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邂逅
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八月に入っていた。学校は夏休みに入っており、暑さは先月よりも増しているように感じられた。
去年の今頃は、アルバイトに明け暮れていたなと久賀は思って苦笑した。
どういう訳か、自分は今、グラウンドに立っているのだ。
-野球はもう、やらないはずだった。
嫌いになったはずだった。実際、中学時代に使っていた野球用品は全て捨ててしまっていたのだ。
それなのに、貯金を切り崩して、久賀はユニフォームとスパイクを購入した。
グラブは春日のものがあるから、買ってはいない。使い込まれた、良いグラブだと思った。
現在の春日は、集中治療室を出て、一般病棟にいる。
集中治療室でできる治療はもうない、という医師の話だった。
しかし意識は未だ、失ったままだ。心配しても仕方がないことだとはわかっている。それでもやはり、春日の容体は気懸りだった。
「二週間、よく耐え抜いたのう」
たかじいが麦わら帽子をかぶって、久賀の隣に立っていた。
側からみると、農家の老人である。とても高校野球の監督には見えないと久我賀は思った。
「ほれ。約束通り、ボールじゃ」
たかじいが、白球を久賀に差し出す。
赤い、縫い目。これだ、と感じ、久賀はたかじいからボールを受け取った。
「今日からの練習は、バッテリーで共に行うこと。キャッチャーに、横山という男がおる。彼に声をかけよ。練習メニューは伝えてあるからのう」
「ああ、わかった」
「それとじゃな、ちと伝えるのが遅くなったが、一週間後に練習試合を組んだ。先発投手はおぬしじゃからのう。頼んだぞ」
飄々と、たかじいが話す。
どくん、と、久賀の心臓が鳴った。
「ああ」
それを悟られないように、久賀は短く返事をし、たかじいが先程話したキャッチャー、横山の元へと走った。
久賀は、幸村以外のチームメイトと、まだ会話を交わしていない。たかじいから課せられた個別の練習メニューをこなしていた為に、チームメイトと会う機会がほとんどなかったというのもあるが、チームメイトと馴れ合うつもりなども毛頭なかったからだ。
自分は、春日が戻るまでの、急造の投手である。変に仲良くなって、辞めないでくれ、と言われるのも困る。
「おい」
久賀は、捕手用の防具を身につけている男に声をかけた。
「お前が、横山か。たかじいに言われたんだ。お前に声をかけろって」
「言葉遣いに気をつけろ。何様のつもりじゃ」
やや長めの坊主頭で、背は久賀より断然高い。そして肩幅も広かった。浅黒く焼けた肌。露出した腕は、かなり太かった。パワーはありそうだ。
威圧するような細い目が、久賀を睨みつけていた。
「お前がキャッチャーなんだろ。はやく、おれのボールを受けろよ」
「貴様のボールなど、受けん。俺はお前のようにちゃらちゃらした奴が大嫌いでの。おい、幸村ァ!!」
横山が、雷のような大声を出して幸村を呼ぶ。
何事かと驚いた表情で、幸村が駆け寄ってきた。
「他にピッチャーはおらんのか。幸村、お前ピッチャーくらいできるじゃろ。ショートは誰か、探せばええ。陸上部やサッカー部あたりに、野球経験者の一人や二人、おるじゃろ。応援を頼めばええ」
「おい、将人。このチームのピッチャーは、久賀ちゃんに決まったんだ。今更そんなこと」
「幸村、お前だって本当は嫌じゃろ。こんな奴が春日の代わりなど」
「将人。頼む。これは、優斗からの頼みでもあるんだ。久賀ちゃんに、マウンドを任すって」
「俺にはできん。こんな奴のボールを受けるくらいなら、俺がこの野球部を」
