3 / 8
路傍の石
しおりを挟む
走ることは、昔から嫌いではなかったはずだ。
しかし、この鈍りきった身体と肺が、言うことを聞かない。
走りながら、久賀は自嘲した。あまりに長い間、自分は怠けすぎたのだろう。
息が苦しい。脚が重い。まだ僅かな距離しか走っていないが、全身は汗にまみれていた。
野球部に入るにあたり、久賀はまず、煙草を捨てた。捨ててしまえばもう、吸いたいという欲求は湧いてこない。もともと、そんなに好きではなかったのだ。ただ、自暴自棄になって吸っていただけなのかもしれない。
-しかしこんなに体力なかったか。
咳き込みそうになるが、久賀はぐっと堪えた。格好の悪い姿を、周りに見せたくはない。
ランニングが終わったところで、ストレッチに入る。
すでに久賀の体力はかなり削られていた。
「おぬしが、久賀か」
ストレッチをしているところで、久賀は声をかけられた。聞いたことのない声である。山内ヘッドコーチ以上に嗄れた声だ。
それにまったく近付いてくる気配を感じなかったので、久賀は少し驚いていた。
「なんすか」
「幸村から、話は聞いておるよ。よろしくのう」
長く伸びた白い髭が、少し揺れた。
腰が曲がっているせいで、身長は随分と低く見える。
やはり聞き間違いではなく、声は老人らしく嗄れていて、顔に刻まれた皺は深いが、その奥、目の光は強かった。
「だれすか、あんた。ここは老人のくるところじゃ」
「こんにちは!!」
久賀が言葉を言い終わる前に、全員が大きな声で挨拶をしていた。帽子も取って、一礼している。
目の前にいる、この老人に向けての挨拶だということは、疑いようがなかった。
「ほっほっほ、やっとるのう」
「あ、あんたは」
「監督じゃよ。高宮という。高宮栄一。みんなからはたかじいと呼ばれておるよ」
笑ったようにも見えるが、髭と皺のせいで、その表情は久賀にはよくわからなかった。
「さて、久賀よ。おぬしには、特別メニューを課そうかのう。ついてまいれ」
「高宮監督」
「たかじいでよいよ」
「おれは」
「黙ってついてまいれ」
春日が戻れば、俺は辞める。
それを伝えたかったが、たかじいはどんどん進んでいってしまっていた。
久賀は小走りで、後をついていく。こんなに脚の早い老人がいるのか、と思った。
体育館裏。
用がない限り誰も近付かないであろう場所に、二人はいた。
久賀は肩で息をしているが、たかじいは一つも呼吸を乱していない。
「雑草がみっともないじゃろう」
たかじいが指差した先。
長く伸びた雑草が、生い茂っていた。かなりの面積を、雑草が占めている。雑草の海のように、久賀には見えた。
「ぜんぶ毟れ。ほれ、軍手じゃ」
「は?」
「水は、飲むようにのう。それと、鎌などは使わぬように」
「意味がわからねえよ」
「ほっほっほ。根から抜くんじゃぞ」
久賀が唖然としていると、たかじいはいつの間にか遠ざかっていて、ほんの数分で体育館裏から姿を消していた。
「なんだ、これ」
一人残された久賀は、もう一度、あたりを見渡してみた。
やはり、雑草だらけである。見渡す限りの雑草だ。とりあえず煙草をと、ポケットを探るが、捨ててしまっていることに気付いて苦笑した。
-なにが草むしりだ。ふざけやがって。逃げちまうか。
そう思って一歩、踏み出してはみたが、不意に脳裏に春日の顔が浮かんだ。
「ぼくが戻るまで、マウンドを守ってよ」
そう言ったあの顔を、久賀は忘れることができない。
「くそっ」
舌打ちをして、久賀はしゃがみこんだ。地面に近いせいか、暑く感じる。汗は更に全身から吹き出てきた。
さらに雑草のにおいが、久賀の鼻をつく。流れる汗が、目にしみる。
軍手をして、雑草のかたまりを掴んでみた。
引っこ抜こうとするものの、抜くことができない。ぐっと力を入れ、ようやく抜くことができた。屈辱な事に、尻餅をつく。
それから、根についた土を払って落とした。
「これを繰り返すのかよ」
大量の汗が流れ続けている。
延々と続く緑色の地獄を見て、久賀は覚悟を決めたのだった。
陽が落ちていく。夕焼け空には烏が飛んでいた。
夢中だった。何も考えていない。ただ、目の前にある雑草を、根から抜くだけ。気付いた時、山のように雑草を積み上げていた。
汗が、顎の先から滴り落ちていく。
