8 / 8
浮雲
しおりを挟む
四時限目の授業は、出ないことにした。
そういえば、三時限目も出ていない。二時限目はどうだったか、思い出せないので考えるのはもうやめた。
まあいいかと、矢森は、人工芝の上に寝転がった。
体育館裏である。九月だ。しかし外はまだ暑い。だからここはとてもいいと思った。人の気配がないし、なにより日が差してこないので涼しいのだ。
もともとこの辺りは、雑草でいっぱいで、とても寝転がれるような場所ではなかったのだ。じめじめしていたような気もする。
しかし何週間か前に、たかじいの指示で、久賀が一本残らず全部抜いたらしい。
その後にこの人工芝が敷かれたのだ。雑草対策ということなのだろう。
「ったく、ご苦労なこって」
大きなあくびをし、寝ようと思ったその時だった。
不意に誰かの気配を矢森は感じ、片目をあけた。
「矢森…か?」
「誰かと思えば我らがエース、久賀じゃないか。おまえもサボりか?」
片目を開け続けているのも面倒になったので、矢森は両目を閉じていた。
「まあな。いいな、ここ。芝生になったのは知らなかった」
「おまえが草むしり頑張ったからな。まあ座れよ。前に見た事あるぜ、おまえがここの雑草に隠れて、煙草吸ってたの」
にやけながら、矢森が言う。
久賀は胡座をかいて座った。
「やめたよ、煙草は。野球部に入った時に」
「そりゃ、正しい判断だな」
二人の間を、風が吹き抜けていく。
昨日はどんよりとした曇り空だったが、今日は晴れていた。
「なあ、矢森。お前、萩原と仲良いだろ。なんで萩原は、野球部なんだ?あの脚があれば、陸上部だって良かったんじゃねえか」
久賀に何かを聞かれたのは初めてのことだ。
いや、そもそもまともに喋った事すらない。
矢森は、再び片目を開けていた。
「萩原とは、ガキの頃からの付き合いだからな。仲は良いよ。近所だし」
「そうなのか」
「で、なんだって?ああ、陸上ね。あいつは中学まで陸上部だった」
久賀は、萩原の脚の速さに興味を持っているようだった。
それはそうだと矢森思う。萩原の脚力は、誰しもを魅了する。
「まあ、おまえも知ってるかもしれないが、春日の影響だよ。春日に誘われて、萩原は野球部に入ったのさ」
「矢森、お前は?」
「俺?俺はまあ、その時近くにいたからな。暇人だしな」
またひとつ、矢森は大きなあくびをした。
この時間はいつも、空腹と眠気が同時に襲ってくるので、矢森は苦手だった。
だから授業を抜け出して、やり過ごすのだ。
「俺たちの体育の授業でも見てたんかな、春日のやつ。それで萩原が走る姿を見て、誘ったんだな。そうに違いない」
久賀とは、同じ二年生ではあるが、クラスが違っていた。
萩原と矢森は同じクラスで、春日と幸村、横山が同じクラスだ。久賀だけがひとり、野球部では同じクラスの者がいない。
矢森は、あくびをした後に、ちらりと久賀の方を見た。
久賀は下を向いて、伸びた芝の何本かを千切っている。
矢森は再び、両目を閉じた。
「あの脚はすげえよ。初めてみた。あんなに速い奴」
下を向いたままで、久賀が言う。
穏やかな時間が流れていると、矢森は思った。
萩原は、中学二年の秋には、全国選抜の代表ランナーに選ばれていた。
初めて選ばれた時の嬉しそうな顔を、矢森は未だに覚えている。
しかし結果は、惨敗だった。
上には上がいる。
それを初めて思い知らされたレースだったと、萩原は言っていた。その時の萩原の表情を、矢森はあまり覚えていない。
三年の春も夏も、萩原はエースランナーとして代表に選ばれていたが、やはり、全国では勝てなかった。
-追うべき背中がなくなった。
最後の戦いが終わり、引退を迎えてぽつりと呟いた萩原の言葉は、今も矢森の耳に残っている。
全国で勝てなかったという事実が、きっと萩原の心と体に焼き付いたのだろう。
