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第一章
クルキト
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一
一年に八度咲く花。
その名をクルキトと言う。
ドリと言う若きムタスによれば、クルキトという名の由来は発見者である彼女の曾祖父の名から来たのだと言う。
ややこしいので、この物語の中ではクルキトと単に言う時は以後、花の名を指す事にする。もっとも、これ以降にクルキト氏が登場する事はない。なぜなら本当に単なる発見者であるにすぎないからだ。
全智のシノルならば、やはりかなり細かなクルキトの性質を列挙する事も造作ない。
しかし意外にもシノル以上にクルキトに詳しい者がいた。シバハンである。
シバハンは言う。
「クルキトは咲く時期を気温の変化で見ているのではありません。クルキトに対する、日光の照射の具合の日内変動で判断している事を、度重なる独自調査で知っていました。」
シノルが外遊に訪れた際の貴重な学術的証言である。フィムに転居し学問の道を志していたシバハンは、シノルの存在を知ってからというもの、もっぱら例の悪癖、首ったけの気持ちをシノルに向け始めた。
シバハンは深く狭い人間関係を信条としている。だから彼なりには友を大切にしているつもりなのだが、その精神的盲目の癖で数々の友から絶縁されるという愚かな宿命の上にあり続けている。
ありきたりな花に見られがちなクルキト。一年に八度も咲くから、どんなに癖が強くとも何も知らない普通の人からすれば平凡な花にしか見えない。その哀れさを自らに重ねたシバハンには、クルキトに格別な思い入れがあるのだ。
平均28タピス。クルキトの成分、サクルキトバシンの含有量だ。そしてその微妙な芳香は、人知れずリラックス作用を持つ。これもシバハンが発見した事だ。
二
シバハンがタフトに会わなくなり、これで8年目だ。タフトは使命を果たすべく旅立った。
文才も確かなタフトは、しばしば旅先からシバハン宛の書簡を寄越した。旅は少なくともこれまでは順調なようだ。
とは言っても飽くまでタフトにとっての、であり、並みの人間ならば、いや巨脚族やシジマーン、あるいは耳晶フィノミラ程度ならば、まるで生きていけない道のりだろう。
シバハンはタフトからの手紙を欠かさず読む事にしている。更に、休息などの為にタフトの当面の所在が明らかならば、シバハンは返事の手紙もなるべく出した。
人間であるタフトが、ピリトッドのシバハンと会話する事すら通常はあり得ない。小人とミナオスの混血であるピリトッドは、臆病で仲間意識が強い。だからたとえ話す言葉が人間と同じでも、そこには常に一定の不可侵領域があり、互いに歩み寄る事は極めて珍しい事であるようだ。
現在タフトがいるカンスイェル大陸は広大な為、時にタフトからの手紙には差出人の所在地でなく、たとえば「膠が唸り出す湿原」などタフトの独自呼称らしき地名が代わりに記されている事もざらだ。
見たこともない巨体の獣人が群れをなして猛烈に走って来ても動じないタフトなので、たとえ猛毒を露骨に凄まじい刺激臭でアピールしてくるミナモザントマキであっても、タフトにとっては膠も同然らしい。
シバハンはそんな他愛ない事を思いながら、クルキト調査の資金繰りが苦しくなり始めてきたのも忘れて静かに微笑む。これがフィムに来てからのシバハンの日常の一幕なのである。
三
実はタフトの旅にも、クルキトは意外な所で接点を持つ。
クルキトの葉には研磨の効果がある。その為、手入れの必要がないジクランゾルは別として、簡素な狩猟用ナイフや、賊から奪ったクレイモアなどを研ぐのに、クルキトは大変に役立ったのだ。
というのも、クルキトが生息可能な気候は非常に広範に渡り、乾燥さえしていなければ暑い寒いには相当に強いのだ。であるが故にタフトは乾燥地域を道程から避けている。