「横山よ」
たかじいが、立っていた。
やはりこの老人に気配はない。
しかし、皺の奥に隠れた目が、鋭く横山を見据えていた。
「何も言わず、受けよ。わしの言うことが聞けぬか」
「たかじい、じゃがの」
「口答えは許さん。横山よ、ともかく、黙って受けよ」
舌打ちをして、横山は頷いたようだった。鋭い眼光が、久賀に向けられている。
横山将人。
それがこのチームのキャッチャーの名前だ。
話す言葉に、訛りがあった。広島弁だろうか。なんとなく、久賀は思った。
横山に睨まれた時、久賀の体は正直、竦んだ。今まで何人かと喧嘩で対峙した事があるが、横山の威圧感の大きさはこれまでに経験したことのないものだったからだ。喧嘩をすれば、恐らく、負ける。
たかじいと幸村に説得され、久賀はまず、横山とキャッチボールをした。
無言のキャッチボールである。ひたすらに、グラブに白球が入る音だけが鳴り響いていた。
雰囲気はとてつもなく悪かったが、それでも久賀は一切気にしてはいなかった。
横山のことはすでに、大きな的としか思っていない。いや、壁だ、と思い定めていた。目の前にいる大男は、ボールが返ってくるただの壁である。
ボールを投げられる事が、今の久賀にとっては、ただ純粋に楽しかった。
ある程度のキャッチボールを済ませた後、二人はグラウンドの脇にあるブルペンに入った。
第一印象で、まず狭いと久賀は思った。自分が中学時代に使っていたブルペンの方が間違いなく広かった。しかし、きちんと整理されている。
マウンドにあるプレートも、かなり年季が入っているように見えた。今まで何人の投手が、ここで投げ込みをしてきたのだろうか。
土の質は、かなり良いものだと久賀は思った。踏めば、大抵わかる。
横山は、すでに腰を下ろしていた。
ゆっくり、久賀は振りかぶった。
構えた横山のキャッチャーミットに、思い切りボールをぶち込む。
乾いた音が、狭いブルペンに響き渡った。
-ストライクだ。
久賀はまず、そう思った。
そこに会話はない。投げ込むボールで、横山に自分のことを認めさせる。実力を、知らしめる。
そう思って、次々と、久賀はボールを投げ込んだ。
三十球を越えたあたりで、横山の動きが止まった。ボールを投げ返さなくなったのだ。
おいどうした、と横山に声をかけそうになった時、久賀はたかじいの存在に気付き、口を開いた。
「たかじい」
「全然ダメじゃのう」
麦わら帽子を、たかじいは変わらず被り続けている。
「横山よ。ちゃんと伝えたのか」
たかじいが横山に聞くが、横山は何も答えなかった。
「よいか、久賀よ。150キロを越える速球などは、今からでは望めん。針の穴を通すようなコントロールがおぬしにあったなら、おぬしは今頃ここにおらん。名門校のエースじゃわい」
ため息のようなものをつきながら、たかじいは言った。
「なにが、言いたい」
「直球だけを、今は投げ込んでいたじゃろう。見たところ、せいぜい130キロじゃな」
「まだ、序の口だ。エンジンがかかれば、140後半は」
「見栄を張るでない。おぬしの投げ方でそんなに出るはずもないわい。久賀よ。おぬしの武器は、いったいなんじゃ」
たかじいの、皺の奥の目が光る。
-武器。
そう言われて最初に久賀の頭に浮かんだのが、中学時代、多くの打者を打ち取ってきた、スライダーだった。
「変化球じゃよ。最初にわしが、おぬしの右手を見たじゃろ。指に力があると見たんじゃ」
指の力。そんなことを、久賀は意識したこともなかった。
ただ、スライダーだけは、初めて投げた時から良く曲がった。
ボールを離す瞬間に、弾き出すようにして強く押すのだ。誰に教わったわけでもなく、スライダーは何よりも信頼できる一番の武器になっていた。
