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20 奪われたと思う男
ロレッタが屋敷へ戻らなかった夜、ヘンリーはほとんど眠れなかった。
妻から届いた手紙は短かった。
――今夜は戻りません。
――明日、必要なものを取りに参ります。
――ロレッタ。
それだけだ。責める言葉はない。説明もない。泣き言もない。
今までなら、それだけでヘンリーはむしろ困ったはずだ。怒ってくれれば謝れる。泣いてくれれば慰められる。責めてくれれば、こちらにも言い訳ができる。
だが、ロレッタは何も渡してこなかった。
今夜は戻らない。ただ、その事実だけが机の上にある。
ヘンリーは何度も手紙を読んだ。読んでも、字は変わらない。
ロレッタの字は整っていて、少し硬い。結婚した頃、彼女はもっと丸い字を書いていた気がする。招待状や礼状を書くうちに、家の字になったのだろうか。
――家の字。
その言葉が、嫌な形で胸に残った。
ロレッタは今、ヴィヴィアン・ヴェイルのいるホテルに泊まっている。正確には同じホテルの別室だと聞いた。だが、そんな細かいことはヘンリーの頭には入らなかった。
ロレッタが戻らない。そしてヴィヴィアン側にいる。
その二つだけが、夜の間じゅう、机の上で灯りより明るく見えていた。
◇
翌朝、ヘンリーは屋敷を出た。
セドリックは警備隊とのやり取りで書斎にこもっている。エレノーラは自室から出てこない。アーネストはまだ戻らない。使用人たちは、ヘンリーが外出帽を取っても、いつものようには馬車の手配を尋ねなかった。
屋敷の中で、誰もが何かを待っている。その待つ気配に耐えられなかった。
ホテルに着くと、受付の男がヘンリーの名を聞いて、一瞬返事を飲んだ。
「ヴェイル様はご面会の予定が」
「伝えてくれ。ヘンリー・ウォードが来たと」
「ですが」
「伝えてくれ」
声を荒げたつもりはなかった。けれど受付の男は一歩下がり、すぐに使いを走らせる。
少し待たされる。その時間が、ヘンリーを余計に苛立たせた。
昔なら、ウォード家の名を出せば通る場所が多かった。今は違う。ホテルの廊下で立ったまま、相手の返事を待たされる。
やがてハンナが現れた。
「ヴィヴィアン様がお会いになります」
「ロレッタは」
思わず聞いていた。ハンナはまばたきもしなかった。
「奥様は、別の部屋でお仕事中です」
「仕事?」
「はい」
それだけ言って、ハンナは歩き出した。
仕事。ロレッタが、ヴィヴィアンのところで仕事をしている。
その響きが、ヘンリーにはどうにも呑み込めなかった。ロレッタは家のことをしていた。客を迎え、手紙を書き、使用人に指示し、食卓を整えた。もちろん、それも仕事だ。だがヘンリーは、それを仕事と呼んでこなかった。
――では、何だと思っていたのか?
考える前に、案内された扉の前に着いた。ハンナは扉を軽く叩く。
「ウォード様です」
「通して」
中から声がする。
ヴィヴィアンは机の前にいた。黒い外出着ではなく、仕事用の深い緑のドレスを着ている。袖口は邪魔にならないよう細く、机の上には書類が何束も置かれていた。窓際には地図。壁には旧ハートウェル邸跡地の図面と、町の地図が並んでいる。
ヘンリーは、その地図の上に赤いビンと糸が張られているのを見た。ウォード家から、役場へ。役場から警備詰所へ。旧邸跡地へ。リード運搬社へ。町医師の家へ。
蜘蛛の巣のようだと思った。
いや、蜘蛛の巣にかかったのはこちらかもしれない。
「お掛けになる?」
「ロレッタはどこだ」
ヴィヴィアンはペンを置いた。
「挨拶の前に、それですの?」
「答えてくれ」
「奥様は仕事をしていらっしゃるわ」
「君がさせているのか」
「ご本人が望んだのです」
「そんなはずはない」
言った瞬間、ヴィヴィアンの目がこちらへ向く。それが腹立たしかった。
怒鳴られるなら、こちらも言える。軽蔑されるなら、まだ分かる。