矢森は、これ以上萩原の事を久賀に話すのは止めようと思った。なんとなく萩原の名誉を傷つけているような気がしたし、話すのが面倒になってきたからだ。
「強かったな」
少しの静寂が訪れていたが、ぽつりと久賀が言った。
「なにが」
両日を閉じたまま、矢森は返事をした。
「こないだの試合さ。峰成学院。強かった。俺は、二軍を相手に六点も取られた」
「上出来じゃねえか。六点。コールドゲームにはなってねえよ」
「どこが上出来だよ」
久賀は、苦笑していた。
それでいいと、矢森は思った。
負けた事をいつまでも悔いても、仕方のないことなのだ。負けた事実が覆る事は絶対にない。
「笑っていこうぜ、久賀。いろいろあるけどよ、まあ、笑ってやってりゃ、なんとかなるさ」
そろそろ本当に寝てしまいそうだ。
矢森はそう思ったので、かなり重くなってきている瞼を無理矢理こじあけた。
「ああ、そうだな」
「レフトの守備は任せろよ。萩原のように脚は速くないが、まあ、目の前にきたボールくらいなら捕れる」
「それは頼もしいな」
今度は久賀は、歯を見せて笑っていた。
-笑えるじゃねえか。
矢森はそう思ってから、立ちあがった。
春日の事は、何も言わないで行こうと思った。
「飯の時間だ。そろそろ行くわ」
少しだけよろけて、前に進む。
矢森はぼんやり、今日の練習の事を考えていた。
野球をするには、うってつけの良い天気だ。
しかし釣りもしたくなる。
午後の授業は抜けて、釣りにでも行くかと思ったが、やめておく。
野球の練習に遅れては悪い。
そういえば、三時限目も出ていない。二時限目はどうだったか、思い出せないので考えるのはもうやめた。
まあいいかと、矢森は、人工芝の上に寝転がった。
体育館裏である。九月だ。しかし外はまだ暑い。だからここはとてもいいと思った。人の気配がないし、なにより日が差してこないので涼しいのだ。
もともとこの辺りは、雑草でいっぱいで、とても寝転がれるような場所ではなかったのだ。じめじめしていたような気もする。
しかし何週間か前に、たかじいの指示で、久賀が一本残らず全部抜いたらしい。
その後にこの人工芝が敷かれたのだ。雑草対策ということなのだろう。
「ったく、ご苦労なこって」
大きなあくびをし、寝ようと思ったその時だった。
不意に誰かの気配を矢森は感じ、片目をあけた。
「矢森…か?」
「誰かと思えば我らがエース、久賀じゃないか。おまえもサボりか?」
片目を開け続けているのも面倒になったので、矢森は両目を閉じていた。
「まあな。いいな、ここ。芝生になったのは知らなかった」
「おまえが草むしり頑張ったからな。まあ座れよ。前に見た事あるぜ、おまえがここの雑草に隠れて、煙草吸ってたの」
にやけながら、矢森が言う。
久賀は胡座をかいて座った。
「やめたよ、煙草は。野球部に入った時に」
「そりゃ、正しい判断だな」
二人の間を、風が吹き抜けていく。
昨日はどんよりとした曇り空だったが、今日は晴れていた。
「なあ、矢森。お前、萩原と仲良いだろ。なんで萩原は、野球部なんだ?あの脚があれば、陸上部だって良かったんじゃねえか」
久賀に何かを聞かれたのは初めてのことだ。
いや、そもそもまともに喋った事すらない。
矢森は、再び片目を開けていた。
「萩原とは、ガキの頃からの付き合いだからな。仲は良いよ。近所だし」
「そうなのか」
「で、なんだって?ああ、陸上ね。あいつは中学まで陸上部だった」
久賀は、萩原の脚の速さに興味を持っているようだった。
それはそうだと矢森思う。萩原の脚力は、誰しもを魅了する。
「まあ、おまえも知ってるかもしれないが、春日の影響だよ。春日に誘われて、萩原は野球部に入ったのさ」
「矢森、お前は?」
「俺?俺はまあ、その時近くにいたからな。暇人だしな」
またひとつ、矢森は大きなあくびをした。
この時間はいつも、空腹と眠気が同時に襲ってくるので、矢森は苦手だった。
