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第7話 初夜をすっぽかされた令嬢への訪問客
クロフォード侯爵家の家計簿と格闘し始めて、一週間。
屋敷の空気は、目に見えて変わってきていた。
「……奥さま、また“無駄遣い禁止令”をお出しになったそうで」
「奥さまの前では、甘いお菓子まで肩身が狭いそうよ」
侍女たちが廊下の陰でひそひそと囁く声が聞こえる。
そのくせ、私と目が合うと、慌ててスカートの裾をつまみ、きちんとお辞儀をするのだから、正直かわいい。
レイモンドはというと――
「僕は、好きにやらせてもらうからな」
そう言い捨てて外出し、ルルゥのいるサロンに通っているらしい。
ただし、今は馬車代も花代も、私の決裁がなければ家計から出せない。
手持ちの小遣いだけでどこまで“真実の愛”を貫けるか、静かに観察させてもらうつもりだった。
◇
初めての報告書を実家に送ったのは、家計簿を読み始めて三日目の夜だった。
侯爵家の現状。
借入先の一覧。
レイモンドの出費の内訳。
淡々と数字を並べ、最後に一行だけ、個人的な文を添える。
『――以上が、現時点での状況です。なお、私個人としては、婚姻契約そのものはまだ有効と判断していますが、
「非常識の記録」は、今後も継続して蓄積予定です』
父なら、この一文を見て、少しだけ眉を上げるだろう。
母なら、難しい顔をしつつも「やっぱりね」とため息をつくに違いない。
(あとは、向こうがどう“手を打つ”か)
そう思いながら封をし、伯爵家御用の早馬で送った。
◇
返信は、驚くほど早く届いた。
ちょうど一週間後の朝、執事ノアが少しだけ緊張した顔で手紙を持ってくる。
「グレイス伯爵家より、直書でございます、奥さま」
「ありがとう。ここで読んでも?」
「もちろんでございます」
私は封を切り、まず形式的な挨拶文に目を通した。
侯爵家の事情を理解し、娘の働きに感謝する旨。
必要とあれば、追加の資金援助も検討する、という慎重な文言。
そして、その下に、父の筆跡で短い追伸があった。
『――状況、理解した。
まずは記録を続けなさい。感情は後からでよい。
こちらから「補佐役」を一人送る。共同出資者側の監査人という形にするので、侯爵家にも受け入れやすいはずだ』
「補佐役」という言葉に、胸の奥が小さく鳴る。
その次の行を見て、私は思わず息を呑んだ。
『追伸:ユリウスを向かわせる。
――昔から君の帳簿の癖を一番よく知っている男だ』
「……お父様ったら」
気づけば、口元が緩んでいた。
ノアが不思議そうにこちらを見る。
「良い知らせでございましたか?」
「ええ。とても“実務的に”心強い知らせですわ」
私は手紙をそっと畳み、胸元の内ポケットにしまった。
◇
三日後、グレイス伯爵家からの馬車が侯爵邸に到着した。
玄関ホールに並んで立つ私たち。
侯爵夫妻はどこか居心地悪そうにし、レイモンドは露骨に不機嫌な顔をしている。
「何だって父上は、わざわざ伯爵家から監査人なんて呼ぶんだ。そんなもの、いなくたって――」
「いなくたって“何とかなってきた”のは、伯爵家が黙って支えてくださっていたからですわ」
小声で返すと、レイモンドは舌打ちし、向こうを向いた。
扉が開き、冷たい外気と共に、ひとりの男が姿を現した。
「グレイス伯爵家付き顧問代理、ユリウス・ハートリーと申します。このたび、両家共同出資の監査役として、クロフォード侯爵家に滞在させていただきます」
落ち着いた低い声。
整った黒髪を後ろで結び、淡い灰色の瞳がこちらをまっすぐ見る。
形の良い口元に、礼儀正しい微笑みが浮かぶ。
――懐かしい、と思った。
グレイス伯爵家の書庫で、私と一緒に帳簿をめくっていた少年。
「数字は裏切らないから好きだ」と笑っていた青年。
あれから数年。
少し背が伸びて、表情に影が増えただけで、根っこの部分は何も変わっていない気がした。
「遠路ご苦労さまです、ハートリー殿」
侯爵が形式通りの挨拶をする。
ユリウスは深く頭を下げた。
「もったいないお言葉です、侯爵閣下。この家が健全に存続し、両家にとって最善の形を保てるよう、微力ながら努めさせていただきます」
その言い回しだけ聞けば、ただの有能な若手官僚だ。
けれど、その灰色の瞳が一瞬こちらに向けられたとき――
私には、別の意味が読み取れた。
(――“最善”が、誰にとっての最善かは、状況を見て決める)
そう言っているように見えたのだ。
「アリア夫人」
名を呼ばれ、私は一歩前に出る。
「久しぶりね、ユリウス。……いえ、今は“ハートリー顧問代理”とお呼びすべきかしら」
「二人きりのとき以外は、そのほうがよろしいかと」
ほんの少しだけ口元を緩めて、彼は答えた。
「まずは、ご結婚おめでとうございます。お幸せ……かどうかは、これから数字を拝見して判断させていただきます」
その一言に、私は思わず吹き出しそうになった。
