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夏 五
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今度返事をしなければ諦められてしまうかもしれない。
義母は気乗りしないようだが貴晴が諦めずに文を贈ってきてくれれば気が変わるかもしれない。
まぁ文が贈られたのは匡なのだが、そうだとしても――。
なんとかして返歌だけでも伝えられないかしら……。
文を読んでいる(匡ではないが)、そして返歌も詠んだと知ってもらえれば諦めないでくれるかもしれない。
しかし――。
「私が無断で返事を書くことは出来ないし……」
織子は溜息を吐いた。
紙は高価で貴重だから簡単には手に入らないのだ。
当然、織子も文に使えるような紙など持っていない。
文を書きたければ義母に頼んで譲ってもらうしかないが、そうなると内緒で返事を書くのは無理だ。
それに織子には乳母子もいないし、文を届けに行ってくれるように頼める侍女もいない。
そうでなくても勝手に恋人を作るわけにはいかない。
そんなことをして邸を追い出されてしまったら行くところがなくなってしまう。
貴晴も大納言の大姫だと思っているから文を送ってきたのだろう。
そもそも、この前の歌のやりとりとは関係なく大納言の婿になりたくて文を贈ってきているのだろうし。
後ろ盾のいない娘では出世の役には立たないから貴晴も望んでいないはずだ。
匡の振りをして返歌を贈るにしても紙がない。
たとえ歌だけだとしても書きし損じた書類の裏に書いて贈ったりしたら、ふざけていると思われかねない。
そんな風に受け取られたら嫌われてしまう。
そのとき匡の箏の音が聴こえてきた。
箏というのは琴の一種である。
楽器も貴族の姫のたしなみの一つなのだ。
邸には壁がほとんど無いから外に聞こえる。
貴族の姫というのは普通は人前に出ないから男性に存在を知ってもらう機会が少ない。
その少ない機会のうちの一つが使用人が流す噂であり、もう一つが楽器などを外に聞こえるように弾くことである。これもある意味、噂だが。
通りがかった人が楽器の音を聞いて「あそこの姫は楽器の演奏が上手い」と評判になれば男性に存在を知ってもらえる。
外に聞こえるように……。
壁の近くで返歌を詠じればお使いの方に聞いてもらえるかもしれない……。
使者が覚えていってくれるかは分からないが、返歌だと気付けば返事はなかったが返歌は詠んでいたと伝えてくれるかもしれない。
繰り返し詠じてれば返歌だと気付かなくても覚えて帰って多田様に伝えてくれるかもしれない。
使者が返歌だと気付かなくても貴晴の前で詠じてくれれば貴晴は気付くはずだ。
幸い貴晴からの文は渡してもらえたから贈られた歌は分かる。
これの返歌を詠んで、それが多田様に伝われば……。
織子は返歌を考え始めた。
「隆亮、ちょっといいか? 今から前の太政大臣の邸に……」
貴晴は右大臣家に隆亮を訪ねてきていた。
先日も内裏に呼び出されたが報告出来るような進展は何もなかった。
管大納言の大姫に万が一のことがあったら大変だし、仮に無事でも春宮への入内してしまうかもしれない。
もたもたしているわけにはいかないのだ。
「悪いが今日は出掛けたくないんだ」
隆亮が貴晴の言葉を遮る。
「物忌みか?」
「うちに少納言の石田が方忌みで泊まりに来るんだ。妹に手を出されたら困るからな」
少納言の石田と言えば右大将と同じくらい女癖が悪い男だ。
良いところに嫁がせたいと思っているなら石田に手を出されては困るだろう。
貴族の姫は外には出ないから攫われたりすることは滅多にない(先日の中納言の姫のようなことは珍しい)のだが、邸にいる姫が力尽くで男のものにされてしまうと言う事はよくある。
邸に来た客が姫に手を出すことがあるのだ。
例えば方忌みで泊まりに来た客とか――。
行ってはいけない方角を方塞り、または方忌みという。
この時、方塞りの方向に行きたい場合は一旦他のところに行き、そこから目的地に向かう。
例えば西の方角に行ってはいけないのなら一度南に行く。
南に行けば目的地は北西になるから行けるようになるのだ。
これを方違えという。
ただし、方違えというのは泊まる必要があった。
だから貴族達は互いに方違えで泊まりあっているのだ。
そして、そういう客の中には姫の寝所に忍んでいく不届き者もいる。
「お前の妹は春宮に入内したいのか? というか、入内させたいと思ってるのか?」
貴晴が訊ねた。
「父上はな」
隆亮が答える。
「右大臣以外は違うのか?」
貴晴が訊ねた。
「春宮に何人妃がいるか知ってるか?」
隆亮の問いに、
「まだ一人もいないだろ」
貴晴が答える。
春宮はついこの前、元服したばかりだ。
元服というのは結婚相手が決まってからすることが多いが(特に皇族は)、今の春宮は冊立――つまり皇太子に決まったのが去年だった。
今上帝の親王は今は一人しかいない。
にもかかわらず、なかなか春宮に冊立されなかったのは色々揉めたからである。
それで妃もまだいないのだ。
「なりたがってる姫が何人いると思ってるんだよ」
「何人いるんだ?」
貴晴が聞くと、
「内大臣の中の姫がこの前決まった」
隆亮が答えた。
中の姫というのは次女である。
内大臣というのは常にいるわけではない。
だが最近、帝が大納言の一人を内大臣にした。
以前、
「大納言を内大臣にしたのは内大臣の大姫が女御だからだと左大臣は思っているらしいが――」
女御というのは帝の妃である。
「違うのか?」
「左大臣の専横は目に余るからな。帝も腹に据えかねたんだろう」