「今のおぬしの直球は、棒球じゃのう。高校野球では通用せんよ。だからまずは、コントロールを磨くこと。ストライクゾーンの端を突く、コントロール」
たかじいの言葉が続く。認めたくはなかったが、真当な事を言われている気はした。
たかじいの、麦わら帽子に隠れた顔が、不意に横山の方を向く。
「それを指示していたはずじゃったんだがのう。横山よ。これは、何事か」
「どうせ、こんな奴に指示したって言う事を聞かん。ストライクゾーンの四隅を狙えるほど器用とも思えんわ」
「じゃから、それを磨くと言っておろう。ミットを真ん中に構えても意味はないんじゃ」
「無駄じゃ、たかじい。こんな奴」
たかじいの視線は、ずっと横山に向けられているようだった。
「横山よ。言うことが聞けんのか。ともかく、座れ。ミットを四隅に構えよ。久賀よ、聞いたな。まずは、コントロール」
一度だけ久賀は頷き、再びブルペンのマウンドに登った。
そして久賀は、ゆっくりと横山を見る。
この野郎、という気持ちが、久賀の中に生まれていた。
たかじいは背後にいる。
横山がゆっくりと、右打者の外角低めにキャッチャーミットを構えた。
-見てろよ。
グラブの中で久賀は、白球の縫い目にしっかり指をかけた。
脚を上げる。そして、確かに踏み出す。足の指先が、しっかりと土を掴む。
右腕。しならせた。腕の振りは強く、だ。
白球が右手から離れる瞬間に、指先、とくに中指に力を込めた。
スライダー。
かつて、決め球として使っていた変化球だ。無敵だった。
それが錆びついていないことは、放った白球が描く軌道を見てわかった。
横山が、キャッチャーミットでその軌道を追う。
しかし捕球できず、転々と白球は転がっていた。
「久賀よ」
何かを諦めたような声で、たかじいが言った。
「誰が、おまえなんかとバッテリーを組むかよ。こっちから願い下げだ」
白球を拾った横山を横目に、久賀はマウンドを降り、拠点と呼ぶビニールハウスへと向かった。
-ふざけやがって。
グラブを、叩きつけたくなってくる。しかしこれが春日のものだ。自分のグラブだったら、恐らくそうしていた。
行き場のないこの怒りを何にぶつけるか、久賀は考えていたが、拠点のビニールハウスの中に入った瞬間消え失せた。
かなりの暑さである。どっと、全身を言い様のない疲労感が包んだのだった。
殺人的なこの暑さは、いったいいつまで続くのだろうか。
下を向き、久賀は目に止まった石を蹴った。
転がった石が、金属音を立てて止まる。何かにぶつかったのだ。
なんとなくその石のところに近寄ってみると、錆びついた円盤型の重りが重なっていた。
ウエイトリフティングで使うような、ドーナツ型の重りだ。
なんとなく久賀は、それを持ってみた。
見た目以上にそれは重く、一体何をしているのだろうと嘲笑した。
「ほっほっほ。懐かしいのう。昔はそれを一人ひとり持たせて走らせたもんじゃよ」
気配がないことには、もう慣れた。
たかじいの声がして、久賀は振り返った。
「昔?」
「そう、昔じゃ。もう二十年になるかのう」
「二十年?」
「二十年前も、わしは霧島学園で指揮を執っておったんじゃ。それが何の因果か、今もこうして監督をやっておる。もう隠居するべき歳なんじゃがのう」
ビニールハウスの中はあまりに暑いので、二人は会話しながら外に出ていた。
たかじいと並んで、久賀は歩く。
こんなに小さかったかと、改めて思った。
「このチームに、一流はおらんよ」
ぽつり、たかじいがこぼした。
二人は立ち止まり、石段に腰を下ろしていた。
ちょうど日陰になっているので、随分と涼しい。
野球部の連中の声が、遠く聞こえていた。
「横山でさえ、高校で野球をやるつもりはなかったようじゃし。センターを守る萩原などは陸上部出身じゃ」
