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第9話 初夜をすっぽかされた令嬢と真実の愛の「経費明細」
ユリウスが来てから、クロフォード侯爵家の日々は、静かに、確実に変わっていった。
まず変わったのは、支払いの流れだった。
「こちら、レイモンド様からの請求伝票です」
執事ノアが差し出してくる紙には、見慣れた店の名前が並んでいる。
高級馬車の修理代。
有名サロンの飲食代。
ブラン男爵家への花代とケーキ代。
私は淡々と目を通し、「不承認」と朱で書きこんだ。
「こちらはすべて、レイモンド様の“個人的支出”として処理してください。家計からは一銭も出しません」
「かしこまりました」
ノアは、ほっとしたように頭を下げる。
「……若奥さまが来られる前は、こういった請求に、ただサインするしかありませんでしたからな」
「これからは違いますわ」
私はにっこり微笑む。
「少なくとも、私の持参金が尽きるまでは」
ノアが、ひくりと口元を引きつらせた。
◇
レイモンドは、最初の数日はまだ余裕の笑みを崩さなかった。
「いくらグレイス伯爵家の娘だからって、僕のお小遣いまで管理できると思うなよ」
そう言いながら、手持ちの宝飾品を質に入れ、ルルゥとの逢瀬を続けていると聞く。
だが、一週間、二週間と経つうちに、その余裕も少しずつ削れていった。
「今日は、ルルゥのために新しいドレスを――」
「申し訳ありません、クロフォード卿」
店の帳場で、店主が頭を下げる。
「こちらの未払いが続いておりまして……これ以上のツケは」
「なぜだ! 僕はクロフォード侯爵家の――」
「……奥さまから、こういうお達しがありまして」
店主が見せた紙には、丁寧な筆致でこう記されていた。
『クロフォード侯爵家 アリア・クロフォードの名において、本状以降、当家名義での新規ツケ払いを一切禁止します』
レイモンドの顔が紅潮する。
「アリアが……僕の自由を、こんな形で!」
彼は怒りを抱えたまま、サロンへ向かった。
◇
「まぁ、レイ、今日は少し顔色が悪いわ」
ルルゥは、いつものように薔薇の刺繍が施されたドレスで出迎えた。
その背後には、彼女の母であるブラン男爵夫人が控えている。
男爵家の屋敷は、最近になって急に豪奢さを増していた。
「アリアのせいだ」
レイモンドは、やけになったように椅子に腰を下ろす。
「家計を握ったからって、僕の使う金まで止めるなんて。君への贈り物も、侯爵家の名前では買えなくなった」
「まぁ……なんてひどい奥さま」
ルルゥは、大げさに胸に手を当てた。
「真実の愛を邪魔するなんて、愛のない政略結婚の典型ね。侯爵夫人なんて、肩書きだけの人形でしょう?」
彼女の母も、すぐさま相槌を打つ。
「ええ。あの伯爵令嬢、名ばかりの完璧令嬢だって噂よ。お金と自尊心しか持っていない女に、レイモンドさまの繊細なお心なんて、分かりませんわ」
(繊細な心の経費が、毎月いくらかかっているか、把握してから言ってほしいものね)
◇
侯爵邸の書斎で、その噂話を密かに記録しながら、私は思う。
非常識記録簿の新たな項目が増えていく。
『4.奥方への公然の侮辱(真実の愛(笑))
――場所:王都某サロン/証言者:侍女経由の噂話(複数)』
右端に、小さく印をつける。
――こういう「噂話」は、ある時点を過ぎると、一気に証拠へと変わる。
それをよく知っているからこそ、私はひとつも取りこぼしたくなかった。
まず変わったのは、支払いの流れだった。
「こちら、レイモンド様からの請求伝票です」
執事ノアが差し出してくる紙には、見慣れた店の名前が並んでいる。
高級馬車の修理代。
有名サロンの飲食代。
ブラン男爵家への花代とケーキ代。
私は淡々と目を通し、「不承認」と朱で書きこんだ。
「こちらはすべて、レイモンド様の“個人的支出”として処理してください。家計からは一銭も出しません」
「かしこまりました」
ノアは、ほっとしたように頭を下げる。
「……若奥さまが来られる前は、こういった請求に、ただサインするしかありませんでしたからな」
「これからは違いますわ」
私はにっこり微笑む。
「少なくとも、私の持参金が尽きるまでは」
ノアが、ひくりと口元を引きつらせた。
◇
レイモンドは、最初の数日はまだ余裕の笑みを崩さなかった。
「いくらグレイス伯爵家の娘だからって、僕のお小遣いまで管理できると思うなよ」
そう言いながら、手持ちの宝飾品を質に入れ、ルルゥとの逢瀬を続けていると聞く。
だが、一週間、二週間と経つうちに、その余裕も少しずつ削れていった。
「今日は、ルルゥのために新しいドレスを――」
「申し訳ありません、クロフォード卿」
店の帳場で、店主が頭を下げる。
「こちらの未払いが続いておりまして……これ以上のツケは」
「なぜだ! 僕はクロフォード侯爵家の――」
「……奥さまから、こういうお達しがありまして」
店主が見せた紙には、丁寧な筆致でこう記されていた。
『クロフォード侯爵家 アリア・クロフォードの名において、本状以降、当家名義での新規ツケ払いを一切禁止します』
レイモンドの顔が紅潮する。
「アリアが……僕の自由を、こんな形で!」
彼は怒りを抱えたまま、サロンへ向かった。
◇
「まぁ、レイ、今日は少し顔色が悪いわ」
ルルゥは、いつものように薔薇の刺繍が施されたドレスで出迎えた。
その背後には、彼女の母であるブラン男爵夫人が控えている。
男爵家の屋敷は、最近になって急に豪奢さを増していた。
「アリアのせいだ」
レイモンドは、やけになったように椅子に腰を下ろす。
「家計を握ったからって、僕の使う金まで止めるなんて。君への贈り物も、侯爵家の名前では買えなくなった」
「まぁ……なんてひどい奥さま」
ルルゥは、大げさに胸に手を当てた。
「真実の愛を邪魔するなんて、愛のない政略結婚の典型ね。侯爵夫人なんて、肩書きだけの人形でしょう?」
彼女の母も、すぐさま相槌を打つ。
「ええ。あの伯爵令嬢、名ばかりの完璧令嬢だって噂よ。お金と自尊心しか持っていない女に、レイモンドさまの繊細なお心なんて、分かりませんわ」
(繊細な心の経費が、毎月いくらかかっているか、把握してから言ってほしいものね)
◇
侯爵邸の書斎で、その噂話を密かに記録しながら、私は思う。
非常識記録簿の新たな項目が増えていく。
『4.奥方への公然の侮辱(真実の愛(笑))
――場所:王都某サロン/証言者:侍女経由の噂話(複数)』
右端に、小さく印をつける。
――こういう「噂話」は、ある時点を過ぎると、一気に証拠へと変わる。
それをよく知っているからこそ、私はひとつも取りこぼしたくなかった。
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