと蓮の顔を確認する。
「……そらぁ一大事だな」
次の瞬間、信号が青に変わると同時に、車は猛然と加速した。
重たく沈むような加速。エンジンが吠える。
「よっしゃ、俺のドラテクの見せどころだ。しっかり掴まってな、若ぇの!」
そう言い放った運転手の目は、本気だった。
蓮はシートに押しつけられるようなGを受けながら、しがみつくようにシートベルトを握り締めた。
街が弾丸のように流れ、風景はもはや残像と化す。
信号の変わり目も、追い越しも、すべてが綱渡りのようなスリル。
だが、蓮の脳裏には雅也の顔しかなかった。
──早く、早く、早く……。
そして到着。
タイヤが焦げたような匂いを残して車が停車する。
「着いたぞ!」
「ありがとう!」
蓮は勢いよくドアを開けて飛び降りると、財布から無造作に下ろしたての1万円札を引き抜いて運転席に差し出した。
「釣り……」
言いかけた運転手を遮るように、蓮は笑って言った。
「おっちゃんのドラテク、しっかり見せてもらったから……それでいい」
そして運転手がまだ小銭入れを探している間に、蓮はもう背を向けていた。
白い建物の自動ドアへと、全力で走る。
金より時間が惜しい。今は一秒でも早く──雅也のもとへ。
「頼む、間に合ってくれ……!」
蓮の叫びは声にならず、胸の内で爆ぜていた。
車の中に取り残された運転手は、少しだけ目を細めて呟いた。
「若ぇの、悲劇的な顔すんな……お前は充分いいお兄ちゃんだ」
そしてタクシーは何事も無かったのように通常業務へと戻って行った
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