だから授業を抜け出して、やり過ごすのだ。
「俺たちの体育の授業でも見てたんかな、春日のやつ。それで萩原が走る姿を見て、誘ったんだな。そうに違いない」
久賀とは、同じ二年生ではあるが、クラスが違っていた。
萩原と矢森は同じクラスで、春日と幸村、横山が同じクラスだ。久賀だけがひとり、野球部では同じクラスの者がいない。
矢森は、あくびをした後に、ちらりと久賀の方を見た。
久賀は下を向いて、伸びた芝の何本かを千切っている。
矢森は再び、両目を閉じた。
「あの脚はすげえよ。初めてみた。あんなに速い奴」
下を向いたままで、久賀が言う。
穏やかな時間が流れていると、矢森は思った。
萩原は、中学二年の秋には、全国選抜の代表ランナーに選ばれていた。
初めて選ばれた時の嬉しそうな顔を、矢森は未だに覚えている。
しかし結果は、惨敗だった。
上には上がいる。
それを初めて思い知らされたレースだったと、萩原は言っていた。その時の萩原の表情を、矢森はあまり覚えていない。
三年の春も夏も、萩原はエースランナーとして代表に選ばれていたが、やはり、全国では勝てなかった。
-追うべき背中がなくなった。
最後の戦いが終わり、引退を迎えてぽつりと呟いた萩原の言葉は、今も矢森の耳に残っている。
全国で勝てなかったという事実が、きっと萩原の心と体に焼き付いたのだろう。
矢森は、これ以上萩原の事を久賀に話すのは止めようと思った。なんとなく萩原の名誉を傷つけているような気がしたし、話すのが面倒になってきたからだ。
「強かったな」
少しの静寂が訪れていたが、ぽつりと久賀が言った。
「なにが」
両日を閉じたまま、矢森は返事をした。
「こないだの試合さ。峰成学院。強かった。俺は、二軍を相手に六点も取られた」
「上出来じゃねえか。六点。コールドゲームにはなってねえよ」
「どこが上出来だよ」
久賀は、苦笑していた。
それでいいと、矢森は思った。
負けた事をいつまでも悔いても、仕方のないことなのだ。負けた事実が覆る事は絶対にない。
「笑っていこうぜ、久賀。いろいろあるけどよ、まあ、笑ってやってりゃ、なんとかなるさ」
そろそろ本当に寝てしまいそうだ。
矢森はそう思ったので、かなり重くなってきている瞼を無理矢理こじあけた。
「ああ、そうだな」
「レフトの守備は任せろよ。萩原のように脚は速くないが、まあ、目の前にきたボールくらいなら捕れる」
「それは頼もしいな」
今度は久賀は、歯を見せて笑っていた。
-笑えるじゃねえか。
矢森はそう思ってから、立ちあがった。
春日の事は、何も言わないで行こうと思った。
「飯の時間だ。そろそろ行くわ」
少しだけよろけて、前に進む。
矢森はぼんやり、今日の練習の事を考えていた。
野球をするには、うってつけの良い天気だ。
しかし釣りもしたくなる。
午後の授業は抜けて、釣りにでも行くかと思ったが、やめておく。
野球の練習に遅れては悪い。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
【完結】私が愛されるのを見ていなさい
芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定)
公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。
絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。
ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。
完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。
立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる