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第2話 初夜をすっぽかされた令嬢は、食卓につく
翌朝。
窓の外が白み始める頃に起きて、私はいつも通りに身支度をした。
侍女が怯えたような目でこちらを見ている。
「アリア様…… 昨夜は、その……」
「ええ。お疲れになってお戻りになれなかったみたいね」
鏡越しに微笑むと、侍女は余計に青ざめた。
この家の人間は、まだ私を知らない。
私は怒鳴らないし、泣き崩れない。
ただ、必要なものを必要な場所に戻すだけだ。
「朝食はどこで?」
「本日は、ご家族用の食堂でとのことです。……旦那様もご一緒のはずですが」
「それは楽しみだわ」
階段を降りながら、私は頭の中で数字を並べる。
クロフォード侯爵家の負債額。
グレイス伯爵家からの融資予定額。
婚姻契約書に記された土地と権利の移譲条項。
そこに「初夜放棄」という、分かりやすい非常識の記録が一つ加わった。
感情だけで流すには、惜しい材料だ。
◇
家族用の食堂に入ると、すでに侯爵夫妻と数人の親族が席についていた。
長いテーブルの上には温かいパンとスープ。
でも、肝心の夫の席は空いている。
「おはようございます、皆様」
私が礼をすると、侯爵夫人――義母がぎこちなく微笑んだ。
「おはよう、アリアさん。どうぞお掛けになって」
「失礼いたします」
席に着くとすぐ、義母が落ち着かない様子で口を開いた。
「その…… 昨夜は、ごめんなさいね。あの子、少しはしゃいでしまって」
「はしゃいで?」
「昔からの、お友達がいらしていて……つい、飲みすぎたみたいで」
昔からの、お友達。
男爵家ブランの令嬢、ルルゥ・ブラン。
夜会でレイモンドと一緒にいるところを何度も目撃されている、噂の相手。
実家の情報網が教えてくれた名を思い出しながら、私は穏やかに微笑んだ。
「まあ。楽しい再会だったのでしょうね」
「え、ええ……」
「どうぞお気になさらないで。私は大丈夫ですわ。
――ただ、後ほど旦那様には、体調を崩されませんようにとお伝えくださいませ」
侯爵夫妻の表情が、途端に固くなる。
私が怒っているかどうかは、聞かれなくても分かるからだろう。
怒っているかどうかは、実は重要ではない。
私は、覚えている。
忘れない。
そして、使う。
パンを口に運びながら、私は視線を上げた。
「レイモンド様は、ご朝食には?」
「いや…… 起こしに行っているはずだが……」
侯爵が言いかけたところで、扉が開く。
寝癖のついたままのレイモンドが、ゆっくりと入ってきた。
「おはよう、父上、母上。……アリア」
少し酒の残った目で、こちらを見る。
私の顔を見て、一瞬だけ気まずそうに視線をそらした。
その一瞬で、十分だった。
この男が、「やってしまった」という自覚は持っていること。
だからといって、自分からきちんと詫びるほど、強くも賢くもないこと。
私は椅子から立ち上がり、礼をした。
「おはようございます、レイモンド様」
「ああ……その、昨夜は……」
「楽しい夜をお過ごしだったと伺いましたわ。お疲れでしょうに」
やんわりとそう言うと、食堂の空気がぴん、と張りつめた。
レイモンドは何か言い訳を探しているようだったが、うまく言葉が出てこない。
私のほうが、先に口を開いた。
「どうぞご心配なく。私たちは、まだ“夫婦”と呼ぶには、あまりにもお互いを知りませんもの。最初の夜ぐらい、別々でも問題ありませんわ」
レイモンドの顔色が変わる。
義母が慌てて「アリアさん……」と声を上げた。
私は微笑んだまま、ナイフとフォークをそっと置く。
「ただ一つだけ、申し上げておきますね。私が冷静でいられるのは、私がグレイス伯爵家の娘だからです。
――“覚えておくべきこと”を、忘れずにいられる家に育った、という意味で」
それだけ言って、再び席についた。
初夜をすっぽかしたのは、あの人だ。
ならば私は、伯爵家の令嬢として、それに見合うだけの答えを返す。
静かに、冷静に。
そして、徹底的に。
この結婚が、「馬鹿な夫を破滅に追い込む幕開け」になるのだとしても――