麦わら帽子を、たかじいが取っていた。白髪が、風に靡いている。少し汗に濡れているようだった。
「なんだ、それ。素人じゃねえか」
「一年生四人のうち、二人は素人じゃ。まともにバットも振れんかった」
「そんな野球部なのか、ここは」
「しかしのう、幸村翔太と春日優斗。この二人がいたことは、このチームにとって最大の幸運じゃった。この二人が中心となり、霧島学園に野球部を復活させたのじゃよ。そんなことはなかなかできるものではない」
久賀は、たかじいの横顔を見た。
皺の奥。どこか遠くを眺めるような目をしている。
「春日優斗。言ってしまえば、たいした投手ではない。じゃが、彼には人を惹きつける何かがある。生まれ持ったものじゃろうな。後から身につくものではない」
-それに自分も惹きつけられていたのだろうか。いや、惹きつけられているのだろう。
何も言わなかったが、久賀はそう思った。間違いなくそうである。
だから今、こうしてユニフォームを着て自分はここにいるのだ。
「辞めてもいいのじゃぞ、久賀よ。高校の部活動など、強制ではない。おぬしにはおぬしの生活があったはずじゃ。それに戻りたいというなら、わしらはどうすることもできん。去ると決めた者を引き留めるなど、どんな名将でもできぬことじゃからのう」
風が二人の間を通り抜けていく。
たかじいの目は、相変わらず遠くを見ている。
「まあ、その髪を見れば、それほど良い生活を送っていたようには見えぬが」
図星をつかれたような気がして、久賀は、下を向いた。
言い返す言葉も見つからない。
もう少したかじいの言葉を聞いていようと、久賀は思った。
「長い人生の、わずか三年間。されど、三年間。後悔せぬようにのう」
「春日には」
今度は久賀が、ぽつりと呟いた。
「春日と幸村には、少し感謝もしてる。ただの不良だったおれを、また野球に引き戻してくれた。野球は、野球は辞めたつもりだった。だけど、ボールを持った瞬間は、なんていうか、その」
うまく話すことができない。
それに、話しすぎている。こんなに饒舌なのは、自分ではない。
そう思ったが、溢れてくる言葉を吐き出し続けてしまう。
「嬉しかった。ボールを投げるただそれだけのことが、こんなに楽しかったかって」
たかじいは、ただ頷いていた。
「正直、自信がねえ。おれに、春日の代わりが務まるのか。横山だって、あんなだし」
「言っておろう。このチームに一流はおらんと。おぬしも二流じゃ。ここから、あがってゆくだけじゃろうて」
たかじいの言葉に、強く、一度だけ。久賀は、頷いた。
「どれ、そろそろ行くかのう。久賀よ、わしはのう」
柔らかな、風が吹く。
二人は、合図をするでもなく、ほとんど同時に立ち上がった。やはりたかじいは小さいなと、久賀は思った。
しかし時折、この小さな老人が、とてつもない巨人に見えたりもするのだ。
「おぬしらと、甲子園の土を踏む。それを冥土の土産にしようと思っとるんじゃ。このおいぼれが、こんなに壮大な夢を見ておるんじゃ。おぬしらも、夢を描いてみい」
たかじいはそう言って笑っていたが、久賀は、笑い飛ばす気にはなれなかった。
おそらく、いや間違いなく、たかじいは本気でそう思っている。
「まずは今度の練習試合じゃな。私立、峰成学院。此度の試合でまずは、おぬしらの現在地を知ること」
「峰成学院。聞いたことあるな」
「県下最強の敵じゃ。ほっほっほ。ま、精一杯やることじゃのう」
日陰から、日向に出る。
太陽は手加減というものを知らず、ギラギラと炎天下を作り出していた。
とりあえず今日は、指立て伏せとグラウンドを走ろう。
春日のグラブを静かに置き、久賀は照りつける太陽の下、走り出した。