「とんでもねえ量だな」
呟き、久賀は地面に腰をおろした。雑草を積み上げて作った山。しかし氷山の一角だ。
まだまだ、まだまだ雑草は生えている。とても一日でどうこうできる状態ではなかった。
野球部の練習は、まだ続いているようだった。声が聞こえているからだ。体育館裏にいるのだが、ここまで声は響いている。
久賀は、再び草を抜き始めた。
軍手はすでに真黒になっている。
「ほほう、一日でここまで取るとはのう」
嗄れた声がして、久賀の身体はぴくりと反応した。やはりこの老人には気配を全く感じない。
久賀は手を止めた。
背後に、たかじいが立っている。
「なかなかやりおるわい」
「こんなことをやらせて、何か意味があるんすか?」
「綺麗になるじゃろ」
「おれは、野球をやりにきたんだ。それに、春日が戻ればすぐに辞める。なんでこんな」
「ついてまいれ」
こちらの言うことは何も聞いていないような素ぶりで、たかじいは歩き出した。
「こっちにも草はあるんじゃ。あちらが終われば、こちらもやってくれい」
「ふざけんな。おい、おれを、誰だと思ってる」
中学の時、予選の決勝まで一人で投げ抜いてきた男だぞ。
そこまでは言わず、久賀は唾を飲み込んだ。
白球さえ握らせてもらえれば、マウンドにさえ登らせてくれれば、ある程度は投げ、抑えられる自信が、久賀にはあった。
二年のブランクがあるとはいえ、地元にはほとんど敵はいなかったのだ。今でも通用する。そう思っている。
得意だったスライダーの投げ方も、忘れてはいない。
「はやく、投げさせろ。春日が戻るまでの全試合で、おれは抑えてみせるぞ」
「久賀よ。右手を見せてみい」
久賀が右手を差し出す前に、いつの間にかたかじいは久賀の右手を掴んでいた。軍手を簡単に外される。
「怠けている者の手じゃのう。おぬしにボールを握らすなど百年早いわい」
「なんだと」
「よいな。指示をした箇所の雑草を全て毟ること。終わるまではボールを握るな。できなければ、去れ。おぬしなどこのチームにいらん」
たかじいの皺の奥の目が、一瞬、鋭く光った。
背筋に冷たいものが走る。恐怖に似たようなものに、久賀は襲われていた。
何も言い返すことができない。
久賀はただ、唇を噛んだ。
「今日の全体練習は終いじゃ。これよりは各自の練習時間となる。帰るも自由じゃ。残って草を毟ってもよいぞ。帰る時はくれぐれも気をつけるようにのう」
たかじいの表情は、先ほどとは打って変わって、穏やかなものになっていた。
先ほどの凄味はいったいなんだったのだろうかと、久賀は思った。
「ほっほっほ。わしも帰るぞ」
そう言って、たかじいは夕焼け空の下に消えていった。
やがて夕焼けは、だんだんと闇に飲まれていく。ほんの少しだが、風が吹くようになってきていた。
「くそったれ。やってやろうじゃねえか」
チャイムが鳴る。こんな時間まで学校に残っていた事など、初めての経験だった。
いつの間にか辺りは真っ暗になっていて、腹も空き始めている。少し前なら、今頃バイトをしていた時間帯だ。暇であれば、賄いの飯を食べていた頃かもしれない。
それでも久賀は、草を毟る手を止めようとはしなかった。
自分の中の何かに、火がついてしまっているからだ。そしてしばらくそれは燃え尽きそうになかった。
雑草でできた山が、いくつもできていく。土のにおいが、さらに強くなってきている。
汗は相変わらず流れ続けていた。不快な感じは不思議となかった。
途中、何度か水を飲んだ。顔も洗った。
声が聞こえなくなっているので、野球部の連中も、残っている者はいないようだった。
ただ黙々と草を抜き続ける。何も考えることはなかった。徐々に、土色の面積が広がっていく。
ただひたすらに草を抜き続け、気づいた時には指示されたところの草はもうなかった。ぼんやり浮かぶ月や、外灯の明かりだけを頼りに、抜き続けた。雑草でできた山が、いくつもある。
校舎の時計は、三時をまわったところだった。
「へへ、どうだ」
全身を、言い様のない疲労感が包んでいる。帰ろう。
原付に乗り、久賀は学校をあとにした。
翌日の練習に行った時、たかじいは驚きの表情を見せていた。
皺と髭ばかりの顔だが、それはわかったのだ。
「あれから、ずっと草を毟り続けたか」