それは多分、この家にとっても悪い話ではないのだから。
窓の外が白み始める頃に起きて、私はいつも通りに身支度をした。
侍女が怯えたような目でこちらを見ている。
「アリア様…… 昨夜は、その……」
「ええ。お疲れになってお戻りになれなかったみたいね」
鏡越しに微笑むと、侍女は余計に青ざめた。
この家の人間は、まだ私を知らない。
私は怒鳴らないし、泣き崩れない。
ただ、必要なものを必要な場所に戻すだけだ。
「朝食はどこで?」
「本日は、ご家族用の食堂でとのことです。……旦那様もご一緒のはずですが」
「それは楽しみだわ」
階段を降りながら、私は頭の中で数字を並べる。
クロフォード侯爵家の負債額。
グレイス伯爵家からの融資予定額。
婚姻契約書に記された土地と権利の移譲条項。
そこに「初夜放棄」という、分かりやすい非常識の記録が一つ加わった。
感情だけで流すには、惜しい材料だ。
◇
家族用の食堂に入ると、すでに侯爵夫妻と数人の親族が席についていた。
長いテーブルの上には温かいパンとスープ。
でも、肝心の夫の席は空いている。
「おはようございます、皆様」
私が礼をすると、侯爵夫人――義母がぎこちなく微笑んだ。
「おはよう、アリアさん。どうぞお掛けになって」
「失礼いたします」
席に着くとすぐ、義母が落ち着かない様子で口を開いた。
「その…… 昨夜は、ごめんなさいね。あの子、少しはしゃいでしまって」
「はしゃいで?」
「昔からの、お友達がいらしていて……つい、飲みすぎたみたいで」
昔からの、お友達。
男爵家ブランの令嬢、ルルゥ・ブラン。
夜会でレイモンドと一緒にいるところを何度も目撃されている、噂の相手。
実家の情報網が教えてくれた名を思い出しながら、私は穏やかに微笑んだ。
「まあ。楽しい再会だったのでしょうね」
「え、ええ……」
「どうぞお気になさらないで。私は大丈夫ですわ。
――ただ、後ほど旦那様には、体調を崩されませんようにとお伝えくださいませ」
侯爵夫妻の表情が、途端に固くなる。
私が怒っているかどうかは、聞かれなくても分かるからだろう。
怒っているかどうかは、実は重要ではない。
私は、覚えている。
忘れない。
そして、使う。
パンを口に運びながら、私は視線を上げた。
「レイモンド様は、ご朝食には?」
「いや…… 起こしに行っているはずだが……」
侯爵が言いかけたところで、扉が開く。
寝癖のついたままのレイモンドが、ゆっくりと入ってきた。
「おはよう、父上、母上。……アリア」
少し酒の残った目で、こちらを見る。
私の顔を見て、一瞬だけ気まずそうに視線をそらした。
その一瞬で、十分だった。
この男が、「やってしまった」という自覚は持っていること。
だからといって、自分からきちんと詫びるほど、強くも賢くもないこと。
私は椅子から立ち上がり、礼をした。
「おはようございます、レイモンド様」
「ああ……その、昨夜は……」
「楽しい夜をお過ごしだったと伺いましたわ。お疲れでしょうに」
やんわりとそう言うと、食堂の空気がぴん、と張りつめた。
レイモンドは何か言い訳を探しているようだったが、うまく言葉が出てこない。
私のほうが、先に口を開いた。
「どうぞご心配なく。私たちは、まだ“夫婦”と呼ぶには、あまりにもお互いを知りませんもの。最初の夜ぐらい、別々でも問題ありませんわ」
レイモンドの顔色が変わる。
義母が慌てて「アリアさん……」と声を上げた。
私は微笑んだまま、ナイフとフォークをそっと置く。
「ただ一つだけ、申し上げておきますね。私が冷静でいられるのは、私がグレイス伯爵家の娘だからです。
――“覚えておくべきこと”を、忘れずにいられる家に育った、という意味で」
それだけ言って、再び席についた。
初夜をすっぽかしたのは、あの人だ。
ならば私は、伯爵家の令嬢として、それに見合うだけの答えを返す。
静かに、冷静に。
そして、徹底的に。
この結婚が、「馬鹿な夫を破滅に追い込む幕開け」になるのだとしても――
それは多分、この家にとっても悪い話ではないのだから。
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