ダイヤモンド

にゃんすけ

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 この病院に来たのは、三度目だった。
 最初は、春日が運ばれた翌日。
 二度目は、集中治療室に入ったと聞いた時だ。
-春日が事故に巻き込まれた。
それを聞いた時、横山の目の前は真っ白になった。
なぜ。なぜ、春日でなければならなかったのか。
 横山は、広島から引っ越して来た時、もう野球はやらないと決めていたので、キャッチャーミットをはじめ野球道具は全て捨てていた。
 二度、大きな怪我をしたし、何より野球を楽しいと思えなくなっていたからだ。
 しかし、霧島学園で春日と出会い、それから何かが変わっていった。
 やがてチームに萩原や矢森、一年生が何人か加わり、チームとしての体を成していった。一年生は素人だったが、野球を観るのは好きだという。それだけで十分だと横山は思った。何より、一年生は進んで頭を丸めてきたのだ。
 どこかの誰かのように、長髪で、染髪しているような人間が、横山は心の底から大嫌いだった。
 霧島学園の野球部の活動が、ようやくはじまった。まさにこれから、という時に、春日は事故に巻き込まれたのだ。
「将人」
かけてきた幸村の声に、力はなかった。
 枯れてしまっている。どれだけ叫んでも、どれだけ祈っても、春日はもう、帰ってはこない。
 握りしめていた拳に、一雫、何かが落ちた。
 淀んだ曇り空だ。
 雨が落ちて来てもおかしくはない。
「将人、信じられねえよ、おれ」
かすれた声で幸村が続ける。
 幸村の目からは、大粒の涙が溢れていた。
 横山は、何も言わなかった。
-何も、言えなかった。
震えた、情けない声が出てしまいそうで、それを幸村に聞かれるのが嫌だったからだ。
 横山は、握りしめていた拳を、さらに強く握った。
 ぽつり、ぽつりと、拳の上に雫は落ち続けている。
 傘はない。しかしこのまま雨に打たれ続けていようと横山は思った。
 峰成学院との試合前に、春日は、すでに息を引き取っていたということを、試合後に聞いた。
 たかじいがその事実を知っていたのかどうかはわからない。
 今となっては、知っても意味のないことだ。
 今更何を知ったところで、春日が帰ってくることはないのだ。
 試合には、勝てなかった。
 九回の裏にマウンドに上がった奈良孝介の前に、打線は完全に沈黙した。
 まさに、別格だった。
 奈良孝介。その名前を、横山は霧島学園に入学してから春日に聞いた。とてつもない怪物がいると、春日は真剣な目をして言っていたのだ。そして同時に、倒したいとも。
 初めてその技術を目の当たりにして、横山は衝撃を受けた。広島にいた時から、これまでに衝撃を受けた選手は何人かいるが、奈良孝介は間違いなく五指に入るだろう。
 打撃もさることながら、彼の本領はやはり投球だと横山は思った。
 三番に座る幸村でさえ、三球三振に終わったのだ。
 自分達の現在地を知れ。
 試合前にたかじいはそう言っていたが、この距離があと一年で本当に縮まるのかどうか、横山は正直、自信は持てなかった。
 目の前を見る。
 幸村は変わらず泣き続けていた。
 幸村の顔を直視できず、横山は下を向いた。
 握り締め続けている拳。
 雨だと思っていた雫は、自分の目から落ちる涙だった。
 空は、やはり淀んでいる。
 しかしはじめから雨など降ってはいない。  
「春日という男を」
ようやく、横山は声を絞り出した。
喉の奥。鼻の奥がつんと痛くなる。声を出すことは、こんなに難しかったかと横山は思った。
 それでも、横山は言葉を続けた。
「春日という男がいたことを、忘れないこと。俺達にできるのはそれだけじゃ」
その言葉を放った後、横山の目からは涙がとめどなく溢れ出た。
「必ず、必ず優斗のユニフォームをもって、甲子園へいく。必ずだ」
泣きながら、幸村が言った。震えた声だが、強い意志のある声だと横山は思った。
 幸村は、時折、感情を爆発させる。喜怒哀楽の差がかなり大きいのだ。それが、横山は好きだった。こういう男になら、心を開ける。そう思えるからだ。
 横山は一度だけ、幸村の言葉に応えるように、首を縦に振った。
 幸村が立つ、その向こう側に目をやる。
 涙で視界がぼやける中、藍色の傘を横山は見つけた。
 傘で顔は隠れているが、なんとなく久賀だろうと思った。
 久賀諒平。
