ダイヤモンド

にゃんすけ

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その未来は今

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 打たれた事で、なんとなく、冷静になれた。
 今はそんな気がしていた。言い聞かせているだけであるということは、十二分にわかっている。
-俺に、抜群の直球はない。大事なのは、四隅に投げ込むコントロール。
たかじいに言われた言葉を、久賀は思いだしていた。
-もう、どうにでもなれ。
マウンドは、処刑場にも似ている。不意にそういう恐怖が襲ってくる。何度も経験してきたはずだ。
 白球を、投げ込む。
 鈍い、金属音が鳴った。
「サード!」
霧島学園の守備陣、その誰もが叫んでいた。
 力のないゴロが、転がっている。
 三塁を守る鳴海が難なく処理し、アウトとなった。
 やがて攻守が交代する。
 解放されたのだ。一つの息を吐き、久賀はマウンドを降りたのだった。
 ベンチに座り、水を浴びるように飲んだ。これまで経験したことのないような、渇きがあった。
 たった三つ。アウトを取るだけの事が、こうも難しいものだったのか。
-頼むから点を取ってくれ。いや、少し、休ませてくれ。
祈るような気持ちで、久賀は霧島学園の攻撃を見つめていたが、いとも容易く終了していた。
-早すぎるだろ。
そう思ってからもう一口だけ、水を口に含んで久賀は立ち上がった。
「肘と肩に、支障はないかの?」
たかじいだった。
 相変わらず、まるで置物のように、そこに座っている。
「ああ。問題ねえ。ただ、打たれた事だけが悔しい」
「野球に復帰して間もない男が、ほいほい抑えられる訳なかろうて。そろそろ泣き言を言う頃と思っておったが、なかなか根性あるのう」
-黙って見てやがれ。
悔しさとその言葉を飲み込んで、久賀はマウンドへと向かった。
 6対0のまま、回は九回の表まで進んでいた。
 結局大きく崩れたのは一度だけで、それからは守備陣に助けられながら、なんとか峰成学院の攻撃を防いでいた。
 九回の表。
 この回を投げ切れば、とりあえず試合は終わる。
 疲労はあった。当然だ。
 右の掌を見る。わずかにだが、震えていた。
「九回の表、峰成学院の攻撃は、七番。レフト、木村君」
あと三人。あと三つ。
 言い聞かせるように呟き、久賀は振りかぶった。
「ストライク!」
初球。指にかかった直球が、横山のミットに吸い込まれた。
 二球目もストライクを取り、簡単に追い込んだが、その直後だった。
 釣り球だった三球目を、センター前に弾き返されていた。
 次打者には四球を与え、無死、走者は一、二塁となる。
-また、点を取られるのか。
そう思い始めた時、不意にグラウンドにアナウンスが響いた。
《峰成学院、代打のお知らせを致します。九番、ピッチャー梓沢君に代わりまして、奈良君》
奈良、と呼ばれた細身の男が、ベンチからゆっくりと打席へ歩き出していた。
 しかしどこか気怠そうな感じで、バットを振っている。
「久賀ちゃん、あいつだ」
幸村の声だった。
 気付けばマウンドに、内野陣が集まってきていた。
「あいつ?」
「ああ。峰成学院のエース。奈良孝介」
「エースが、代打で出てくるのか」
「ピッチャーの時に代わったからな。九回の裏はあいつが登板するんだろ」
久賀はもう一度、奈良の方を見た。
それほどの雰囲気は感じない。それどころか、簡単に抑えられそうな気さえする。
「任せろって。これ以上、点はやらねえ。絶対に」
「頼むぜ、久賀ちゃん。ノーアウト、一、二塁だ。動いてくることはないだろうから、内野はゲッツー狙いでいこう」
幸村の声にこの場にいる全員が頷き、そして散っていく。
 奈良孝介。
 彼はゆっくりと、打席に立った。
 右打席。やはり恐怖は感じない。
 セットポジションに入り、久賀は横山のミットを真っ直ぐ見据えた。
 外角低め。僅かに頷き、投げ込む。
 バットが、揺れた。まさに一瞬の出来事だった。
 快音の後に、鋭い打球がライト線へ飛んでいく。
「ファール!」
強烈すぎるほどの打球が弾き返されていた。かろうじて久賀は目で追う事ができたのだが、あんなに強い打球を見たのは初めての経験だった。
-なんだよ、あれ。
これまでの打者とは格が違う打球だった。
 相変わらず気怠そうに構えているが、スイングスピードは圧倒的で、久賀は初めて恐怖心を抱いていた。
-打ちそうな構えではない。少なくとも、そういう雰囲気は微塵も感じない。
今までの野球人生で対峙した誰よりも、力の抜けた構えだ。
 二球目、三球目は外し、四球目。
 内角。
 今日一番の球だと自負した。
 しかし、振ってくる。直感だった。
