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第四章 唯
第一話
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夕方、夕輝が峰湯を手伝っていると、知らない男がやってきた。
風呂に入りに来たのではないようだ。
渋い灰色の羽織を着た恰幅のいい四十代くらいの男で、目が細く笑っているような顔をしていた。
その後ろに、前掛けをつけた痩せぎすの三十代後半くらいの男が風呂敷包みを抱えて従っている。
「ちょっと窺いますが、親分さんはいらっしゃいますかね」
四十代くらいの男の方が仙吉に声をかけた。
「へい。いやす。どちらさまで」
「橋本屋伊左衛門というものです」
「少々お待ち下せぇ」
仙吉はそう言うと母屋の方へ行き、すぐに戻ってきた。
「こちらで」
男達を案内して中へ入っていった。
夕輝がそのまま手伝っていると、
「夕ちゃん、ちょっといいかい?」
お峰が出てきた。
お峰について母屋に入ると、さっきの男達がいた。
「おう、夕輝、こちら橋本屋さんだ」
夕輝は訳が分からないまま頭を下げた。
「お里ちゃんの親御さんだよ」
お峰が言い添えた。
お里の親が怒鳴り込んでくるような事した覚えはないんだけど……。
「娘に訊いたのですが、天満様は剣術の達人だとか」
「いえ、そんな大層なものでは……」
文句を言いに来たわけじゃないのか。
でも、なぜお里が自分のことを剣術の達人などと思ってるのか不思議だった。
お里の前では戦ったことはないはずだが。
「盗賊が捕まるまでの間で構いませんからうちに寝泊まりしていただけないでしょうか」
「え?」
「橋本屋さん、盗賊の中にいる侍ぇは一人だけじゃねぇんだ。夕輝一人泊まったところでどうにもならねぇぜ」
「剣術の達人が寝泊まりしているとなれば盗賊も手を出してこないんじゃないでしょうか」
「けどなぁ。どうする夕輝」
「ただとはもうしません」
橋本屋はそう言うと、懐から白い紙包みを出した。
「これでいかがでしょう」
夕輝にはそれがなんなのか見当もつかなかった。
「金のこと言ってんじゃねぇんだよ」
お金だったのか。
「やられるって分かっててみすみす夕輝を危ねぇところにやるわけにはいかねぇってんだよ」
「天満様はどう思われてるんでしょう」
橋本屋が夕輝の方を向いた。
「俺で役に立てるんならやってもいいですけど、平助さんの言ってるように侍が一人じゃないなら俺がいてもどうにかなるかどうか……」
「うちには女子供もいます。安心を買いたいんです。どうしても駄目でしょうか」
そこまで言われると夕輝としても断りづらい。
平助は腕組みをして考え込んでいる。
お峰は眉をひそめていた。
お峰としては夕輝をそんな危ないところへ行かせたくないようだ。
「本当に、寝泊まりするだけで役には立たないかもしれませんよ。それでもいいですか」
「もちろんです。よろしくお願いします」
橋本屋と後ろの男が畳に手をついて頭を下げた。
「平助さん、お峰さん、いいですか?」
「夕輝が決めたんならしょうがねぇな」
「無理はしないって約束してくれるね」
「はい。気を付けます」
橋本屋は平助や夕輝と打合せをすると帰っていった。
「じゃあ、夕輝、これはお前のだ」
平助は橋本屋が置いていった紙包みを「五両ってとこだな」と言いながら夕輝に渡した。
「あ、これはお峰さんに。食費の足しにして下さい」
「夕ちゃん、そんな気を遣わなくてもいいんだよ。これは夕ちゃんが取っておおき」
「これがありゃ、シジミやウナギ捕る必要ねぇんだぜ」
「でも、俺、そんなにお金必要じゃないし、これは俺の食費って事で」
「欲がねぇなぁ」
「そこまで言うなら一応預かっとくよ」
お峰はそう言うと紙の包みを手にした。
「行くときは太一も連れてけ。戦力にはならなくても、なんかの役には立つだろう」
その日から夕輝と太一は橋本屋の一階の帳場に寝泊まりすることになった。
打合せで、橋本屋一家や奉公人達は二階で寝ることにし、盗賊が押し込んできたら夕輝は二階へ上がる階段のところで応戦、太一は盗賊の隙を突いて逃げ出し平助のところへ知らせに行くことになった。