去年の今頃は、アルバイトに明け暮れていたなと久賀は思って苦笑した。
どういう訳か、自分は今、グラウンドに立っているのだ。
-野球はもう、やらないはずだった。
嫌いになったはずだった。実際、中学時代に使っていた野球用品は全て捨ててしまっていたのだ。
それなのに、貯金を切り崩して、久賀はユニフォームとスパイクを購入した。
グラブは春日のものがあるから、買ってはいない。使い込まれた、良いグラブだと思った。
現在の春日は、集中治療室を出て、一般病棟にいる。
集中治療室でできる治療はもうない、という医師の話だった。
しかし意識は未だ、失ったままだ。心配しても仕方がないことだとはわかっている。それでもやはり、春日の容体は気懸りだった。
「二週間、よく耐え抜いたのう」
たかじいが麦わら帽子をかぶって、久賀の隣に立っていた。
側からみると、農家の老人である。とても高校野球の監督には見えないと久我賀は思った。
「ほれ。約束通り、ボールじゃ」
たかじいが、白球を久賀に差し出す。
赤い、縫い目。これだ、と感じ、久賀はたかじいからボールを受け取った。
「今日からの練習は、バッテリーで共に行うこと。キャッチャーに、横山という男がおる。彼に声をかけよ。練習メニューは伝えてあるからのう」
「ああ、わかった」
「それとじゃな、ちと伝えるのが遅くなったが、一週間後に練習試合を組んだ。先発投手はおぬしじゃからのう。頼んだぞ」
飄々と、たかじいが話す。
どくん、と、久賀の心臓が鳴った。
「ああ」
それを悟られないように、久賀は短く返事をし、たかじいが先程話したキャッチャー、横山の元へと走った。
久賀は、幸村以外のチームメイトと、まだ会話を交わしていない。たかじいから課せられた個別の練習メニューをこなしていた為に、チームメイトと会う機会がほとんどなかったというのもあるが、チームメイトと馴れ合うつもりなども毛頭なかったからだ。
自分は、春日が戻るまでの、急造の投手である。変に仲良くなって、辞めないでくれ、と言われるのも困る。
「おい」
久賀は、捕手用の防具を身につけている男に声をかけた。
「お前が、横山か。たかじいに言われたんだ。お前に声をかけろって」
「言葉遣いに気をつけろ。何様のつもりじゃ」
やや長めの坊主頭で、背は久賀より断然高い。そして肩幅も広かった。浅黒く焼けた肌。露出した腕は、かなり太かった。パワーはありそうだ。
威圧するような細い目が、久賀を睨みつけていた。
「お前がキャッチャーなんだろ。はやく、おれのボールを受けろよ」
「貴様のボールなど、受けん。俺はお前のようにちゃらちゃらした奴が大嫌いでの。おい、幸村ァ!!」
横山が、雷のような大声を出して幸村を呼ぶ。
何事かと驚いた表情で、幸村が駆け寄ってきた。
「他にピッチャーはおらんのか。幸村、お前ピッチャーくらいできるじゃろ。ショートは誰か、探せばええ。陸上部やサッカー部あたりに、野球経験者の一人や二人、おるじゃろ。応援を頼めばええ」
「おい、将人。このチームのピッチャーは、久賀ちゃんに決まったんだ。今更そんなこと」
「幸村、お前だって本当は嫌じゃろ。こんな奴が春日の代わりなど」
「将人。頼む。これは、優斗からの頼みでもあるんだ。久賀ちゃんに、マウンドを任すって」
「俺にはできん。こんな奴のボールを受けるくらいなら、俺がこの野球部を」
「横山よ」
たかじいが、立っていた。
やはりこの老人に気配はない。
しかし、皺の奥に隠れた目が、鋭く横山を見据えていた。
「何も言わず、受けよ。わしの言うことが聞けぬか」
「たかじい、じゃがの」
「口答えは許さん。横山よ、ともかく、黙って受けよ」
舌打ちをして、横山は頷いたようだった。鋭い眼光が、久賀に向けられている。