 やがて響いた快音に、心臓が一瞬止まったように久賀は思った。
 打球は高々と、青い空を切り裂いていった。
 レフト線。レフトを守る矢森が、懸命に下がっている。
「ファール!ファールボール!」
三塁塁審が叫んでいた。
 同時に久賀は、胸を撫で下ろした。
 あんな構えで、打ちそうな雰囲気などまるでないのに、スイングの瞬間だけ、別人に変わるのだ。背筋が凍るとはこの事を言うのかと、久賀は思った。
 五球目は、真後ろに飛ぶファールだった。
 タイミングは完全に合わせられている。
 捉えられるのは時間の問題だ。
-どこに投げたらいい。どうする。
横山の表情は変わっていないように見える。マスクの奥。キャッチャーミットは、真ん中高めにあった。
 カウントは、ツーボール、ツーストライクだ。あと一球、ボール球を投げられる。
 しかしそれは所詮、逃げでしかないと久賀は思った。
 唾を飲み込んだ後、久賀は一度だけ、首を横に振った。
-それじゃ抑えられねえ。横山、お前、わかってるだろ。
 スライダー。
 それしかないと久賀は思った。
 中学時代、幾度とないピンチを切り抜けてきた、スライダーだ。
 地元に、敵はいなかった。
 自分の中学時代は、このスライダーと共に在ったといっていいほど、信頼してきた切り札なのだ。
 そしてそれは今でも錆びついてはいない。
 何かを悟ったのか、横山は小さく頷き、キャッチャーミットを真ん中に構え直した。
 奈良孝介。変わらずの気怠そうな構えではあるが、今はそれを不気味に感じる。
 小さく脚を上げ、踏み出す。
 指先に、確かな感触がある。
 離れていく。白球。縫い目まで、見えた。
 奈良のバットが始動する。
 白球は真ん中に構えられたミットに向かっていたが、徐々にスライドしていく。
 時間が止まったような気に、久賀はなっていた。
 再び時間が動き出したのは、快音が鳴った瞬間だった。
 スライダーを、打たれたのだ。
 打球はどこだ。探すより先に、久賀の目に飛び込んできた。
 唸りをあげて、こちらに向かっている。
「久賀ちゃん!」
幸村の声を聞く。咄嗟に、久賀は左手のグラブを真上に出していた。
 頭上を超えるかもしれない。
 そうなれば、無論、打球はセンターへ抜ける。失点は免れない。
 久賀は、その場で跳んだ。真上に、グラブは出したままだった。
 必死に伸ばした左手。
 春日に借りたグラブから、確かな衝撃が伝わる。
 捕った。いや、掴んだ。春日が捕らせてくれた。そんな気がする。
 思考はなかった。しかし体は動き続けている。
 着地と同時に、久賀は体を捻って二塁へ投げた。無意識のうちにである。
 幸村と一瞬目が合う。笑い合ったような気がした。
「アウト!」
飛び出していた走者は帰塁できず。併殺が完成したが、幸村の体は動き続けていた。
「アウト!」
幸村は、そのままの流れで一塁にも送球したのだ。
 一塁走者は、センター前に抜けると思っていたのだろう。かなり大きく飛び出してしまっていたので、ヘッドスライディングをしていたが、間に合わずにいた。
 三重殺が、完成した。
様々な場所から、どよめきの声があがっている。
「トリプルプレーかよ」
思わず久賀は呟いていた。
「久賀ちゃん、やったな!」
弾けるような笑顔で幸村が言う。
「ああ」
-ありがとう、春日。
ベンチに戻りながら、久賀は春日のグラブに視線を落とした。
 一瞬、不意に胸騒ぎのようなものを感じたが、気のせいだろうと久賀はスコアボードに目をやった。
 6対0。
 点差は変わっていない。
-この試合、勝てば春日は戻ってくる気がする。
まだ終わってはいない。
「しゃあ!!このままの勢いでいくぞ!点差は考えるな!自分のバッティングをしようぜ!」
円陣を組み、その中心で幸村が声を張り上げていた。
《峰成学院、選手の交代をお知らせ致します。キャッチャー、高瀬君に代わりまして、佐久間君》
九回の裏。
 峰成学院のマウンドに上がっているのはやはり、先ほど代打で出てきた奈良だった。
 そしてキャッチャーに、佐久間と呼ばれた男が座る。
「佐久間」
久賀は小さく呟いた。
「ああ。峰成学院の正捕手、佐久間真司。最後の最後で本気を出してきやがった」
「おい、幸村。ということは」
「気付かなかったか、久賀ちゃん。相手はずっと、二軍だった。なめられたもんだぜ」
《九回の裏、霧島学園の攻撃は、一番、センター萩原君》
最後の攻撃が始まる。
 久賀はベンチには腰かけず、打席に立つ萩原の背中をぼんやりと見ていた。
-相手はずっと、二軍だった。
幸村のその言葉が、久賀の頭の中を回り続けていた。
 風が頬を打っていく。
 秋の風に変わりつつある、と久賀は思った。



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