「まあな」
「おぬし、見た目よりずっと根性があるのう。少し見直したわい」
「じゃあ、ボールを」
「よかろう。ついてまいれ」
ようやくボールを投げられる。久賀の心は否応なしに踊った。
やはり野球は、投げて、打つスポーツである。
それ以外の事に時間を費やす意味が、久賀にはわからなかった。
しかしたかじいが向かった先には、ところどころに破れがあるビニールハウスがあるだけだった。
学校にこんな場所があったのかと、久賀は思った。たかじいは、学校を知り尽くしているのかと久賀は思った。
「なんすか、ここ」
ビニールハウスの中は、むわっとした熱気がこもっていた。当然であるが、暑い。殺人的な暑さである。そして土のにおいも、きつい。埃っぽくもあった。
「ここがおぬしの拠点じゃ」
「拠点?」
「ここをスタートとし、まずはグラウンドを二十周走ること。走り抜いたら、このハウス内で、指立て伏せじゃ。やってみい」
「おい、約束が違うじゃねえか。ボールは」
「やってみい、と言っておる」
この老人に何を言っても無駄だ。久賀は悟った。皺の奥の目が、自分を見据えてくるのだ。
張り倒したくもなってくるが、唇を噛んで久賀は実践した。あの目から逃げられる気がしない。
「久賀よ、腕立て伏せではない。指立て伏せじゃ。全身を支えるのは、両手の指。人差し指と中指。そして親指の三本じゃ」
「くっ」
呻きに似た声が漏れる。
両手、しかも、六本の指だけで体を支えるのは、これまでにないほどの苦痛があった。
腕が、情けない程に震えだしている。
「顎を地面につけるまで下げよ。それを、二十回。そうじゃのう、五セットじゃな。終わったらまた、二十周走れ」
「な、何日続けたら、ボールをさわれる?」
「二週間」
「くそっ」
たかじいに言われるがまま、まずは走った。
しかしハウスの中にいるよりはずっといいと久賀は思った。走ることによって、全身に風をあびることができるからだ。ハウスの中だと、風を受けることができない為に、とてつもない熱気が全身を包み込むのだ。そしてそれから逃れる事もできない。
グラウンドを五周走るまではかなりきつかったが、そこをこえてからは、心地良さを感じるようになっていた。
なんとか二十周を走り抜き、ハウスの中に入る。
殺人的な暑さは、変わってはいなかった。
指立て伏せ。これまでの人生で、実践したことはなかった。
自分の身体を、僅か六本の指だけで支える。そして地面に顎がつくまで腕を折り曲げる。
汗は、滝のように流れていた。しかし構わなかった。目の中に入り、刺激が走る。呻きを漏らし、倒れた。
目を閉じる。自分の中についた火を、確認した。大丈夫、いまだに燃え盛っている。それにその火は、だんだん大きくなっているような気さえする。
かろうじて指立て伏せも終え、久賀は再び走り始めた。腕も、指も、震えていた。
ハウスの外は、すでに暗くなっている。走りながら、久賀は大きく息を吸い込んだ。外がこんなに心地良いとは。ここは天国か、と思う。
校舎の時計は、十九時をまわっていた。
野球部の連中は、まだ練習を続けている。今響いた大きな声は、幸村のものだろう。幸村の顔を思い出して、なぜか久賀は笑った。理由は自分でもわからない。
「そこまでとせよ」
十四周目に入った時、たかじいに呼び止められた。
「ご苦労じゃった。ここまで根を上げないとは、やるのう、おぬし」
息はあがっている。それに間違いはない。しかし久賀の心に苦痛はなかった。もう、そういう感覚は麻痺してしまっているのかもしれない。
「まあ、これも春日が戻ってくるまでの辛抱だ。春日が戻れば、やめてやる。こんなもの」
「ほっほっほ」
それから二週間。雨が降った時もあったが、久賀は、たかじいに言われた通りの練習メニューをこなしたのだった。
しかし、この鈍りきった身体と肺が、言うことを聞かない。
走りながら、久賀は自嘲した。あまりに長い間、自分は怠けすぎたのだろう。
息が苦しい。脚が重い。まだ僅かな距離しか走っていないが、全身は汗にまみれていた。
野球部に入るにあたり、久賀はまず、煙草を捨てた。捨ててしまえばもう、吸いたいという欲求は湧いてこない。もともと、そんなに好きではなかったのだ。ただ、自暴自棄になって吸っていただけなのかもしれない。