横山将人。
それがこのチームのキャッチャーの名前だ。
話す言葉に、訛りがあった。広島弁だろうか。なんとなく、久賀は思った。
横山に睨まれた時、久賀の体は正直、竦んだ。今まで何人かと喧嘩で対峙した事があるが、横山の威圧感の大きさはこれまでに経験したことのないものだったからだ。喧嘩をすれば、恐らく、負ける。
たかじいと幸村に説得され、久賀はまず、横山とキャッチボールをした。
無言のキャッチボールである。ひたすらに、グラブに白球が入る音だけが鳴り響いていた。
雰囲気はとてつもなく悪かったが、それでも久賀は一切気にしてはいなかった。
横山のことはすでに、大きな的としか思っていない。いや、壁だ、と思い定めていた。目の前にいる大男は、ボールが返ってくるただの壁である。
ボールを投げられる事が、今の久賀にとっては、ただ純粋に楽しかった。
ある程度のキャッチボールを済ませた後、二人はグラウンドの脇にあるブルペンに入った。
第一印象で、まず狭いと久賀は思った。自分が中学時代に使っていたブルペンの方が間違いなく広かった。しかし、きちんと整理されている。
マウンドにあるプレートも、かなり年季が入っているように見えた。今まで何人の投手が、ここで投げ込みをしてきたのだろうか。
土の質は、かなり良いものだと久賀は思った。踏めば、大抵わかる。
横山は、すでに腰を下ろしていた。
ゆっくり、久賀は振りかぶった。
構えた横山のキャッチャーミットに、思い切りボールをぶち込む。
乾いた音が、狭いブルペンに響き渡った。
-ストライクだ。
久賀はまず、そう思った。
そこに会話はない。投げ込むボールで、横山に自分のことを認めさせる。実力を、知らしめる。
そう思って、次々と、久賀はボールを投げ込んだ。
三十球を越えたあたりで、横山の動きが止まった。ボールを投げ返さなくなったのだ。
おいどうした、と横山に声をかけそうになった時、久賀はたかじいの存在に気付き、口を開いた。
「たかじい」
「全然ダメじゃのう」
麦わら帽子を、たかじいは変わらず被り続けている。
「横山よ。ちゃんと伝えたのか」
たかじいが横山に聞くが、横山は何も答えなかった。
「よいか、久賀よ。150キロを越える速球などは、今からでは望めん。針の穴を通すようなコントロールがおぬしにあったなら、おぬしは今頃ここにおらん。名門校のエースじゃわい」
ため息のようなものをつきながら、たかじいは言った。
「なにが、言いたい」
「直球だけを、今は投げ込んでいたじゃろう。見たところ、せいぜい130キロじゃな」
「まだ、序の口だ。エンジンがかかれば、140後半は」
「見栄を張るでない。おぬしの投げ方でそんなに出るはずもないわい。久賀よ。おぬしの武器は、いったいなんじゃ」
たかじいの、皺の奥の目が光る。
-武器。
そう言われて最初に久賀の頭に浮かんだのが、中学時代、多くの打者を打ち取ってきた、スライダーだった。
「変化球じゃよ。最初にわしが、おぬしの右手を見たじゃろ。指に力があると見たんじゃ」
指の力。そんなことを、久賀は意識したこともなかった。
ただ、スライダーだけは、初めて投げた時から良く曲がった。
ボールを離す瞬間に、弾き出すようにして強く押すのだ。誰に教わったわけでもなく、スライダーは何よりも信頼できる一番の武器になっていた。
「今のおぬしの直球は、棒球じゃのう。高校野球では通用せんよ。だからまずは、コントロールを磨くこと。ストライクゾーンの端を突く、コントロール」
たかじいの言葉が続く。認めたくはなかったが、真当な事を言われている気はした。
たかじいの、麦わら帽子に隠れた顔が、不意に横山の方を向く。
「それを指示していたはずじゃったんだがのう。横山よ。これは、何事か」
