婚約者が妹に心変わり?では一刺しして家を捨てましょう。皆様、あとはご自由に。

さんけい

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6 小さなひっかかり

 夕方に近づくにつれ、雨は細くなった。
 本降りの勢いを失ったあとの雨は、音だけが家のあちこちに残る。屋根の端から落ちる雫、雨樋の途中で跳ねる水、庭木の葉先から遅れて滴る粒。
 さっきまで空を埋めていた灰色も、今は薄く裂けはじめていて、雲の向こうにまだ淡い明るさが残っているのが分かった。

 セリーヌはようやく自室へ戻った。
 二階の東寄り、朝の光が入りやすい部屋だ。
 寝台のある主室のほかに、小さな身支度室と衣装部屋が続き、庭へ面した窓が二つある。
 壁紙は淡い鼠色に小花模様、母の趣味で揃えられた家具は白木に金の細い縁取り。
 落ち着いて見えるよう整えられてはいるが、どこか「目立たない娘の部屋」としてものばかりだと、今日は妙にはっきり見えた。

 部屋に入るなり、侍女のマルトが立ち上がった。

「お嬢様、まあ……お顔色が」
「少し頭が重いだけよ」

 答えると、マルトはそれ以上踏み込まず、湯を取り替えましょうかとだけ尋ねた。
 こういう時、下手に慰めの言葉を重ねないのがこの侍女の良いところだった。母付きの侍女なら、きっと「奥様もご心配で」と余計な一言を添えたに違いない。
 窓辺に寄ると、庭は雨上がりの匂いを濃くしていた。石畳はまだ暗く、花壇の縁には細い水の筋が残っている。
 温室の硝子は曇りを拭われたばかりらしく、向こうのぼやけた緑が少し見えやすくなっていた。
 奥のほう、庭番小屋の前には、濡れた土を踏んだ跡が筋になって続いている。
 セリーヌはそこに目をやったまま、ぼんやり指先を握った。
 小書斎で吸い取り紙に触れた時の感触が、まだ残っている気がする。
 ほんの僅かなことだ。子供じみていると言われれば、その通りかもしれない。
 けれど、あの家の中のものに、自分の意志でを入れたという事実だけが、心のどこかに静かに、そして確かなものとして据わっていた。
 湯を替えたマルトが、髪を整えますかと尋ねる。

「いいえ。このままで」

 夕食までまだ少しある。
 休むようにと母は言ったが、本気で休ませたいのではなく、目の赤い娘を食堂へ早々に出したくないだけだろう。
 そう思うと、寝台へ入る気にはなれなかった。

 ◇

 マルトが下がると、部屋は急に静かになった。
 表の廊下を通る足音が遠く聞こえる。
 二階のこのあたりは、食堂の支度が始まると人の動きが少しだけ増える。
 温めた皿を運ぶ下働きの娘、母に呼ばれる侍女、食卓布を替えに行く男手。そうした気配が、閉じた扉の向こうを薄く流れていく。
 セリーヌは座るでもなく、窓辺の肘掛け椅子に手を置いたまま耳を澄ませた。
 やがて、案の定というべきか、廊下の向こうで少し慌ただしい物音がした。
 何かを探すような足音。ひとつではない。短く交わされる声も混じる。
 扉を開けると、ちょうど母付きの侍女が通りかかるところだった。

「どうしたの」

 声をかけると、侍女は一瞬ためらい、すぐに整えた顔になった。

「いえ、大したことではございません。旦那様がお使いになる吸い取り紙が見当たらないようで」

 見当たらない。
 セリーヌは瞬きをした。
 見当たらないのではない。ただ、いつもの位置からわずかにずれているだけだ。
 けれど父は癖で右上の端から引く。
 指が一瞬止まり、そのせいで机の上を見直し、たぶんそのあと何か別のものに気を取られたのだろう。

「そう」
「すぐに別のものをお持ちしますので」

 侍女は急いで去っていった。
 セリーヌは扉を閉めたあと、背を預けず、ただその場に立っていた。
 胸の奥で、何かがごく小さく動いた。
 大きなことは何ひとつ起きていない。
 父は困った顔をしたかもしれないし、侍女が新しい吸い取り紙を持っていけば済む話だ。
 けれどそのわずかな停滞が、この家の中では確かに起きた。
 その事実が、思ったより強く残る。

 しばらくしてから、今度は一階のほうで父の声が低く響いた。
 扉越しで言葉までは分からないが、調子で苛立っているのが分かる。
 すぐに母の、押さえた声が重なった。宥める時の声だ。
 夕食前の家は、普段ならもっと整然としている。
 父は機嫌よく戻るか、疲れて無口になるかのどちらかで、母はその機嫌に合わせて食堂の温度を決める。
 エレオノールはそこへ遅れて現れ、うまく華やかさだけを足す。
 セリーヌはその均衡が崩れないよう、料理の順番や話題の変わり目に目を配ってきた。
 だが今夜は、その均衡が少しだけ鈍い。――自分がほんの少し手を触れただけで。