-しかしこんなに体力なかったか。
咳き込みそうになるが、久賀はぐっと堪えた。格好の悪い姿を、周りに見せたくはない。
ランニングが終わったところで、ストレッチに入る。
すでに久賀の体力はかなり削られていた。
「おぬしが、久賀か」
ストレッチをしているところで、久賀は声をかけられた。聞いたことのない声である。山内ヘッドコーチ以上に嗄れた声だ。
それにまったく近付いてくる気配を感じなかったので、久賀は少し驚いていた。
「なんすか」
「幸村から、話は聞いておるよ。よろしくのう」
長く伸びた白い髭が、少し揺れた。
腰が曲がっているせいで、身長は随分と低く見える。
やはり聞き間違いではなく、声は老人らしく嗄れていて、顔に刻まれた皺は深いが、その奥、目の光は強かった。
「だれすか、あんた。ここは老人のくるところじゃ」
「こんにちは!!」
久賀が言葉を言い終わる前に、全員が大きな声で挨拶をしていた。帽子も取って、一礼している。
目の前にいる、この老人に向けての挨拶だということは、疑いようがなかった。
「ほっほっほ、やっとるのう」
「あ、あんたは」
「監督じゃよ。高宮という。高宮栄一。みんなからはたかじいと呼ばれておるよ」
笑ったようにも見えるが、髭と皺のせいで、その表情は久賀にはよくわからなかった。
「さて、久賀よ。おぬしには、特別メニューを課そうかのう。ついてまいれ」
「高宮監督」
「たかじいでよいよ」
「おれは」
「黙ってついてまいれ」
春日が戻れば、俺は辞める。
それを伝えたかったが、たかじいはどんどん進んでいってしまっていた。
久賀は小走りで、後をついていく。こんなに脚の早い老人がいるのか、と思った。
体育館裏。
用がない限り誰も近付かないであろう場所に、二人はいた。
久賀は肩で息をしているが、たかじいは一つも呼吸を乱していない。
「雑草がみっともないじゃろう」
たかじいが指差した先。
長く伸びた雑草が、生い茂っていた。かなりの面積を、雑草が占めている。雑草の海のように、久賀には見えた。
「ぜんぶ毟れ。ほれ、軍手じゃ」
「は?」
「水は、飲むようにのう。それと、鎌などは使わぬように」
「意味がわからねえよ」
「ほっほっほ。根から抜くんじゃぞ」
久賀が唖然としていると、たかじいはいつの間にか遠ざかっていて、ほんの数分で体育館裏から姿を消していた。
「なんだ、これ」
一人残された久賀は、もう一度、あたりを見渡してみた。
やはり、雑草だらけである。見渡す限りの雑草だ。とりあえず煙草をと、ポケットを探るが、捨ててしまっていることに気付いて苦笑した。
-なにが草むしりだ。ふざけやがって。逃げちまうか。
そう思って一歩、踏み出してはみたが、不意に脳裏に春日の顔が浮かんだ。
「ぼくが戻るまで、マウンドを守ってよ」
そう言ったあの顔を、久賀は忘れることができない。
「くそっ」
舌打ちをして、久賀はしゃがみこんだ。地面に近いせいか、暑く感じる。汗は更に全身から吹き出てきた。
さらに雑草のにおいが、久賀の鼻をつく。流れる汗が、目にしみる。
軍手をして、雑草のかたまりを掴んでみた。
引っこ抜こうとするものの、抜くことができない。ぐっと力を入れ、ようやく抜くことができた。屈辱な事に、尻餅をつく。
それから、根についた土を払って落とした。
「これを繰り返すのかよ」
大量の汗が流れ続けている。
延々と続く緑色の地獄を見て、久賀は覚悟を決めたのだった。
陽が落ちていく。夕焼け空には烏が飛んでいた。
夢中だった。何も考えていない。ただ、目の前にある雑草を、根から抜くだけ。気付いた時、山のように雑草を積み上げていた。
汗が、顎の先から滴り落ちていく。
「とんでもねえ量だな」
呟き、久賀は地面に腰をおろした。雑草を積み上げて作った山。しかし氷山の一角だ。
まだまだ、まだまだ雑草は生えている。とても一日でどうこうできる状態ではなかった。
野球部の練習は、まだ続いているようだった。声が聞こえているからだ。体育館裏にいるのだが、ここまで声は響いている。
久賀は、再び草を抜き始めた。
軍手はすでに真黒になっている。
「ほほう、一日でここまで取るとはのう」