だがヴィヴィアンは、今の言葉をただ机の上に置いて、どこに傷があるのか見るように、こちらを見ていた。
「そんなはずはない、とは?」
「ロレッタは、ああいうことを望む人ではなかった」
「あなたの知っている奥様は、そうだったのね」
「あなたが唆したんだろう」
「何を」
「私の家を壊すだけでは足りないのか!?」
声が大きくなる。自分でも分かった。けれど止まらなかった。
「父も、兄も、母も、もう滅茶苦茶だ。使用人まで警備詰所へ行き、町中が噂している。そこに今度はロレッタだ。君は、私から妻まで奪うつもりなのか」
言い切った時、部屋の中が妙に静かになった。
ハンナは扉のそばに立っている。少しも動かない。
ヴィヴィアンはしばらく黙っていた。それから、椅子の背に軽く指を置いた。
「奥様は、物ではありません」
短い言葉だった。ヘンリーは口を閉じる。
「奪う、奪われる、と口にするものではないわ」
「言葉の綾だ」
「そういう言葉の綾を、今までどれだけ奥様へ向けてきたのかしら」
「私は、ロレッタを粗末にしたつもりは」
「つもり」
ヴィヴィアンは、その一語だけ繰り返す。ヘンリーの喉が詰まる。
「あなたの家の方々は、よくその言い方をなさるのね。殺したつもりはない。奪ったつもりはない。騙したつもりはない。粗末にしたつもりはない」
「私は父たちとは違う」
「そうね。十五年前の襲撃について、あなたが知らなかった可能性はある」
その言い方に、ヘンリーは息を呑んだ。
許された訳ではない。むしろ一つ、線を引かれた。
「なら」
「でも、奥様があなたの隣で何を呑み込んできたかについては、どう?」
「それは」
「死んだ婚約者の影。家の中での役目。義母の機嫌。義兄の横柄さ。義父の命令。あなたは、それをどこまで見ていたの」
「私は」
知らなかった。そう言いかけて、止まった。
まただ。また、その言葉だ。
知らなかった。便利な言葉だ。あまりにも便利で、口にした瞬間、自分の足元だけ少し高くなる。周囲の泥から離れられる。だが、その高さで何が見える。
ロレッタは、そこから見えたのか。
「奥様は、あなたから奪われたのではありません」
ヴィヴィアンは紙の端を揃えた。
「ご自分の足で歩いてきただけです」
ヘンリーは机の端をつかんだ。
「あなたは私を、憎んでいるのか」
その問いは、予定していたものではない。けれど、出た。
ヴィヴィアンの指が、机の上の紙に触れる。そこには何人もの名前が並んでいる。ウォード家の使用人名簿だろうか。ハートウェル家の名簿だろうか。
「憎んでいるかどうかが、今のあなたに必要な答え?」
「私には必要だ」
「なぜ」
「あなたは、私を見ているとき、まるで」
言葉が続かない。
まるで昔から知っているように。まるで、私が何をしたか知っているように。まるで、私の知らない私まで見ているように。
「まるで、何?」
「あなたは誰なんだ」
ヴィヴィアンは答えなかった。ただ、ペンを手に取った。
「私はヴィヴィアン・ヴェイルです」
「それだけか」
「今のところは」
「今のところ」
ヘンリーは一歩近づく。ハンナが静かに動いた。止めるほどではないが、止められる位置へ。
ヴィヴィアンは少しも下がらなかった。
「なぜハートウェル家のことをそこまで知っている。なぜクレアの名を、そんなふうに扱う。なぜ、私の知らない十五年前を、まるで自分の傷のように」
「ヘンリー・ウォード様」
「答えてくれ」
「答えは、あなたの家の書類と土の中から出てきます」
「私はあなたに聞いているんだ」
「なら、聞き方を間違えているわ」
ヴィヴィアンは紙に一つ印をつけた。
「あなたは今、妻を返せと言いに来た。私が家を壊したと責めに来た。自分から何が奪われたかを数えに来た」
ヘンリーは何も言えなかった。
「でも、十五年前に何が奪われたかを、まだ本当に数えていない」
「数えている」
「いいえ」
ヴィヴィアンの声は低かった。