 窓の外を見ると、雲の切れ目にうっすらと夕方の明るさが溜まりはじめていた。
 雨はほとんど止んでいる。庭木は濡れたまま重そうだが、風が弱まったぶん、葉の一枚一枚がかえってはっきり見えた。温室の脇の小道には、誰かが運んだ籠が二つ置かれたままになっている。
 その時、庭の奥から人影が現れた。
 ジュリアンだった。濡れた地面を避けるように石の縁を選んで歩き、途中でしゃがみ込んで何かを確かめる。
 苗箱の覆いが風でずれたのか、手早く直しているらしい。その動きには迷いがなかった。 
 家の中でさっきから感じている小さな滞りと違って、庭では人がそれぞれ自分の役目をよく知っているのが見て取れる。
 セリーヌは知らず、少しだけ長くその姿を見ていた。
 子供の頃、彼はよくこちらを見上げていた。この家の娘としてではなく、窓辺にいた一人の人間として。
 庭で転んだ時、他の使用人の子たちは面白がって笑ったのに、ジュリアンだけは眉をひそめて、黙って手を差し出したことがある。
 それが何年前のことだったか、もう正確には思い出せない。
 廊下でまた足音がした。今度はマルトだった。

「お嬢様、奥様が……いえ、旦那様が、食堂へと」

 言い直したところを見ると、母ではなく父が出席を求めたのだろう。欠席されると、かえって不自然だと判断したに違いない。

「分かったわ」

 セリーヌは鏡の前へ行き、髪だけ整えさせた。
 目元はまだ少し重いが、雨の名残で部屋が暗いせいか、それほど目立たない。
 母はそれを見て安堵するだろう。父は見ないふりをするだろう。エレオノールは、きっと申し訳なさそうな顔を作る。

 ◇

 食堂へ向かう途中、二階の廊下にはもうランプの支度が始まっていた。
 外が早く暗くなる季節ではないが、雨の日の夕方は光の落ち方が急だ。壁にかけられた半円の燭台に火が入ると、金の縁取りや額絵だけが先に浮かび上がる。
 一階へ降りる表階段の踊り場で、セリーヌは一度だけ足を止めた。
 下から話し声が上がってくる。父と母だ。父の声はまだ少し硬い。
 どうやら書状は、そのまますぐには出せなかったらしい。
 吸い取り紙ひとつでそこまで遅れるものでもないが、机の上の流れが止まれば、人は次に何をしていたかを取りこぼすことがある。
 踊り場の大窓の外は、もう群青に近かった。濡れた庭の上に、切れ残った雲が低くのびている。
 その下で、白い石縁だけが薄く光っていた。
 昼のあいだは不安定に揺れていた空が、今は静かな顔をしているのが、かえって落ち着かなかった。

 食堂の扉が開いている。
 中へ入ると、長い食卓の上にはすでに銀器が並び、燭台の火が白布へ柔らかな影を落としていた。
 庭に面した窓は厚いカーテンが半ば閉じられ、雨上がりの湿気を遮っている。
 暖炉は季節柄まだ使われないが、その上の鏡には灯りが二重に映っていた。
 母は席についていた。父はまだ座らず、食卓の端で小さな紙片を折るように弄んでいる。
 エレオノールはいつもより少し遅れて、けれど遅れすぎない時刻に入ってきた。
 柔らかな薄紅のドレスは昼のままで、いかにも今日は事情があって着替える気になれませんでした、という顔をしている。
 セリーヌは自分の席に着いた。
 父が椅子を引く音がして、ようやく皆が座る。

「具合はどうだ」

 食前の祈りの前に、父がそう言った。
 優しさからではない。欠席せず、騒がず、食卓にいることを確かめるための問いだ。
 けれど今のセリーヌには、その浅さがもう痛いより先に見えてしまう。

「少し休みましたので、もう大丈夫です」

 答えると、母が微笑んだ。

「そう。よかったこと」

 ――よかった? 何が?

 その一瞬、セリーヌの目は父の手元へ向いた。
 弄んでいた紙片は、さっきまで小書斎の机にあった吸い取り紙の端らしかった。
 ほんの小さな折れ目がついている。そのせいで気に障ったのか、父は無意識にそれを指で均している。
 その様子を見た時、セリーヌの中で腑に落ちるものがあった。

 ――なるほど、大きな傷ではなく、こういう小さな引っかかりなのだ。
 ――この家を動かしているのは、立派な言葉や大仰な決断だけではない。机の上の置き方、いつもの順序、当たり前に回る流れ。その全部に皆は頼っている。
 ――だからこそ、そこへ触れれば、思っているより簡単に足並みは乱れる。

 スープが運ばれてきた。
 湯気の向こうで、エレオノールがそっと伏し目がちになる。きっと食事のどこかで、姉を気遣うふりをするつもりなのだろう。
 マルコは今日はもういない。そこだけが少し救いだった。
 外ではまた、どこかで雫がまとまって落ちる音がした。
 夏はまだ来ない。けれど春の終わりは、もう十分に湿っている。何かが腐るには、ちょうど良い温度だと、そんな考えがふとよぎる。
 セリーヌは匙を持ち上げながら、それを顔には出さなかった。
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