嗄れた声がして、久賀の身体はぴくりと反応した。やはりこの老人には気配を全く感じない。
久賀は手を止めた。
背後に、たかじいが立っている。
「なかなかやりおるわい」
「こんなことをやらせて、何か意味があるんすか?」
「綺麗になるじゃろ」
「おれは、野球をやりにきたんだ。それに、春日が戻ればすぐに辞める。なんでこんな」
「ついてまいれ」
こちらの言うことは何も聞いていないような素ぶりで、たかじいは歩き出した。
「こっちにも草はあるんじゃ。あちらが終われば、こちらもやってくれい」
「ふざけんな。おい、おれを、誰だと思ってる」
中学の時、予選の決勝まで一人で投げ抜いてきた男だぞ。
そこまでは言わず、久賀は唾を飲み込んだ。
白球さえ握らせてもらえれば、マウンドにさえ登らせてくれれば、ある程度は投げ、抑えられる自信が、久賀にはあった。
二年のブランクがあるとはいえ、地元にはほとんど敵はいなかったのだ。今でも通用する。そう思っている。
得意だったスライダーの投げ方も、忘れてはいない。
「はやく、投げさせろ。春日が戻るまでの全試合で、おれは抑えてみせるぞ」
「久賀よ。右手を見せてみい」
久賀が右手を差し出す前に、いつの間にかたかじいは久賀の右手を掴んでいた。軍手を簡単に外される。
「怠けている者の手じゃのう。おぬしにボールを握らすなど百年早いわい」
「なんだと」
「よいな。指示をした箇所の雑草を全て毟ること。終わるまではボールを握るな。できなければ、去れ。おぬしなどこのチームにいらん」
たかじいの皺の奥の目が、一瞬、鋭く光った。
背筋に冷たいものが走る。恐怖に似たようなものに、久賀は襲われていた。
何も言い返すことができない。
久賀はただ、唇を噛んだ。
「今日の全体練習は終いじゃ。これよりは各自の練習時間となる。帰るも自由じゃ。残って草を毟ってもよいぞ。帰る時はくれぐれも気をつけるようにのう」
たかじいの表情は、先ほどとは打って変わって、穏やかなものになっていた。
先ほどの凄味はいったいなんだったのだろうかと、久賀は思った。
「ほっほっほ。わしも帰るぞ」
そう言って、たかじいは夕焼け空の下に消えていった。
やがて夕焼けは、だんだんと闇に飲まれていく。ほんの少しだが、風が吹くようになってきていた。
「くそったれ。やってやろうじゃねえか」
チャイムが鳴る。こんな時間まで学校に残っていた事など、初めての経験だった。
いつの間にか辺りは真っ暗になっていて、腹も空き始めている。少し前なら、今頃バイトをしていた時間帯だ。暇であれば、賄いの飯を食べていた頃かもしれない。
それでも久賀は、草を毟る手を止めようとはしなかった。
自分の中の何かに、火がついてしまっているからだ。そしてしばらくそれは燃え尽きそうになかった。
雑草でできた山が、いくつもできていく。土のにおいが、さらに強くなってきている。
汗は相変わらず流れ続けていた。不快な感じは不思議となかった。
途中、何度か水を飲んだ。顔も洗った。
声が聞こえなくなっているので、野球部の連中も、残っている者はいないようだった。
ただ黙々と草を抜き続ける。何も考えることはなかった。徐々に、土色の面積が広がっていく。
ただひたすらに草を抜き続け、気づいた時には指示されたところの草はもうなかった。ぼんやり浮かぶ月や、外灯の明かりだけを頼りに、抜き続けた。雑草でできた山が、いくつもある。
校舎の時計は、三時をまわったところだった。
「へへ、どうだ」
全身を、言い様のない疲労感が包んでいる。帰ろう。
原付に乗り、久賀は学校をあとにした。
翌日の練習に行った時、たかじいは驚きの表情を見せていた。
皺と髭ばかりの顔だが、それはわかったのだ。
「あれから、ずっと草を毟り続けたか」
「まあな」
「おぬし、見た目よりずっと根性があるのう。少し見直したわい」
「じゃあ、ボールを」
「よかろう。ついてまいれ」
ようやくボールを投げられる。久賀の心は否応なしに踊った。
やはり野球は、投げて、打つスポーツである。
それ以外の事に時間を費やす意味が、久賀にはわからなかった。
しかしたかじいが向かった先には、ところどころに破れがあるビニールハウスがあるだけだった。