「あなたは、クレアを失った自分を数えているだけです」
ヘンリーは息を詰めた。
その言葉だけは、まっすぐ入った。入ってしまった。
「違う」
「違うなら、証明なさい」
「どうやって」
「クレアではなく、ハートウェル家で殺された人たちの名を覚えなさい」
ヴィヴィアンは机の上から一枚の紙を取った。
「トマス。家令。鍵束で確認中。エルシー。料理人。櫛で確認中。ビル。庭師。片眼鏡で確認中。ネッド。馬丁。馬具の金具で確認中。ルーシー。裁縫係。裁縫鋏で確認中。メイ。洗濯女。木櫛で確認中」
ひとつずつ、彼女は読む。ヘンリーは、その名をほとんど覚えていなかった。
トマスは覚えている。白髪の家令。クレアが走ると、廊下で叱った男。だが他は。
顔が曖昧だった。ハートウェル家へ何度も行ったのに。彼女の家で遊んだのに。彼女の家の人々に世話をされたのに。
ヘンリーは椅子の背に手を置いた。
「私は」
「あなたが知らなかったことは、あとで調べればいい」
ヴィヴィアンは紙を置いた。
「でも、知らなかったと口にする前に、何を知らなかったのか数えなさい」
扉の外で、小さな物音がした。ヘンリーは振り向く。ロレッタがいた。
いつからそこにいたのか分からない。手には書類の束を持っている。たぶん、隣の部屋から戻ってきたのだろう。彼女はヘンリーを見て、次にヴィヴィアンを見た。
「入ってもよろしいでしょうか」
「ええ」
ヴィヴィアンが答えに、ロレッタは部屋へ入った。
ヘンリーは妻を見た。
「ロレッタ」
「はい」
「君は、本当にここで」
「仕事をしています」
「なぜ」
ロレッタは少しだけ首を傾けた。
「昨日、お手紙に書いた通りです。今夜は戻らないと」
「それは理由ではない」
「では、今申し上げます」
持っていた書類を机へ置く。
「私は、知った後で知らないふりをしたくありません。それから、自分がどの家の奥方として振る舞ってきたのかを、もう一度見直したいのです」
「私では駄目なのか」
「あなたは、まだご自分のことで手一杯です」
ヘンリーは返せなかった。ロレッタの声は冷たくない。だが、戻る余地を与えるものでもなかった。
「私はあなたを見捨てに来た訳ではありません。けれど、あなたの隣に立ったままでは見えないものがありました」
「ヴィヴィアン嬢の隣なら見えるのか」
「見えます」
即答だった。ヘンリーの舌の奥に、苦いものが残った。
――嫉妬か。
そう思って、さらに情けなくなる。
「君まで、私を責めるのか」
「あなたは責められたいのですか?」
ロレッタは問い返す。その問いは決して優しくない。
「責められれば、あなたは謝れる。謝れば、少し楽になる。そういうことではありませんか」
ヴィヴィアンは口を挟まなかった。ハンナも動かない。
ロレッタは続けた。
「私はまだ、あなたをどうするか決めていません。でも、自分をどうするかは決め始めています」
「離婚か」
「その可能性もあります」
「ロレッタ」
「ヘンリー。今、私を止めたいなら、ヴィヴィアン様を責めるのではなく、ご自分が何を見てこなかったのかを見てください」
ヘンリーは妻を見る。
彼女は、少し疲れていた。声には眠れていないかすれがあった。手袋を外した指には、インクがついている。今までのロレッタなら、そんな手で夫の前に出なかっただろう。だが今は、インクのついた指を隠しもしない。
その指で、彼女は自分の名を書き、他人の名を書いている。ヘンリーの知らない仕事をしている。
「私は、君を何も知らなかった」
ようやく出た言葉だった。ロレッタはうなずいた。
「そうですね」
「すまない」
「受け取ります。でも、戻る理由にはなりません」
短い。それで終わった。
ヘンリーは、もうここにいる理由を失った。それでも、最後にヴィヴィアンを見た。
「私は、クレアを忘れてはいなかった」
ヴィヴィアンの手が止まった。ほんの一瞬。だが、止まった。