とは言っても、砂漠を横切らないとどこにも行けない事は珍しくない。カンスイェル大陸には砂漠が点在しているからだ。しかも悪い事には、今は亡き暴君ネオジスにより、砂漠に限って文明が栄えている事が少なくない。ネオジスの性格の悪さと、確かな運営手腕が共に現れている代表的成果ではあるのだが。
クルキトは砂漠では当然、自生不能である。時には需要に応じて屋内で販売されている事こそあれど、そうした製品加工されたクルキトを入手できるほど、タフトは富んでいない。早い話が慢性的な金欠なのだ。
五輪の者であろうと質素であるべきだと見られる世間の厳しさもある。だがそもそもタフトが認められているのは人格や社会性ではなく、その戦闘力だけと言っても過言ではない。
戦闘狂に金を出したいとは、思われないという事であろう。
四
タフトがクルキトの存在を知ったのは、旅立ってから最初に受け取ったシバハンの手紙からである。
手紙にクルキトの押し花を添えるシバハンの感覚に寒気を感じながらも、タフトはすぐさま返事を書いた。
タフトが手紙を受け取ったのは、シバハンが予め書簡を託していたフナヤンの町であった。そこで暫くの進路を定め、シバハンを通じてシノルに伝える必要があったからだ。
本来、そうした役目は英雄の付き添いとなる同行者が秘書の如く処理するものなのだが、タフトに同行者は一人も現れなかった。実の父を殺しかける程の危険人物。そのイメージこそタフトその物だったのである。
さて、フナヤンは都会フィムよりやや北北東に位置する町だ。そして頼れる森と呼ばれる森の、辛うじて西口のように開かれた広場に初めて立った時のタフトの第一声は「飯まだかよ」である。
頼れる森と聞くと、タフトの適当な名付け地名のように思われるかもしれない。つまりシバハンへの手紙に書くべき時の便宜的な現在地と考える人は多いだろう。ただ、頼れる森とは正式に定められている地名である。
頼れる、とは主にその安全性を示していると言う説が有力である。有力であるというのは、正式な地名ながらその由来は諸説ある為だ。とは言っても、有力であるだけに頼れる森を通り抜けるのは幼い少女ひとりでも安全と言っても良いのは確かだ。
そこに育つ木は幹が割合に細く、かつ木々が互いに遠慮がちに幾らか離れているので、森にしては見通しが随分良い。更には森と呼べるほどの広大さを持ち、その生態系も豊かだ。
よってタフトにとっては拍子抜けするほどの、快適な散歩のような旅路となった。
五
さて、五輪の導きについてここで少し説明しよう。五輪の導きは、神の恵みの一種である。神の恵みには大きく分けて恩寵、加護、聖積の三つがある。
恩寵は、簡単に言えば神のお気に入り特典だ。ある神に好かれる事で、その好感度に応じた何らかの効果を受ける。つまり神が気に入る行いを知っているほど受けやすいのが恩寵なのである。
加護は、どちらかと言えば単に神との契約サービスである事が多い。神による直接的または間接的な審査があり、その狭き門を突破した者だけに与えられる物であるが、例外も僅かながらある。例外は、たとえば破王である。破王は人間ながら神の資格を得ており、審査なしに選定によって加護を与える事が出来る。
そして、聖積。神の加護を持つのは何もタフトを始めとした人間だけではない。たとえば、クルキトも神の加護を受けている。このように、恩寵も加護も受けにくい、言葉を持たない生命に対する救済が聖積だ。
クルキトに聖積を与えたのは、ロカービアという神である。決して強い神でも賢い神でもないが、最古の八柱の一とされている。
タフトはロカービアを知っている。実は五輪の導きは、神の世界と交信する力を得る事が出来る加護なのである。タフトは強いので、強くないロカービアを嫌ってはいる。けれどもクルキトは重宝しているので、代用品が見つかるまでは主神でもないロカービアの機嫌さえ伺わなければならないタフト。良くも悪くも、宮仕えの司祭の気分に違いない。
六