(やっぱり、こういうところ、変わらない)
屋敷の空気は、目に見えて変わってきていた。
「……奥さま、また“無駄遣い禁止令”をお出しになったそうで」
「奥さまの前では、甘いお菓子まで肩身が狭いそうよ」
侍女たちが廊下の陰でひそひそと囁く声が聞こえる。
そのくせ、私と目が合うと、慌ててスカートの裾をつまみ、きちんとお辞儀をするのだから、正直かわいい。
レイモンドはというと――
「僕は、好きにやらせてもらうからな」
そう言い捨てて外出し、ルルゥのいるサロンに通っているらしい。
ただし、今は馬車代も花代も、私の決裁がなければ家計から出せない。
手持ちの小遣いだけでどこまで“真実の愛”を貫けるか、静かに観察させてもらうつもりだった。
◇
初めての報告書を実家に送ったのは、家計簿を読み始めて三日目の夜だった。
侯爵家の現状。
借入先の一覧。
レイモンドの出費の内訳。
淡々と数字を並べ、最後に一行だけ、個人的な文を添える。
『――以上が、現時点での状況です。なお、私個人としては、婚姻契約そのものはまだ有効と判断していますが、
「非常識の記録」は、今後も継続して蓄積予定です』
父なら、この一文を見て、少しだけ眉を上げるだろう。
母なら、難しい顔をしつつも「やっぱりね」とため息をつくに違いない。
(あとは、向こうがどう“手を打つ”か)
そう思いながら封をし、伯爵家御用の早馬で送った。
◇
返信は、驚くほど早く届いた。
ちょうど一週間後の朝、執事ノアが少しだけ緊張した顔で手紙を持ってくる。
「グレイス伯爵家より、直書でございます、奥さま」
「ありがとう。ここで読んでも?」
「もちろんでございます」
私は封を切り、まず形式的な挨拶文に目を通した。
侯爵家の事情を理解し、娘の働きに感謝する旨。
必要とあれば、追加の資金援助も検討する、という慎重な文言。
そして、その下に、父の筆跡で短い追伸があった。
『――状況、理解した。
まずは記録を続けなさい。感情は後からでよい。
こちらから「補佐役」を一人送る。共同出資者側の監査人という形にするので、侯爵家にも受け入れやすいはずだ』
「補佐役」という言葉に、胸の奥が小さく鳴る。
その次の行を見て、私は思わず息を呑んだ。
『追伸:ユリウスを向かわせる。
――昔から君の帳簿の癖を一番よく知っている男だ』
「……お父様ったら」
気づけば、口元が緩んでいた。
ノアが不思議そうにこちらを見る。
「良い知らせでございましたか?」
「ええ。とても“実務的に”心強い知らせですわ」
私は手紙をそっと畳み、胸元の内ポケットにしまった。
◇
三日後、グレイス伯爵家からの馬車が侯爵邸に到着した。
玄関ホールに並んで立つ私たち。
侯爵夫妻はどこか居心地悪そうにし、レイモンドは露骨に不機嫌な顔をしている。
「何だって父上は、わざわざ伯爵家から監査人なんて呼ぶんだ。そんなもの、いなくたって――」
「いなくたって“何とかなってきた”のは、伯爵家が黙って支えてくださっていたからですわ」
小声で返すと、レイモンドは舌打ちし、向こうを向いた。
扉が開き、冷たい外気と共に、ひとりの男が姿を現した。
「グレイス伯爵家付き顧問代理、ユリウス・ハートリーと申します。このたび、両家共同出資の監査役として、クロフォード侯爵家に滞在させていただきます」
落ち着いた低い声。
整った黒髪を後ろで結び、淡い灰色の瞳がこちらをまっすぐ見る。
形の良い口元に、礼儀正しい微笑みが浮かぶ。
――懐かしい、と思った。
グレイス伯爵家の書庫で、私と一緒に帳簿をめくっていた少年。
「数字は裏切らないから好きだ」と笑っていた青年。
あれから数年。
少し背が伸びて、表情に影が増えただけで、根っこの部分は何も変わっていない気がした。
「遠路ご苦労さまです、ハートリー殿」
侯爵が形式通りの挨拶をする。
ユリウスは深く頭を下げた。
「もったいないお言葉です、侯爵閣下。この家が健全に存続し、両家にとって最善の形を保てるよう、微力ながら努めさせていただきます」
その言い回しだけ聞けば、ただの有能な若手官僚だ。
けれど、その灰色の瞳が一瞬こちらに向けられたとき――
私には、別の意味が読み取れた。
(――“最善”が、誰にとっての最善かは、状況を見て決める)
そう言っているように見えたのだ。
「アリア夫人」
名を呼ばれ、私は一歩前に出る。
「久しぶりね、ユリウス。……いえ、今は“ハートリー顧問代理”とお呼びすべきかしら」
「二人きりのとき以外は、そのほうがよろしいかと」
ほんの少しだけ口元を緩めて、彼は答えた。
「まずは、ご結婚おめでとうございます。お幸せ……かどうかは、これから数字を拝見して判断させていただきます」
その一言に、私は思わず吹き出しそうになった。
(やっぱり、こういうところ、変わらない)
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