ヘンリーはそれを見た。
「忘れてはいなかったんだ」
言い訳だと分かっていた。それでも、言わずにいられなかった。
ヴィヴィアンは、ゆっくり顔を上げた。
「忘れなかったことを、誰かへの償いだと思わないことね」
ヘンリーは息を止めた。
「覚えているだけなら、誰でもできるわ。大事なのは、何を覚えていたかです」
「私は」
「クローバー姫?」
その呼び方に、ヘンリーの背筋が強張った。ロレッタもヴィヴィアンを見た。
ヴィヴィアンは淡々と続けた。
「四つ葉を見つけた子。死んだ婚約者。可哀想なあなたを作るための、綺麗な思い出」
「やめてくれ」
「ええ。やめましょう」
ヴィヴィアンは紙へ視線を落とした。
「次に来る時は、トマスの名から覚えていらして」
ヘンリーは立っていた。立っているだけで精一杯だった。
やがて、小さく頭を下げた。礼なのか、謝罪なのか、自分でも分からない。
部屋を出る時、ロレッタは追ってこなかった。
廊下へ出ると、ホテルの窓から午後の光が入っていた。白い壁、磨かれた床、遠くで誰かが笑う声。
世界は、まだ普通に動いている。
ヘンリーは階段の手すりに手を置いた。
トマス。エルシー。ビル。ネッド。ルーシー。メイ。
声に出さず、ひとつずつ繰り返す。
初めて彼は、クレアの周りにいた人たちの名を、クレアの飾りではなく、その人自身の名として覚えようとした。
妻から届いた手紙は短かった。
――今夜は戻りません。
――明日、必要なものを取りに参ります。
――ロレッタ。
それだけだ。責める言葉はない。説明もない。泣き言もない。
今までなら、それだけでヘンリーはむしろ困ったはずだ。怒ってくれれば謝れる。泣いてくれれば慰められる。責めてくれれば、こちらにも言い訳ができる。
だが、ロレッタは何も渡してこなかった。
今夜は戻らない。ただ、その事実だけが机の上にある。
ヘンリーは何度も手紙を読んだ。読んでも、字は変わらない。
ロレッタの字は整っていて、少し硬い。結婚した頃、彼女はもっと丸い字を書いていた気がする。招待状や礼状を書くうちに、家の字になったのだろうか。
――家の字。
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ロレッタは今、ヴィヴィアン・ヴェイルのいるホテルに泊まっている。正確には同じホテルの別室だと聞いた。だが、そんな細かいことはヘンリーの頭には入らなかった。
ロレッタが戻らない。そしてヴィヴィアン側にいる。
その二つだけが、夜の間じゅう、机の上で灯りより明るく見えていた。
◇
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屋敷の中で、誰もが何かを待っている。その待つ気配に耐えられなかった。
ホテルに着くと、受付の男がヘンリーの名を聞いて、一瞬返事を飲んだ。
「ヴェイル様はご面会の予定が」
「伝えてくれ。ヘンリー・ウォードが来たと」
「ですが」
「伝えてくれ」
声を荒げたつもりはなかった。けれど受付の男は一歩下がり、すぐに使いを走らせる。
少し待たされる。その時間が、ヘンリーを余計に苛立たせた。
昔なら、ウォード家の名を出せば通る場所が多かった。今は違う。ホテルの廊下で立ったまま、相手の返事を待たされる。
やがてハンナが現れた。
「ヴィヴィアン様がお会いになります」
「ロレッタは」
思わず聞いていた。ハンナはまばたきもしなかった。
「奥様は、別の部屋でお仕事中です」
「仕事?」
「はい」
それだけ言って、ハンナは歩き出した。
仕事。ロレッタが、ヴィヴィアンのところで仕事をしている。
その響きが、ヘンリーにはどうにも呑み込めなかった。ロレッタは家のことをしていた。客を迎え、手紙を書き、使用人に指示し、食卓を整えた。もちろん、それも仕事だ。だがヘンリーは、それを仕事と呼んでこなかった。
――では、何だと思っていたのか?