「どうせ、こんな奴に指示したって言う事を聞かん。ストライクゾーンの四隅を狙えるほど器用とも思えんわ」
「じゃから、それを磨くと言っておろう。ミットを真ん中に構えても意味はないんじゃ」
「無駄じゃ、たかじい。こんな奴」
たかじいの視線は、ずっと横山に向けられているようだった。
「横山よ。言うことが聞けんのか。ともかく、座れ。ミットを四隅に構えよ。久賀よ、聞いたな。まずは、コントロール」
一度だけ久賀は頷き、再びブルペンのマウンドに登った。
そして久賀は、ゆっくりと横山を見る。
この野郎、という気持ちが、久賀の中に生まれていた。
たかじいは背後にいる。
横山がゆっくりと、右打者の外角低めにキャッチャーミットを構えた。
-見てろよ。
グラブの中で久賀は、白球の縫い目にしっかり指をかけた。
脚を上げる。そして、確かに踏み出す。足の指先が、しっかりと土を掴む。
右腕。しならせた。腕の振りは強く、だ。
白球が右手から離れる瞬間に、指先、とくに中指に力を込めた。
スライダー。
かつて、決め球として使っていた変化球だ。無敵だった。
それが錆びついていないことは、放った白球が描く軌道を見てわかった。
横山が、キャッチャーミットでその軌道を追う。
しかし捕球できず、転々と白球は転がっていた。
「久賀よ」
何かを諦めたような声で、たかじいが言った。
「誰が、おまえなんかとバッテリーを組むかよ。こっちから願い下げだ」
白球を拾った横山を横目に、久賀はマウンドを降り、拠点と呼ぶビニールハウスへと向かった。
-ふざけやがって。
グラブを、叩きつけたくなってくる。しかしこれが春日のものだ。自分のグラブだったら、恐らくそうしていた。
行き場のないこの怒りを何にぶつけるか、久賀は考えていたが、拠点のビニールハウスの中に入った瞬間消え失せた。
かなりの暑さである。どっと、全身を言い様のない疲労感が包んだのだった。
殺人的なこの暑さは、いったいいつまで続くのだろうか。
下を向き、久賀は目に止まった石を蹴った。
転がった石が、金属音を立てて止まる。何かにぶつかったのだ。
なんとなくその石のところに近寄ってみると、錆びついた円盤型の重りが重なっていた。
ウエイトリフティングで使うような、ドーナツ型の重りだ。
なんとなく久賀は、それを持ってみた。
見た目以上にそれは重く、一体何をしているのだろうと嘲笑した。
「ほっほっほ。懐かしいのう。昔はそれを一人ひとり持たせて走らせたもんじゃよ」
気配がないことには、もう慣れた。
たかじいの声がして、久賀は振り返った。
「昔?」
「そう、昔じゃ。もう二十年になるかのう」
「二十年?」
「二十年前も、わしは霧島学園で指揮を執っておったんじゃ。それが何の因果か、今もこうして監督をやっておる。もう隠居するべき歳なんじゃがのう」
ビニールハウスの中はあまりに暑いので、二人は会話しながら外に出ていた。
たかじいと並んで、久賀は歩く。
こんなに小さかったかと、改めて思った。
「このチームに、一流はおらんよ」
ぽつり、たかじいがこぼした。
二人は立ち止まり、石段に腰を下ろしていた。
ちょうど日陰になっているので、随分と涼しい。
野球部の連中の声が、遠く聞こえていた。
「横山でさえ、高校で野球をやるつもりはなかったようじゃし。センターを守る萩原などは陸上部出身じゃ」
麦わら帽子を、たかじいが取っていた。白髪が、風に靡いている。少し汗に濡れているようだった。
「なんだ、それ。素人じゃねえか」
「一年生四人のうち、二人は素人じゃ。まともにバットも振れんかった」
「そんな野球部なのか、ここは」