 あの男を、自分は好きになれそうにない。
 春日が連れてきた男だということはわかっている。
 しかしあの長髪と態度が、やはりどうしても横山は許せなかった。あんな男は、グラウンドに立つ資格すらないと思っている。
 藍色の傘は、だんだんこちらに近付いてきていた。
横山は、慌てて無理矢理、流れてくる涙を拭い、藍色の傘の下、久賀諒平を見据えた。
「辞めようと」
久賀は、下を向いていた。
 手には傘と、もう一つ、包みがあった。
「辞めようと思ってたんだ。春日が戻ってきたら。その時おれは消えようと。でも」
小さな声で、久賀は言った。
「辞められねえじゃねえか。春日、お前、いつ戻ってくるんだよ」
まるで独り言のように、久賀は言葉を続けていた。
 幸村も、久賀の存在に気付いたようで、涙を浮かべたまま、そちらに目を向けていた。
「幸村。春日に借りたままのグラブ、これ、どうしたらいい?」
そう言いながら、久賀は包みを広げた。
 いつも見ていた、春日のグラブが、そこにあった。
 使いこまれた、投手用の良い色をしたグラブだ。グラブを見れば、持ち主の野球人としての人となりは大体わかる。
「久賀ちゃん、頼むからそんなこと言わないでくれ。もう、おれ達のピッチャーは、久賀ちゃんしかいないんだから」
震えた声で、幸村が答える。
「負けたのは、おれの責任だ。六点も取られたんだぞ。それも、二軍を相手に」
久賀の表情は、よくわからなかった。
 傘を差したままで、俯いているからだ。しかし声は、いつもよりずっと小さい。
「試合が崩壊したわけじゃない。久しぶりに投げて、六点しか取られなかったんだ。久賀ちゃんの実力は本物だよ。やっぱり優斗の目に狂いはなかったんだ」
優斗、という言葉が出てきた時、幸村の目から一筋の涙がこぼれた。
 横山は、二人の会話をただ黙って聞いていた。
「久賀ちゃん。辞めるのは久賀ちゃんの自由だけど」
不意に、幸村の声に力がこもった。
 震えが、消えたのだ。
「おれと優斗と、将人も多分そうだ。久賀ちゃんの投げるボールに夢を見た」
幸村の言うことは、認めたくはないが、確かに正しかった。
 態度は気に入らないが、峰成学院戦、時折はっとする直球を投げ込んできたのだ。受けていた自分が、それは一番よくわかっている。あれはブランクのある男が投げる球ではない。
 僅かな期間の練習でここまで仕上げるのは、並大抵のことではない。
 間違いなく、まだまだ荒削りではあるが、この男に才能というものはある。
「久賀ちゃんとなら、甲子園へ行ける。ここで辞めちまうのは、本当にもったいねえよ」
幸村の声は、力強かった。
 今は、涙も止まっている。
「おれは」
「0点じゃ。峰成学院のおまえのピッチングは」
久賀の言葉を遮り、横山は言った。
「将人」
幸村の顔が横山に向く。少し怒気を含んでいた。横山はちらりと幸村に目をやり、黙らせた。
「ストライクゾーンの端も使えんコントロール。四隅を突く練習をしとったんと違うんか」
久賀の目が、横山を向く。
 その目は真っ赤に充血していた。
「じゃがまあ、あのスライダーだけはナンボか良かった」
思わず出た本音だった。
 あのスライダーが奈良のバットの芯を外し、ピッチャーライナーに打ち取ったのだ。
 あのまま直球を投げ続けていたら、まず間違いなく打球はスタンドを越え、大量失点に繋がっていただろう。
 奈良でさえ、あのスライダーの変化量を見誤ったのだ。
 そしてあのスライダーは、更に磨ける。まだまだ発展の途上にあると横山は思っていた。
 涙は止まっていた。
 野球の話をしていると、自然と前を向いてしまうからだろうと横山は思った。
 日が暮れる。
 どんよりした曇り空だが、西の空に確かに光り輝く太陽がある。
 春日は、病室にはもういないようで、地下の遺体安置室で眠っているとのことだった。
 だから今は会えない。
 いや、もう、会うことは叶わない。
 三人は、誰かが合図するでもなく、自然と歩き始めていた。
 途中、久賀だけ帰り道が別の方向なので、そこで別れた。
「雨など降っておらんのに、馬鹿な奴じゃの」
横山と幸村は、久賀の後ろ姿を見送った。
 藍色の傘が、遠ざかって消えていく。
 明日は、晴れたらいい。
 滲んだ景色を見ながら、横山はそう思った。




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