学校にこんな場所があったのかと、久賀は思った。たかじいは、学校を知り尽くしているのかと久賀は思った。
「なんすか、ここ」
ビニールハウスの中は、むわっとした熱気がこもっていた。当然であるが、暑い。殺人的な暑さである。そして土のにおいも、きつい。埃っぽくもあった。
「ここがおぬしの拠点じゃ」
「拠点?」
「ここをスタートとし、まずはグラウンドを二十周走ること。走り抜いたら、このハウス内で、指立て伏せじゃ。やってみい」
「おい、約束が違うじゃねえか。ボールは」
「やってみい、と言っておる」
この老人に何を言っても無駄だ。久賀は悟った。皺の奥の目が、自分を見据えてくるのだ。
張り倒したくもなってくるが、唇を噛んで久賀は実践した。あの目から逃げられる気がしない。
「久賀よ、腕立て伏せではない。指立て伏せじゃ。全身を支えるのは、両手の指。人差し指と中指。そして親指の三本じゃ」
「くっ」
呻きに似た声が漏れる。
両手、しかも、六本の指だけで体を支えるのは、これまでにないほどの苦痛があった。
腕が、情けない程に震えだしている。
「顎を地面につけるまで下げよ。それを、二十回。そうじゃのう、五セットじゃな。終わったらまた、二十周走れ」
「な、何日続けたら、ボールをさわれる?」
「二週間」
「くそっ」
たかじいに言われるがまま、まずは走った。
しかしハウスの中にいるよりはずっといいと久賀は思った。走ることによって、全身に風をあびることができるからだ。ハウスの中だと、風を受けることができない為に、とてつもない熱気が全身を包み込むのだ。そしてそれから逃れる事もできない。
グラウンドを五周走るまではかなりきつかったが、そこをこえてからは、心地良さを感じるようになっていた。
なんとか二十周を走り抜き、ハウスの中に入る。
殺人的な暑さは、変わってはいなかった。
指立て伏せ。これまでの人生で、実践したことはなかった。
自分の身体を、僅か六本の指だけで支える。そして地面に顎がつくまで腕を折り曲げる。
汗は、滝のように流れていた。しかし構わなかった。目の中に入り、刺激が走る。呻きを漏らし、倒れた。
目を閉じる。自分の中についた火を、確認した。大丈夫、いまだに燃え盛っている。それにその火は、だんだん大きくなっているような気さえする。
かろうじて指立て伏せも終え、久賀は再び走り始めた。腕も、指も、震えていた。
ハウスの外は、すでに暗くなっている。走りながら、久賀は大きく息を吸い込んだ。外がこんなに心地良いとは。ここは天国か、と思う。
校舎の時計は、十九時をまわっていた。
野球部の連中は、まだ練習を続けている。今響いた大きな声は、幸村のものだろう。幸村の顔を思い出して、なぜか久賀は笑った。理由は自分でもわからない。
「そこまでとせよ」
十四周目に入った時、たかじいに呼び止められた。
「ご苦労じゃった。ここまで根を上げないとは、やるのう、おぬし」
息はあがっている。それに間違いはない。しかし久賀の心に苦痛はなかった。もう、そういう感覚は麻痺してしまっているのかもしれない。
「まあ、これも春日が戻ってくるまでの辛抱だ。春日が戻れば、やめてやる。こんなもの」
「ほっほっほ」
それから二週間。雨が降った時もあったが、久賀は、たかじいに言われた通りの練習メニューをこなしたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
【完結】私が愛されるのを見ていなさい
芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定)
公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。
絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。
ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。
完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。
立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる