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春 一
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「次はこれよ」
義母がそう言って文を織子の前に置く。
二年前、織子は母の妹に引き取られた。
織子は和歌が上手かったので一度義理の姉の匡の代わりに短歌を詠んだところ、その歌が評判になった。
それ以来、義母に言われて織子は匡の代詠――歌を代わりに詠んでいた。
男女が直接会うことが出来ないため、男性にモテる基準の一つは歌が上手いことである。
それで匡には男性から文が送られてくるようになった。
その返事に添える歌も織子が詠んでいる。
「これはどういう方からですか? 叔父様はこの方のことをどうお思いなのですか?」
と義母に訊ねた。
「そうね……この方は出世するかしら」
義母が逆に訊ねてきた。
「それは陰陽師に占っていただいた方が……」
「歌の出来を聞いているのです!」
義母が飲み込みが悪い織子を咎めるように睨むと説明を始めた。
「昔、ある人が官職を希望したとき、その人の母親が、
思へ君 かしらの雪を うちはらひ 消えぬさきにと いそぐ心を
(年老いた自分が消えてしまう前に息子に一人前になって安心させてほしいと焦る気持ちを思いやってください)
と言う歌を関白様の北の方様に送ったところ、その歌を聞いた関白様がいたく感動されて官職を与えてくださったのよ」
義母が言った。
それは母親が詠んだのだから男性の歌の才は関係ないのでは……。
しかも贈られた妻と関白の二人は、贈った母親と昔からの知り合いである。
長い付き合いがあったのだから歌が関係あったとは思えない。
と、思ったが織子は黙っていた。
その他にも義母は色々言っていたが、要は歌が上手いと出世にも多少影響するという事らしい。
男性にとっては漢詩の方が重要らしいが歌を評価されて出世した例もなくはないので上手いに越したことはないそうだ。
「で、この方はどうなのですか」
義母の問いに、
「そうですねぇ」
織子が考え込む。
歌が詠めるのと、上手いか下手かが分かるのは別だ。
織子はまだ判断が付くほど歌に長けているわけではない。
そのとき匡が部屋に入って来た。
外出していたので普段邸の中にいる時ほど沢山は重ねていないがそれでも唐衣の華やかな衣装を纏っている。
「お帰りなさい、歌会はどうだった?」
義母が匡に声を掛けた。
二人が話し始めたので織子が部屋を出ようとすると、
「織子様、明後日までに花の歌を何首か詠んでおいてくださいな」
匡が言った。
名前に「子」が付くのは官位を持っているか帝か皇子の妃だけなのだ。
義母や匡の名前には「子」は付かないが織子は位階があるので「子」が付いている。
つまり織子は匡の義理の妹ではあるが身分は織子の方が高いと言う事である。
それで義母達は織子を様付けで呼んでいるのだ。
「明後日?」
織子が聞き返す。
「明後日、お寺に行くと言ってあったでしょう」
義母が言った。
確かに帝の行幸があるとは聞いていたが歌会ではなかったはずだ。
「それはお花見では……」
「お花見に春宮様がお忍びでいらっしゃるそうなのよ」
匡がうっとりとした表情で言った。
春宮というのは次の帝である皇太子の別名である。東宮と書く場合もある。
「花を愛でて歌を詠むのよ」
匡と義母が言った。
なるほど……。
春宮が近くにいる時にさりげなく良い歌を詠んで関心を引こうという事らしい。
昔から帝の妃というのは女性の夢だから匡だけではなく、義母も憧れていたに違いない。
義母はもう無理だから娘に望みを託しているのだろう。
帝は春宮への譲位を考えているらしいので次の帝である春宮の妃を狙っているのだ。
織子には義母と匡の憧れは理解出来なかったが、自分が帝や春宮と顔を合わせることはないのだから関係ない。
織子は承諾すると歌を詠むために庭に足を向けた。
庭の桜は満開だった。
花霞む……花霞み……。
「聞いてますか!」
母の言葉で貴晴は我に返った。
聞いてません、とは答えられないので、
「はい」
と殊勝(に見え)そうな表情で答える。
「そろそろ妻がいてもいい頃ですよ。誰か考えている人はいないのですか」
母が続ける。
貴晴が元服してから何年も経つのに浮いた噂が全くないからやきもきしているのだろう。
だが貴晴は女性に興味がない。
貴晴としては歌を詠んでいられれば満足だし出世したいと思ったこともない。
だが父や母は跡継ぎを作って欲しいと思っているようだし貴晴は一人っ子だ。
貴晴が作らなければ跡継ぎは出来ない。
とはいえ、向こうとしては子供を残さないで欲しいと思ってるだろうな……。
「今お話しした管大納言の大姫はどうかと思うのです」
「……は?」
「やはり聞いてなかったのですね!」
「ち、違います!」
貴晴は慌てて手を振った。
「そうではなく……父上の身分をお考えください。大納言の姫とでは釣り合いませんよ」
大納言は正三位。
〝管〟は名字である。
四人いるので区別のために名字などを付けて区別するのだ。同じ名字がいる時は筆頭に〝一の〟とか、一番新しく大納言になったものに〝新〟などを付ける。
大納言より上は摂政関白と大臣だけだ。
摂政と関白は常にいるわけではない。
常設の大臣は三人(太政大臣と左大臣と右大臣)、それと稀に内大臣が任命されることがある。
つまり大納言より上は普通は三人、多くても五人なのだ。
何百人もいる貴族の上から四番目(くらい)なのだからほぼ頂点と言っていい。
「何を言っているのですか、あなたは……」
母が言い掛けたのを貴晴は軽く手を上げて止める。
義母がそう言って文を織子の前に置く。
二年前、織子は母の妹に引き取られた。
織子は和歌が上手かったので一度義理の姉の匡の代わりに短歌を詠んだところ、その歌が評判になった。
それ以来、義母に言われて織子は匡の代詠――歌を代わりに詠んでいた。
男女が直接会うことが出来ないため、男性にモテる基準の一つは歌が上手いことである。
それで匡には男性から文が送られてくるようになった。
その返事に添える歌も織子が詠んでいる。
「これはどういう方からですか? 叔父様はこの方のことをどうお思いなのですか?」
と義母に訊ねた。
「そうね……この方は出世するかしら」
義母が逆に訊ねてきた。
「それは陰陽師に占っていただいた方が……」
「歌の出来を聞いているのです!」
義母が飲み込みが悪い織子を咎めるように睨むと説明を始めた。
「昔、ある人が官職を希望したとき、その人の母親が、
思へ君 かしらの雪を うちはらひ 消えぬさきにと いそぐ心を
(年老いた自分が消えてしまう前に息子に一人前になって安心させてほしいと焦る気持ちを思いやってください)
と言う歌を関白様の北の方様に送ったところ、その歌を聞いた関白様がいたく感動されて官職を与えてくださったのよ」
義母が言った。
それは母親が詠んだのだから男性の歌の才は関係ないのでは……。
しかも贈られた妻と関白の二人は、贈った母親と昔からの知り合いである。
長い付き合いがあったのだから歌が関係あったとは思えない。
と、思ったが織子は黙っていた。
その他にも義母は色々言っていたが、要は歌が上手いと出世にも多少影響するという事らしい。
男性にとっては漢詩の方が重要らしいが歌を評価されて出世した例もなくはないので上手いに越したことはないそうだ。
「で、この方はどうなのですか」
義母の問いに、
「そうですねぇ」
織子が考え込む。
歌が詠めるのと、上手いか下手かが分かるのは別だ。
織子はまだ判断が付くほど歌に長けているわけではない。
そのとき匡が部屋に入って来た。
外出していたので普段邸の中にいる時ほど沢山は重ねていないがそれでも唐衣の華やかな衣装を纏っている。
「お帰りなさい、歌会はどうだった?」
義母が匡に声を掛けた。
二人が話し始めたので織子が部屋を出ようとすると、
「織子様、明後日までに花の歌を何首か詠んでおいてくださいな」
匡が言った。
名前に「子」が付くのは官位を持っているか帝か皇子の妃だけなのだ。
義母や匡の名前には「子」は付かないが織子は位階があるので「子」が付いている。
つまり織子は匡の義理の妹ではあるが身分は織子の方が高いと言う事である。
それで義母達は織子を様付けで呼んでいるのだ。
「明後日?」
織子が聞き返す。
「明後日、お寺に行くと言ってあったでしょう」
義母が言った。
確かに帝の行幸があるとは聞いていたが歌会ではなかったはずだ。
「それはお花見では……」
「お花見に春宮様がお忍びでいらっしゃるそうなのよ」
匡がうっとりとした表情で言った。
春宮というのは次の帝である皇太子の別名である。東宮と書く場合もある。
「花を愛でて歌を詠むのよ」
匡と義母が言った。
なるほど……。
春宮が近くにいる時にさりげなく良い歌を詠んで関心を引こうという事らしい。
昔から帝の妃というのは女性の夢だから匡だけではなく、義母も憧れていたに違いない。
義母はもう無理だから娘に望みを託しているのだろう。
帝は春宮への譲位を考えているらしいので次の帝である春宮の妃を狙っているのだ。
織子には義母と匡の憧れは理解出来なかったが、自分が帝や春宮と顔を合わせることはないのだから関係ない。
織子は承諾すると歌を詠むために庭に足を向けた。
庭の桜は満開だった。
花霞む……花霞み……。
「聞いてますか!」
母の言葉で貴晴は我に返った。
聞いてません、とは答えられないので、
「はい」
と殊勝(に見え)そうな表情で答える。
「そろそろ妻がいてもいい頃ですよ。誰か考えている人はいないのですか」
母が続ける。
貴晴が元服してから何年も経つのに浮いた噂が全くないからやきもきしているのだろう。
だが貴晴は女性に興味がない。
貴晴としては歌を詠んでいられれば満足だし出世したいと思ったこともない。
だが父や母は跡継ぎを作って欲しいと思っているようだし貴晴は一人っ子だ。
貴晴が作らなければ跡継ぎは出来ない。
とはいえ、向こうとしては子供を残さないで欲しいと思ってるだろうな……。
「今お話しした管大納言の大姫はどうかと思うのです」
「……は?」
「やはり聞いてなかったのですね!」
「ち、違います!」
貴晴は慌てて手を振った。
「そうではなく……父上の身分をお考えください。大納言の姫とでは釣り合いませんよ」
大納言は正三位。
〝管〟は名字である。
四人いるので区別のために名字などを付けて区別するのだ。同じ名字がいる時は筆頭に〝一の〟とか、一番新しく大納言になったものに〝新〟などを付ける。
大納言より上は摂政関白と大臣だけだ。
摂政と関白は常にいるわけではない。
常設の大臣は三人(太政大臣と左大臣と右大臣)、それと稀に内大臣が任命されることがある。
つまり大納言より上は普通は三人、多くても五人なのだ。
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