「しかしのう、幸村翔太と春日優斗。この二人がいたことは、このチームにとって最大の幸運じゃった。この二人が中心となり、霧島学園に野球部を復活させたのじゃよ。そんなことはなかなかできるものではない」
久賀は、たかじいの横顔を見た。
皺の奥。どこか遠くを眺めるような目をしている。
「春日優斗。言ってしまえば、たいした投手ではない。じゃが、彼には人を惹きつける何かがある。生まれ持ったものじゃろうな。後から身につくものではない」
-それに自分も惹きつけられていたのだろうか。いや、惹きつけられているのだろう。
何も言わなかったが、久賀はそう思った。間違いなくそうである。
だから今、こうしてユニフォームを着て自分はここにいるのだ。
「辞めてもいいのじゃぞ、久賀よ。高校の部活動など、強制ではない。おぬしにはおぬしの生活があったはずじゃ。それに戻りたいというなら、わしらはどうすることもできん。去ると決めた者を引き留めるなど、どんな名将でもできぬことじゃからのう」
風が二人の間を通り抜けていく。
たかじいの目は、相変わらず遠くを見ている。
「まあ、その髪を見れば、それほど良い生活を送っていたようには見えぬが」
図星をつかれたような気がして、久賀は、下を向いた。
言い返す言葉も見つからない。
もう少したかじいの言葉を聞いていようと、久賀は思った。
「長い人生の、わずか三年間。されど、三年間。後悔せぬようにのう」
「春日には」
今度は久賀が、ぽつりと呟いた。
「春日と幸村には、少し感謝もしてる。ただの不良だったおれを、また野球に引き戻してくれた。野球は、野球は辞めたつもりだった。だけど、ボールを持った瞬間は、なんていうか、その」
うまく話すことができない。
それに、話しすぎている。こんなに饒舌なのは、自分ではない。
そう思ったが、溢れてくる言葉を吐き出し続けてしまう。
「嬉しかった。ボールを投げるただそれだけのことが、こんなに楽しかったかって」
たかじいは、ただ頷いていた。
「正直、自信がねえ。おれに、春日の代わりが務まるのか。横山だって、あんなだし」
「言っておろう。このチームに一流はおらんと。おぬしも二流じゃ。ここから、あがってゆくだけじゃろうて」
たかじいの言葉に、強く、一度だけ。久賀は、頷いた。
「どれ、そろそろ行くかのう。久賀よ、わしはのう」
柔らかな、風が吹く。
二人は、合図をするでもなく、ほとんど同時に立ち上がった。やはりたかじいは小さいなと、久賀は思った。
しかし時折、この小さな老人が、とてつもない巨人に見えたりもするのだ。
「おぬしらと、甲子園の土を踏む。それを冥土の土産にしようと思っとるんじゃ。このおいぼれが、こんなに壮大な夢を見ておるんじゃ。おぬしらも、夢を描いてみい」
たかじいはそう言って笑っていたが、久賀は、笑い飛ばす気にはなれなかった。
おそらく、いや間違いなく、たかじいは本気でそう思っている。
「まずは今度の練習試合じゃな。私立、峰成学院。此度の試合でまずは、おぬしらの現在地を知ること」
「峰成学院。聞いたことあるな」
「県下最強の敵じゃ。ほっほっほ。ま、精一杯やることじゃのう」
日陰から、日向に出る。
太陽は手加減というものを知らず、ギラギラと炎天下を作り出していた。
とりあえず今日は、指立て伏せとグラウンドを走ろう。
春日のグラブを静かに置き、久賀は照りつける太陽の下、走り出した。
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弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
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