昼間はいる必要がないので、夕方、暮れ六つの少し前に橋本屋に行くことになった。
太一と一緒に日本橋大伝馬町の橋本屋へ向かっているときだった。
往来で牢人と思われる小豆色のような何とも言えない色の着物を着た男が、土下座をしている女性と、その女性にしがみついて泣いている小さな女の子に向かって怒鳴っていた。
女性と女の子は母子のようだ。
どうやら女の子が牢人の刀にぶつかったらしい。
「閂差しでこんな人通りの多いとこ歩いてりゃぶつかって当然だろ」
「あいつ、またやってるな」
「ああやって金をせびってるんだよ」
閂差しというのは地面と平行に刀を差すことらしい。
確かに普通は地面に垂直に近い形に差す落とし差しにするものだから、閂差しにしてたという事は最初からぶつかった人にいちゃもんを付けるつもりだったに違いない。
遠巻きにして見ている野次馬がひそひそと話している。
牢人は刀を持っているので、町人は迂闊に助けに入れないのだ。
「どうしてくれる! え!」
「申し訳ございません」
「謝ってすむものではない!」
「申し訳ございません。これでなんとか……」
女性が巾着を差し出した。
牢人は笑みを浮かべてそれを取り上げ、中を見ると、女性に叩き付けた。
「それがしを愚弄するのか!」
牢人が刀に手をかけた。
夕輝が母子の前に飛び出した時、羽織袴で二本差しの青年が牢人の後ろに立って刀の鞘の先端を持ち上げた。
牢人が刀を抜こうとしたが、抜けなかった。
「何やつ!」
牢人が振り返った。
「女子供相手に抜いたとあっては刀が泣くというもの。ここは引いてもらえまいか」
青年が穏やかな声で言った。
牢人は刀の柄を握ったまま青年を睨んでいたが、やがて抜くのを諦めると腹立たしそうな表情で行ってしまった。
野次馬達が喝采する。
「兄貴、大丈夫でやすかい」
太一がそばにやってきた。
青年が親子の方に寄ってきたので夕輝はよけた。
すっと通った鼻筋に知的な光をたたえた瞳、きりっとした口元。
それでいて優しげな顔立ちをしていた。
どこかで会ったことあったかな。
見覚えあるような気がするのだが思い出せなかった。
風呂に入りに来たのではないようだ。
渋い灰色の羽織を着た恰幅のいい四十代くらいの男で、目が細く笑っているような顔をしていた。
その後ろに、前掛けをつけた痩せぎすの三十代後半くらいの男が風呂敷包みを抱えて従っている。
「ちょっと窺いますが、親分さんはいらっしゃいますかね」
四十代くらいの男の方が仙吉に声をかけた。
「へい。いやす。どちらさまで」
「橋本屋伊左衛門というものです」
「少々お待ち下せぇ」
仙吉はそう言うと母屋の方へ行き、すぐに戻ってきた。
「こちらで」
男達を案内して中へ入っていった。
夕輝がそのまま手伝っていると、
「夕ちゃん、ちょっといいかい?」
お峰が出てきた。
お峰について母屋に入ると、さっきの男達がいた。
「おう、夕輝、こちら橋本屋さんだ」
夕輝は訳が分からないまま頭を下げた。
「お里ちゃんの親御さんだよ」
お峰が言い添えた。
お里の親が怒鳴り込んでくるような事した覚えはないんだけど……。
「娘に訊いたのですが、天満様は剣術の達人だとか」
「いえ、そんな大層なものでは……」
文句を言いに来たわけじゃないのか。
でも、なぜお里が自分のことを剣術の達人などと思ってるのか不思議だった。
お里の前では戦ったことはないはずだが。
「盗賊が捕まるまでの間で構いませんからうちに寝泊まりしていただけないでしょうか」
「え?」
「橋本屋さん、盗賊の中にいる侍ぇは一人だけじゃねぇんだ。夕輝一人泊まったところでどうにもならねぇぜ」
「剣術の達人が寝泊まりしているとなれば盗賊も手を出してこないんじゃないでしょうか」
「けどなぁ。どうする夕輝」
「ただとはもうしません」
橋本屋はそう言うと、懐から白い紙包みを出した。
「これでいかがでしょう」
夕輝にはそれがなんなのか見当もつかなかった。
「金のこと言ってんじゃねぇんだよ」
お金だったのか。
「やられるって分かっててみすみす夕輝を危ねぇところにやるわけにはいかねぇってんだよ」
「天満様はどう思われてるんでしょう」
橋本屋が夕輝の方を向いた。
「俺で役に立てるんならやってもいいですけど、平助さんの言ってるように侍が一人じゃないなら俺がいてもどうにかなるかどうか……」
「うちには女子供もいます。安心を買いたいんです。どうしても駄目でしょうか」
そこまで言われると夕輝としても断りづらい。
平助は腕組みをして考え込んでいる。
お峰は眉をひそめていた。
お峰としては夕輝をそんな危ないところへ行かせたくないようだ。
「本当に、寝泊まりするだけで役には立たないかもしれませんよ。それでもいいですか」
「もちろんです。よろしくお願いします」
橋本屋と後ろの男が畳に手をついて頭を下げた。
「平助さん、お峰さん、いいですか?」
「夕輝が決めたんならしょうがねぇな」
「無理はしないって約束してくれるね」
「はい。気を付けます」
橋本屋は平助や夕輝と打合せをすると帰っていった。
「じゃあ、夕輝、これはお前のだ」
平助は橋本屋が置いていった紙包みを「五両ってとこだな」と言いながら夕輝に渡した。
「あ、これはお峰さんに。食費の足しにして下さい」
「夕ちゃん、そんな気を遣わなくてもいいんだよ。これは夕ちゃんが取っておおき」
「これがありゃ、シジミやウナギ捕る必要ねぇんだぜ」
「でも、俺、そんなにお金必要じゃないし、これは俺の食費って事で」
「欲がねぇなぁ」
「そこまで言うなら一応預かっとくよ」
お峰はそう言うと紙の包みを手にした。
「行くときは太一も連れてけ。戦力にはならなくても、なんかの役には立つだろう」
その日から夕輝と太一は橋本屋の一階の帳場に寝泊まりすることになった。
打合せで、橋本屋一家や奉公人達は二階で寝ることにし、盗賊が押し込んできたら夕輝は二階へ上がる階段のところで応戦、太一は盗賊の隙を突いて逃げ出し平助のところへ知らせに行くことになった。
昼間はいる必要がないので、夕方、暮れ六つの少し前に橋本屋に行くことになった。
太一と一緒に日本橋大伝馬町の橋本屋へ向かっているときだった。
往来で牢人と思われる小豆色のような何とも言えない色の着物を着た男が、土下座をしている女性と、その女性にしがみついて泣いている小さな女の子に向かって怒鳴っていた。
女性と女の子は母子のようだ。
どうやら女の子が牢人の刀にぶつかったらしい。
「閂差しでこんな人通りの多いとこ歩いてりゃぶつかって当然だろ」
「あいつ、またやってるな」
「ああやって金をせびってるんだよ」
閂差しというのは地面と平行に刀を差すことらしい。
確かに普通は地面に垂直に近い形に差す落とし差しにするものだから、閂差しにしてたという事は最初からぶつかった人にいちゃもんを付けるつもりだったに違いない。
遠巻きにして見ている野次馬がひそひそと話している。
牢人は刀を持っているので、町人は迂闊に助けに入れないのだ。
「どうしてくれる! え!」
「申し訳ございません」
「謝ってすむものではない!」
「申し訳ございません。これでなんとか……」
女性が巾着を差し出した。
牢人は笑みを浮かべてそれを取り上げ、中を見ると、女性に叩き付けた。
「それがしを愚弄するのか!」
牢人が刀に手をかけた。
夕輝が母子の前に飛び出した時、羽織袴で二本差しの青年が牢人の後ろに立って刀の鞘の先端を持ち上げた。
牢人が刀を抜こうとしたが、抜けなかった。
「何やつ!」
牢人が振り返った。
「女子供相手に抜いたとあっては刀が泣くというもの。ここは引いてもらえまいか」
青年が穏やかな声で言った。
牢人は刀の柄を握ったまま青年を睨んでいたが、やがて抜くのを諦めると腹立たしそうな表情で行ってしまった。
野次馬達が喝采する。
「兄貴、大丈夫でやすかい」
太一がそばにやってきた。
青年が親子の方に寄ってきたので夕輝はよけた。
すっと通った鼻筋に知的な光をたたえた瞳、きりっとした口元。
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どこかで会ったことあったかな。
見覚えあるような気がするのだが思い出せなかった。
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