考える前に、案内された扉の前に着いた。ハンナは扉を軽く叩く。
「ウォード様です」
「通して」
中から声がする。
ヴィヴィアンは机の前にいた。黒い外出着ではなく、仕事用の深い緑のドレスを着ている。袖口は邪魔にならないよう細く、机の上には書類が何束も置かれていた。窓際には地図。壁には旧ハートウェル邸跡地の図面と、町の地図が並んでいる。
ヘンリーは、その地図の上に赤いビンと糸が張られているのを見た。ウォード家から、役場へ。役場から警備詰所へ。旧邸跡地へ。リード運搬社へ。町医師の家へ。
蜘蛛の巣のようだと思った。
いや、蜘蛛の巣にかかったのはこちらかもしれない。
「お掛けになる?」
「ロレッタはどこだ」
ヴィヴィアンはペンを置いた。
「挨拶の前に、それですの?」
「答えてくれ」
「奥様は仕事をしていらっしゃるわ」
「君がさせているのか」
「ご本人が望んだのです」
「そんなはずはない」
言った瞬間、ヴィヴィアンの目がこちらへ向く。それが腹立たしかった。
怒鳴られるなら、こちらも言える。軽蔑されるなら、まだ分かる。
だがヴィヴィアンは、今の言葉をただ机の上に置いて、どこに傷があるのか見るように、こちらを見ていた。
「そんなはずはない、とは?」
「ロレッタは、ああいうことを望む人ではなかった」
「あなたの知っている奥様は、そうだったのね」
「あなたが唆したんだろう」
「何を」
「私の家を壊すだけでは足りないのか!?」
声が大きくなる。自分でも分かった。けれど止まらなかった。
「父も、兄も、母も、もう滅茶苦茶だ。使用人まで警備詰所へ行き、町中が噂している。そこに今度はロレッタだ。君は、私から妻まで奪うつもりなのか」
言い切った時、部屋の中が妙に静かになった。
ハンナは扉のそばに立っている。少しも動かない。
ヴィヴィアンはしばらく黙っていた。それから、椅子の背に軽く指を置いた。
「奥様は、物ではありません」
短い言葉だった。ヘンリーは口を閉じる。
「奪う、奪われる、と口にするものではないわ」
「言葉の綾だ」
「そういう言葉の綾を、今までどれだけ奥様へ向けてきたのかしら」
「私は、ロレッタを粗末にしたつもりは」
「つもり」
ヴィヴィアンは、その一語だけ繰り返す。ヘンリーの喉が詰まる。
「あなたの家の方々は、よくその言い方をなさるのね。殺したつもりはない。奪ったつもりはない。騙したつもりはない。粗末にしたつもりはない」
「私は父たちとは違う」
「そうね。十五年前の襲撃について、あなたが知らなかった可能性はある」
その言い方に、ヘンリーは息を呑んだ。
許された訳ではない。むしろ一つ、線を引かれた。
「なら」
「でも、奥様があなたの隣で何を呑み込んできたかについては、どう?」
「それは」
「死んだ婚約者の影。家の中での役目。義母の機嫌。義兄の横柄さ。義父の命令。あなたは、それをどこまで見ていたの」
「私は」
知らなかった。そう言いかけて、止まった。
まただ。また、その言葉だ。
知らなかった。便利な言葉だ。あまりにも便利で、口にした瞬間、自分の足元だけ少し高くなる。周囲の泥から離れられる。だが、その高さで何が見える。
ロレッタは、そこから見えたのか。
「奥様は、あなたから奪われたのではありません」
ヴィヴィアンは紙の端を揃えた。
「ご自分の足で歩いてきただけです」
ヘンリーは机の端をつかんだ。
「あなたは私を、憎んでいるのか」
その問いは、予定していたものではない。けれど、出た。
ヴィヴィアンの指が、机の上の紙に触れる。そこには何人もの名前が並んでいる。ウォード家の使用人名簿だろうか。ハートウェル家の名簿だろうか。
「憎んでいるかどうかが、今のあなたに必要な答え?」
「私には必要だ」
「なぜ」
「あなたは、私を見ているとき、まるで」
言葉が続かない。
まるで昔から知っているように。まるで、私が何をしたか知っているように。まるで、私の知らない私まで見ているように。
「まるで、何?」
「あなたは誰なんだ」
ヴィヴィアンは答えなかった。ただ、ペンを手に取った。
「私はヴィヴィアン・ヴェイルです」
「それだけか」
「今のところは」
「今のところ」
ヘンリーは一歩近づく。ハンナが静かに動いた。止めるほどではないが、止められる位置へ。
ヴィヴィアンは少しも下がらなかった。
「なぜハートウェル家のことをそこまで知っている。なぜクレアの名を、そんなふうに扱う。なぜ、私の知らない十五年前を、まるで自分の傷のように」
「ヘンリー・ウォード様」
「答えてくれ」
「答えは、あなたの家の書類と土の中から出てきます」
「私はあなたに聞いているんだ」
「なら、聞き方を間違えているわ」
ヴィヴィアンは紙に一つ印をつけた。
「あなたは今、妻を返せと言いに来た。私が家を壊したと責めに来た。自分から何が奪われたかを数えに来た」
ヘンリーは何も言えなかった。
「でも、十五年前に何が奪われたかを、まだ本当に数えていない」
「数えている」
「いいえ」
ヴィヴィアンの声は低かった。
「あなたは、クレアを失った自分を数えているだけです」
ヘンリーは息を詰めた。
その言葉だけは、まっすぐ入った。入ってしまった。
「違う」
「違うなら、証明なさい」
「どうやって」
「クレアではなく、ハートウェル家で殺された人たちの名を覚えなさい」
ヴィヴィアンは机の上から一枚の紙を取った。
「トマス。家令。鍵束で確認中。エルシー。料理人。櫛で確認中。ビル。庭師。片眼鏡で確認中。ネッド。馬丁。馬具の金具で確認中。ルーシー。裁縫係。裁縫鋏で確認中。メイ。洗濯女。木櫛で確認中」
ひとつずつ、彼女は読む。ヘンリーは、その名をほとんど覚えていなかった。
トマスは覚えている。白髪の家令。クレアが走ると、廊下で叱った男。だが他は。
顔が曖昧だった。ハートウェル家へ何度も行ったのに。彼女の家で遊んだのに。彼女の家の人々に世話をされたのに。
ヘンリーは椅子の背に手を置いた。
「私は」
「あなたが知らなかったことは、あとで調べればいい」
ヴィヴィアンは紙を置いた。
「でも、知らなかったと口にする前に、何を知らなかったのか数えなさい」
扉の外で、小さな物音がした。ヘンリーは振り向く。ロレッタがいた。
いつからそこにいたのか分からない。手には書類の束を持っている。たぶん、隣の部屋から戻ってきたのだろう。彼女はヘンリーを見て、次にヴィヴィアンを見た。
「入ってもよろしいでしょうか」
「ええ」
ヴィヴィアンが答えに、ロレッタは部屋へ入った。
ヘンリーは妻を見た。
「ロレッタ」
「はい」
「君は、本当にここで」
「仕事をしています」
「なぜ」
ロレッタは少しだけ首を傾けた。
「昨日、お手紙に書いた通りです。今夜は戻らないと」
「それは理由ではない」
「では、今申し上げます」
持っていた書類を机へ置く。
「私は、知った後で知らないふりをしたくありません。それから、自分がどの家の奥方として振る舞ってきたのかを、もう一度見直したいのです」
「私では駄目なのか」
「あなたは、まだご自分のことで手一杯です」
ヘンリーは返せなかった。ロレッタの声は冷たくない。だが、戻る余地を与えるものでもなかった。
「私はあなたを見捨てに来た訳ではありません。けれど、あなたの隣に立ったままでは見えないものがありました」
「ヴィヴィアン嬢の隣なら見えるのか」
「見えます」
即答だった。ヘンリーの舌の奥に、苦いものが残った。
――嫉妬か。
そう思って、さらに情けなくなる。
「君まで、私を責めるのか」
「あなたは責められたいのですか?」
ロレッタは問い返す。その問いは決して優しくない。
「責められれば、あなたは謝れる。謝れば、少し楽になる。そういうことではありませんか」
ヴィヴィアンは口を挟まなかった。ハンナも動かない。
ロレッタは続けた。
「私はまだ、あなたをどうするか決めていません。でも、自分をどうするかは決め始めています」
「離婚か」
「その可能性もあります」
「ロレッタ」
「ヘンリー。今、私を止めたいなら、ヴィヴィアン様を責めるのではなく、ご自分が何を見てこなかったのかを見てください」
ヘンリーは妻を見る。
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その指で、彼女は自分の名を書き、他人の名を書いている。ヘンリーの知らない仕事をしている。
「私は、君を何も知らなかった」
ようやく出た言葉だった。ロレッタはうなずいた。
「そうですね」
「すまない」
「受け取ります。でも、戻る理由にはなりません」
短い。それで終わった。
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「私は、クレアを忘れてはいなかった」
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「忘れてはいなかったんだ」
言い訳だと分かっていた。それでも、言わずにいられなかった。
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「私は」
「クローバー姫?」
その呼び方に、ヘンリーの背筋が強張った。ロレッタもヴィヴィアンを見た。
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緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。
そう思っていたのに。
エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて……
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