クルキトが持つ聖積は、その生命力である。聖積によって気温によらず広く育つ事が出来ているという理屈らしい。
砥石になるほどの葉は、聖積を与えられる前の過酷な生存競争の中で進化させてきた物であり、本来からのクルキトの特色である。
聖積の恩恵に与ろうとクルキトを食す人間はいつの時代にもいるが、クルキトの花は有毒である。しかも、一定の接種により重篤な副作用を示す。人間以外にも多くの赤血種には毒となり、たとえば、ムタスあるいはハクショフなどにも毒となる。クルキトにある聖積は自らが生き残る為の物で、他の生命に恵む物ではないのだろう。
ロカービアは面倒見が良い神である。反面、神の恵みを中々与えない厳しさを持つ神でもある。一度気に入った存在には相当に長きに渡り恵むが、そうでもなければ無関心である。一言で表すならば、好き嫌いが激しいのだ。
ただし、先に述べたようにロカービアは決して強い神ではない。神とて不遇の時代があり、その時クルキトもまた絶滅の危機にあった。
子細を述べると長くなるので、結論だけ言う。結局はロカービアの面倒見の良さも神の世界には必要という総意が神々に生まれ、クルキトは辛くも危機を免れたのだった。
そして、苦楽を共にした事もあるからこそロカービアの格別な恵みを受け続けるクルキトは、伸び伸びと生きる事を許されているのである。
七
クルキトでの研ぎの作業は、砥石とは勝手が違う。葉に含まれるクルキトリルヒールという成分が研磨効果を有するので、研ぐと言うよりも塗り込む感覚である。
そして、一晩置くとその効用で切れ味がかなり増している。タフトはこの一手間が面倒とは思うものの、砥石のような細かい仕上げ研ぎを必要とせず、また砥石のように使い終わり時を気にする事もないからとクルキトを愛用するに至っている。
また、地味ながらクルキトの花が持つ有毒成分もまたタフトの旅に役立っている。花を絞り、絞り液を瓶に詰めて持ち歩き、明らかな敵対的存在にはその中身を強引に飲ませる。気絶している時など使いどころは限られるものの、タフトの命を狙う輩は後を経たない。よって皮肉にもクルキト毒の瓶はタフト頻用の一品である。
クルキト毒、タニソクルキタンは暗殺にも用いられるほどの毒であるが、タフトは意外にも、基本的には殺しを好まない。その為、クルキト毒とは言うが実際にはクルキト毒の作用を弱める、スライクという安価に手に入る粉末を混ぜてから瓶詰めとする。これにより決して命までは奪わないと、タフトは決めているのだ。
八
シバハンは、タフトがクルキト毒にまで手を出している事を知らない。知れば怒るか悲しむだろう。しかしタフトに降りかかる試練は、到底、奇麗事では乗り越えられないのだ。話しても無駄と分かっているから、タフトは唯一とも言える友人にさえ、毒使いという隠し事をしている。
タフトの旅路は、タフトだけの物ではない。
《炎導の標》を求める世界の為であり、その一切を託した破王の為であり、支えてくれる友の為であり、その上でのタフト自身の為である。
そこには有象無象の思惑がある。重すぎる故に、いざとなればいずれシバハンとは袂を分かとうとタフトは考えていた。
そう思うのは、友を巻き込むには、彼と共にあるのが余りに大きな定めだからなのだった。
シバハンとの友情はジクランゾルが始まりであったが、あれからずっと続いている。むしろ、学舎を卒業するや否や父との縁が切れた。自らが悪いが故に、タフトは黙って水編み人の村を出た。ジクランゾルに秘められていたのがタフトを惑わせる程に強烈な殺意だった事を差し置いても、父を元から尊敬していなかった事もその一因となった。
そう考えるとシバハンとの決別はタフトにとっては軽い訳はない。だがそれでも、もうタフトは五輪の導きを受ける者なのだ。
九
クルキトがたっぷりと満たされた巾着が揺れる。タフトは頼れる森での、ある出来事を思い出していた。
クルキトでの研ぎは、実はシバハンに教わった物ではない。シバハンからはクルキトの存在と、その簡単な説明を手紙で受けただけである。それでもタフトは少し会わない間に、研究者として開花しつつあるシバハンを誇りに思ったものだし、今でもそれは変わらない。
さて、広さだけは間違いない頼れる森の中間ほどに差し掛かった頃の事だ。タフトは違和感を覚え、暫く近くの切り株に腰を下ろす事にした。頼れる森の中では珍しくない太い木だったらしく、大人7、8人がぐるりと座っても余裕がある切り株だった。
ふとタフトが振り返ると、同じ切り株のちょうど向い側に一人の老人が座っていた。タフトは驚いた。彼に気配を感じさせないとなると、並みの達人ではないからだ。
率直に言うと、タフトは死を覚悟した。殺気こそないが、明らかに一つの隙もないこの老人にタフトは敵う気がしなかったのだ。
老人はダギと名乗った。
十
王礼都での謁見で、タフトは王から幾つかの貴重品を託された。その一つに三角宝鍵がある。
三回、どんな鍵でも開ける事が出来る高等な魔法器だ。そしてタフトは、ダギにその宝鍵を奪われた。
完全なる油断でもなかった。というより格上の存在に対する緊張感の為に、油断しようがなかったはずだった。
見事な手際だった。タフトともあろう者が奪われた事に気付くのに、たっぷり七分ほど掛かったのだ。
切り株で休むきっかけとなった正体不明の違和感。あれすらも思えばダギの幻術なのだ。タフトはこれよりずっと後に知るのだが、ダギは悪名轟く幻術の達人だったのである。
散歩のような頼れる森での歩み。その無意識下の気の緩みすら老爺の戦略だったのかもしれない。兎に角、タフトは三角宝鍵をダギに奪われた。この時に確かな事実はその一点なのだった。
一年に八度咲く花。
その名をクルキトと言う。
ドリと言う若きムタスによれば、クルキトという名の由来は発見者である彼女の曾祖父の名から来たのだと言う。
ややこしいので、この物語の中ではクルキトと単に言う時は以後、花の名を指す事にする。もっとも、これ以降にクルキト氏が登場する事はない。なぜなら本当に単なる発見者であるにすぎないからだ。
全智のシノルならば、やはりかなり細かなクルキトの性質を列挙する事も造作ない。
しかし意外にもシノル以上にクルキトに詳しい者がいた。シバハンである。
シバハンは言う。
「クルキトは咲く時期を気温の変化で見ているのではありません。クルキトに対する、日光の照射の具合の日内変動で判断している事を、度重なる独自調査で知っていました。」
シノルが外遊に訪れた際の貴重な学術的証言である。フィムに転居し学問の道を志していたシバハンは、シノルの存在を知ってからというもの、もっぱら例の悪癖、首ったけの気持ちをシノルに向け始めた。
シバハンは深く狭い人間関係を信条としている。だから彼なりには友を大切にしているつもりなのだが、その精神的盲目の癖で数々の友から絶縁されるという愚かな宿命の上にあり続けている。
ありきたりな花に見られがちなクルキト。一年に八度も咲くから、どんなに癖が強くとも何も知らない普通の人からすれば平凡な花にしか見えない。その哀れさを自らに重ねたシバハンには、クルキトに格別な思い入れがあるのだ。
平均28タピス。クルキトの成分、サクルキトバシンの含有量だ。そしてその微妙な芳香は、人知れずリラックス作用を持つ。これもシバハンが発見した事だ。
二
シバハンがタフトに会わなくなり、これで8年目だ。タフトは使命を果たすべく旅立った。
文才も確かなタフトは、しばしば旅先からシバハン宛の書簡を寄越した。旅は少なくともこれまでは順調なようだ。
とは言っても飽くまでタフトにとっての、であり、並みの人間ならば、いや巨脚族やシジマーン、あるいは耳晶フィノミラ程度ならば、まるで生きていけない道のりだろう。
シバハンはタフトからの手紙を欠かさず読む事にしている。更に、休息などの為にタフトの当面の所在が明らかならば、シバハンは返事の手紙もなるべく出した。
人間であるタフトが、ピリトッドのシバハンと会話する事すら通常はあり得ない。小人とミナオスの混血であるピリトッドは、臆病で仲間意識が強い。だからたとえ話す言葉が人間と同じでも、そこには常に一定の不可侵領域があり、互いに歩み寄る事は極めて珍しい事であるようだ。
現在タフトがいるカンスイェル大陸は広大な為、時にタフトからの手紙には差出人の所在地でなく、たとえば「膠が唸り出す湿原」などタフトの独自呼称らしき地名が代わりに記されている事もざらだ。
見たこともない巨体の獣人が群れをなして猛烈に走って来ても動じないタフトなので、たとえ猛毒を露骨に凄まじい刺激臭でアピールしてくるミナモザントマキであっても、タフトにとっては膠も同然らしい。
シバハンはそんな他愛ない事を思いながら、クルキト調査の資金繰りが苦しくなり始めてきたのも忘れて静かに微笑む。これがフィムに来てからのシバハンの日常の一幕なのである。
三
実はタフトの旅にも、クルキトは意外な所で接点を持つ。
クルキトの葉には研磨の効果がある。その為、手入れの必要がないジクランゾルは別として、簡素な狩猟用ナイフや、賊から奪ったクレイモアなどを研ぐのに、クルキトは大変に役立ったのだ。
というのも、クルキトが生息可能な気候は非常に広範に渡り、乾燥さえしていなければ暑い寒いには相当に強いのだ。であるが故にタフトは乾燥地域を道程から避けている。
とは言っても、砂漠を横切らないとどこにも行けない事は珍しくない。カンスイェル大陸には砂漠が点在しているからだ。しかも悪い事には、今は亡き暴君ネオジスにより、砂漠に限って文明が栄えている事が少なくない。ネオジスの性格の悪さと、確かな運営手腕が共に現れている代表的成果ではあるのだが。
クルキトは砂漠では当然、自生不能である。時には需要に応じて屋内で販売されている事こそあれど、そうした製品加工されたクルキトを入手できるほど、タフトは富んでいない。早い話が慢性的な金欠なのだ。
五輪の者であろうと質素であるべきだと見られる世間の厳しさもある。だがそもそもタフトが認められているのは人格や社会性ではなく、その戦闘力だけと言っても過言ではない。
戦闘狂に金を出したいとは、思われないという事であろう。
四
タフトがクルキトの存在を知ったのは、旅立ってから最初に受け取ったシバハンの手紙からである。
手紙にクルキトの押し花を添えるシバハンの感覚に寒気を感じながらも、タフトはすぐさま返事を書いた。
タフトが手紙を受け取ったのは、シバハンが予め書簡を託していたフナヤンの町であった。そこで暫くの進路を定め、シバハンを通じてシノルに伝える必要があったからだ。
本来、そうした役目は英雄の付き添いとなる同行者が秘書の如く処理するものなのだが、タフトに同行者は一人も現れなかった。実の父を殺しかける程の危険人物。そのイメージこそタフトその物だったのである。
さて、フナヤンは都会フィムよりやや北北東に位置する町だ。そして頼れる森と呼ばれる森の、辛うじて西口のように開かれた広場に初めて立った時のタフトの第一声は「飯まだかよ」である。
頼れる森と聞くと、タフトの適当な名付け地名のように思われるかもしれない。つまりシバハンへの手紙に書くべき時の便宜的な現在地と考える人は多いだろう。ただ、頼れる森とは正式に定められている地名である。
頼れる、とは主にその安全性を示していると言う説が有力である。有力であるというのは、正式な地名ながらその由来は諸説ある為だ。とは言っても、有力であるだけに頼れる森を通り抜けるのは幼い少女ひとりでも安全と言っても良いのは確かだ。
そこに育つ木は幹が割合に細く、かつ木々が互いに遠慮がちに幾らか離れているので、森にしては見通しが随分良い。更には森と呼べるほどの広大さを持ち、その生態系も豊かだ。
よってタフトにとっては拍子抜けするほどの、快適な散歩のような旅路となった。
五
さて、五輪の導きについてここで少し説明しよう。五輪の導きは、神の恵みの一種である。神の恵みには大きく分けて恩寵、加護、聖積の三つがある。
恩寵は、簡単に言えば神のお気に入り特典だ。ある神に好かれる事で、その好感度に応じた何らかの効果を受ける。つまり神が気に入る行いを知っているほど受けやすいのが恩寵なのである。
加護は、どちらかと言えば単に神との契約サービスである事が多い。神による直接的または間接的な審査があり、その狭き門を突破した者だけに与えられる物であるが、例外も僅かながらある。例外は、たとえば破王である。破王は人間ながら神の資格を得ており、審査なしに選定によって加護を与える事が出来る。
そして、聖積。神の加護を持つのは何もタフトを始めとした人間だけではない。たとえば、クルキトも神の加護を受けている。このように、恩寵も加護も受けにくい、言葉を持たない生命に対する救済が聖積だ。
クルキトに聖積を与えたのは、ロカービアという神である。決して強い神でも賢い神でもないが、最古の八柱の一とされている。
タフトはロカービアを知っている。実は五輪の導きは、神の世界と交信する力を得る事が出来る加護なのである。タフトは強いので、強くないロカービアを嫌ってはいる。けれどもクルキトは重宝しているので、代用品が見つかるまでは主神でもないロカービアの機嫌さえ伺わなければならないタフト。良くも悪くも、宮仕えの司祭の気分に違いない。
六
クルキトが持つ聖積は、その生命力である。聖積によって気温によらず広く育つ事が出来ているという理屈らしい。
砥石になるほどの葉は、聖積を与えられる前の過酷な生存競争の中で進化させてきた物であり、本来からのクルキトの特色である。
聖積の恩恵に与ろうとクルキトを食す人間はいつの時代にもいるが、クルキトの花は有毒である。しかも、一定の接種により重篤な副作用を示す。人間以外にも多くの赤血種には毒となり、たとえば、ムタスあるいはハクショフなどにも毒となる。クルキトにある聖積は自らが生き残る為の物で、他の生命に恵む物ではないのだろう。
ロカービアは面倒見が良い神である。反面、神の恵みを中々与えない厳しさを持つ神でもある。一度気に入った存在には相当に長きに渡り恵むが、そうでもなければ無関心である。一言で表すならば、好き嫌いが激しいのだ。
ただし、先に述べたようにロカービアは決して強い神ではない。神とて不遇の時代があり、その時クルキトもまた絶滅の危機にあった。
子細を述べると長くなるので、結論だけ言う。結局はロカービアの面倒見の良さも神の世界には必要という総意が神々に生まれ、クルキトは辛くも危機を免れたのだった。
そして、苦楽を共にした事もあるからこそロカービアの格別な恵みを受け続けるクルキトは、伸び伸びと生きる事を許されているのである。
七
クルキトでの研ぎの作業は、砥石とは勝手が違う。葉に含まれるクルキトリルヒールという成分が研磨効果を有するので、研ぐと言うよりも塗り込む感覚である。
そして、一晩置くとその効用で切れ味がかなり増している。タフトはこの一手間が面倒とは思うものの、砥石のような細かい仕上げ研ぎを必要とせず、また砥石のように使い終わり時を気にする事もないからとクルキトを愛用するに至っている。
また、地味ながらクルキトの花が持つ有毒成分もまたタフトの旅に役立っている。花を絞り、絞り液を瓶に詰めて持ち歩き、明らかな敵対的存在にはその中身を強引に飲ませる。気絶している時など使いどころは限られるものの、タフトの命を狙う輩は後を経たない。よって皮肉にもクルキト毒の瓶はタフト頻用の一品である。
クルキト毒、タニソクルキタンは暗殺にも用いられるほどの毒であるが、タフトは意外にも、基本的には殺しを好まない。その為、クルキト毒とは言うが実際にはクルキト毒の作用を弱める、スライクという安価に手に入る粉末を混ぜてから瓶詰めとする。これにより決して命までは奪わないと、タフトは決めているのだ。
八
シバハンは、タフトがクルキト毒にまで手を出している事を知らない。知れば怒るか悲しむだろう。しかしタフトに降りかかる試練は、到底、奇麗事では乗り越えられないのだ。話しても無駄と分かっているから、タフトは唯一とも言える友人にさえ、毒使いという隠し事をしている。
タフトの旅路は、タフトだけの物ではない。
《炎導の標》を求める世界の為であり、その一切を託した破王の為であり、支えてくれる友の為であり、その上でのタフト自身の為である。
そこには有象無象の思惑がある。重すぎる故に、いざとなればいずれシバハンとは袂を分かとうとタフトは考えていた。
そう思うのは、友を巻き込むには、彼と共にあるのが余りに大きな定めだからなのだった。
シバハンとの友情はジクランゾルが始まりであったが、あれからずっと続いている。むしろ、学舎を卒業するや否や父との縁が切れた。自らが悪いが故に、タフトは黙って水編み人の村を出た。ジクランゾルに秘められていたのがタフトを惑わせる程に強烈な殺意だった事を差し置いても、父を元から尊敬していなかった事もその一因となった。
そう考えるとシバハンとの決別はタフトにとっては軽い訳はない。だがそれでも、もうタフトは五輪の導きを受ける者なのだ。
九
クルキトがたっぷりと満たされた巾着が揺れる。タフトは頼れる森での、ある出来事を思い出していた。
クルキトでの研ぎは、実はシバハンに教わった物ではない。シバハンからはクルキトの存在と、その簡単な説明を手紙で受けただけである。それでもタフトは少し会わない間に、研究者として開花しつつあるシバハンを誇りに思ったものだし、今でもそれは変わらない。
さて、広さだけは間違いない頼れる森の中間ほどに差し掛かった頃の事だ。タフトは違和感を覚え、暫く近くの切り株に腰を下ろす事にした。頼れる森の中では珍しくない太い木だったらしく、大人7、8人がぐるりと座っても余裕がある切り株だった。
ふとタフトが振り返ると、同じ切り株のちょうど向い側に一人の老人が座っていた。タフトは驚いた。彼に気配を感じさせないとなると、並みの達人ではないからだ。
率直に言うと、タフトは死を覚悟した。殺気こそないが、明らかに一つの隙もないこの老人にタフトは敵う気がしなかったのだ。
老人はダギと名乗った。
十
王礼都での謁見で、タフトは王から幾つかの貴重品を託された。その一つに三角宝鍵がある。
三回、どんな鍵でも開ける事が出来る高等な魔法器だ。そしてタフトは、ダギにその宝鍵を奪われた。
完全なる油断でもなかった。というより格上の存在に対する緊張感の為に、油断しようがなかったはずだった。
見事な手際だった。タフトともあろう者が奪われた事に気付くのに、たっぷり七分ほど掛かったのだ。
切り株で休むきっかけとなった正体不明の違和感。あれすらも思えばダギの幻術なのだ。タフトはこれよりずっと後に知るのだが、ダギは悪名轟く幻術の達人だったのである。
散歩のような頼れる森での歩み。その無意識下の気の緩みすら老爺の戦略だったのかもしれない。兎に角、タフトは三角宝鍵をダギに奪われた。この時に確かな事実はその一点なのだった。
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貴族の嗜み・教養がとにかく身に付かず、社交会にも出してもらえない無能侯爵令嬢メイヴィス・ラングラーは、死んだ姉の代わりに15歳で王太子妃候補として王宮へ迎え入れられる。
しかし王太子サイラスには周囲から正妃最有力候補と囁かれる公爵令嬢クリスタがおり、王太子妃候補とは名ばかりの茶番レース。
帰る場所のないメイヴィスは、サイラスとクリスタが正式に婚約を発表する3年後までひっそりと王宮で過ごすことに。
誰もが不出来な自分を見下す中、誰とも関わりたくないメイヴィスはサイラスとも他の王太子妃候補たちとも距離を取るが……。
果たしてメイヴィスは王宮を出られるのか?
誰にも愛されないひとりぼっちの無気力令嬢が愛を得るまでの話。
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