と隆亮が教えてくれた。
帝は近々譲位されるという話だし、そうなれば春宮が即位して次の帝になる。
娘二人が二代続けて帝の女御になれば当然内大臣の権力は強くなるだろう。
義母は気乗りしないようだが貴晴が諦めずに文を贈ってきてくれれば気が変わるかもしれない。
まぁ文が贈られたのは匡なのだが、そうだとしても――。
なんとかして返歌だけでも伝えられないかしら……。
文を読んでいる(匡ではないが)、そして返歌も詠んだと知ってもらえれば諦めないでくれるかもしれない。
しかし――。
「私が無断で返事を書くことは出来ないし……」
織子は溜息を吐いた。
紙は高価で貴重だから簡単には手に入らないのだ。
当然、織子も文に使えるような紙など持っていない。
文を書きたければ義母に頼んで譲ってもらうしかないが、そうなると内緒で返事を書くのは無理だ。
それに織子には乳母子もいないし、文を届けに行ってくれるように頼める侍女もいない。
そうでなくても勝手に恋人を作るわけにはいかない。
そんなことをして邸を追い出されてしまったら行くところがなくなってしまう。
貴晴も大納言の大姫だと思っているから文を送ってきたのだろう。
そもそも、この前の歌のやりとりとは関係なく大納言の婿になりたくて文を贈ってきているのだろうし。
後ろ盾のいない娘では出世の役には立たないから貴晴も望んでいないはずだ。
匡の振りをして返歌を贈るにしても紙がない。
たとえ歌だけだとしても書きし損じた書類の裏に書いて贈ったりしたら、ふざけていると思われかねない。
そんな風に受け取られたら嫌われてしまう。
そのとき匡の箏の音が聴こえてきた。
箏というのは琴の一種である。
楽器も貴族の姫のたしなみの一つなのだ。
邸には壁がほとんど無いから外に聞こえる。
貴族の姫というのは普通は人前に出ないから男性に存在を知ってもらう機会が少ない。
その少ない機会のうちの一つが使用人が流す噂であり、もう一つが楽器などを外に聞こえるように弾くことである。これもある意味、噂だが。
通りがかった人が楽器の音を聞いて「あそこの姫は楽器の演奏が上手い」と評判になれば男性に存在を知ってもらえる。
外に聞こえるように……。
壁の近くで返歌を詠じればお使いの方に聞いてもらえるかもしれない……。
使者が覚えていってくれるかは分からないが、返歌だと気付けば返事はなかったが返歌は詠んでいたと伝えてくれるかもしれない。
繰り返し詠じてれば返歌だと気付かなくても覚えて帰って多田様に伝えてくれるかもしれない。
使者が返歌だと気付かなくても貴晴の前で詠じてくれれば貴晴は気付くはずだ。
幸い貴晴からの文は渡してもらえたから贈られた歌は分かる。
これの返歌を詠んで、それが多田様に伝われば……。
織子は返歌を考え始めた。
「隆亮、ちょっといいか? 今から前の太政大臣の邸に……」
貴晴は右大臣家に隆亮を訪ねてきていた。
先日も内裏に呼び出されたが報告出来るような進展は何もなかった。
管大納言の大姫に万が一のことがあったら大変だし、仮に無事でも春宮への入内してしまうかもしれない。
もたもたしているわけにはいかないのだ。
「悪いが今日は出掛けたくないんだ」
隆亮が貴晴の言葉を遮る。
「物忌みか?」
「うちに少納言の石田が方忌みで泊まりに来るんだ。妹に手を出されたら困るからな」
少納言の石田と言えば右大将と同じくらい女癖が悪い男だ。
良いところに嫁がせたいと思っているなら石田に手を出されては困るだろう。
貴族の姫は外には出ないから攫われたりすることは滅多にない(先日の中納言の姫のようなことは珍しい)のだが、邸にいる姫が力尽くで男のものにされてしまうと言う事はよくある。
邸に来た客が姫に手を出すことがあるのだ。
例えば方忌みで泊まりに来た客とか――。
行ってはいけない方角を方塞り、または方忌みという。
この時、方塞りの方向に行きたい場合は一旦他のところに行き、そこから目的地に向かう。
例えば西の方角に行ってはいけないのなら一度南に行く。
南に行けば目的地は北西になるから行けるようになるのだ。
これを方違えという。
ただし、方違えというのは泊まる必要があった。
だから貴族達は互いに方違えで泊まりあっているのだ。
そして、そういう客の中には姫の寝所に忍んでいく不届き者もいる。
「お前の妹は春宮に入内したいのか? というか、入内させたいと思ってるのか?」
貴晴が訊ねた。
「父上はな」
隆亮が答える。
「右大臣以外は違うのか?」
貴晴が訊ねた。
「春宮に何人妃がいるか知ってるか?」
隆亮の問いに、
「まだ一人もいないだろ」
貴晴が答える。
春宮はついこの前、元服したばかりだ。
元服というのは結婚相手が決まってからすることが多いが(特に皇族は)、今の春宮は冊立――つまり皇太子に決まったのが去年だった。
今上帝の親王は今は一人しかいない。
にもかかわらず、なかなか春宮に冊立されなかったのは色々揉めたからである。
それで妃もまだいないのだ。
「なりたがってる姫が何人いると思ってるんだよ」
「何人いるんだ?」
貴晴が聞くと、
「内大臣の中の姫がこの前決まった」
隆亮が答えた。
中の姫というのは次女である。
内大臣というのは常にいるわけではない。
だが最近、帝が大納言の一人を内大臣にした。
以前、
「大納言を内大臣にしたのは内大臣の大姫が女御だからだと左大臣は思っているらしいが――」
女御というのは帝の妃である。
「違うのか?」
「左大臣の専横は目に余るからな。帝も腹に据えかねたんだろう」
と隆亮が教えてくれた。
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