婚約者が妹に心変わり?では一刺しして家を捨てましょう。皆様、あとはご自由に。

さんけい

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9 ほんの少しだけ引かれたレース

 翌朝、空は本当に晴れていた。
 昨日あれほど不安定だったのが嘘のように、雲は高いところへ引き上げ、屋敷の上には洗われた青さが広がっている。
 雨をたっぷり吸った庭は朝の光を受けてまだ重たげだったが、若葉の一枚一枚にはっきり輪郭が戻り、花壇の白い石縁も、温室の硝子も、昨日よりくっきり見えた。
 雨の翌朝の家は、少しだけ几帳面になる。
 玄関広間の石床はいつもより念入りに拭かれ、廊下の敷物は湿り気を追い出すように窓が開けられ、庭へ面した硝子戸の近くには靴底の泥を落とす布が余分に置かれる。
 使用人たちの動きもひとつ早い。晴れたからこそ、昨日の遅れを今日のうちに取り戻そうとするのだ。

 セリーヌは、いつもより早く目を覚ました。
 というより、ほとんど眠った気がしなかった。浅い眠りの底で、何度も家の中の線をなぞっていたせいだろう。
 父の起きる時刻、母の呼び鈴、ラウルの足音、書状の置かれる場所。頭の中ではもう何度も朝が来ていた。
 寝台から起き上がると、窓の外に光が満ちている。
 雨の名残はあるが、空気は昨日よりずっと軽い。
 マルトが湯を持って来た時も、セリーヌはもう着替えを終えていた。

「お早いのですね」

 侍女が少し驚いたように言う。

「暑くなる前に、庭を少し見たいと思って」
「では、朝食は後ほどお持ちさせましょうか」
「いいえ。食堂へ行くわ」

 そう答えると、マルトはすぐに頷いた。詮索しないところはやはり助かる。

 二階の廊下へ出ると、高窓から差し込む光が、昨夜よりずっとまっすぐに感じられた。
 壁にかかった額絵の金の縁まで明るくなっている。
 こういう朝、家族は「何事もなかった」顔をしやすい。天気が良いだけで、人は前日の不快を薄く扱う。
 表階段を降りる途中で、セリーヌは視線だけを動かした。
 一階の奥、小書斎へ続く廊下にはまだ誰もいない。
 だが、玄関広間の脇では若い下男が花を活け直しており、食堂の方からは食器のかすかな音がしていた。
 書状の動く朝は、まず家の表側が整えられる。父は整った場所で物事を進めたがるからだ。

 朝食室には、すでに母がいた。薄い灰青の朝のドレスで、窓辺の席に座っている。
 陽が差しているせいか、昨日の夜より機嫌が良さそうに見えた。
 こういうところにも、この人の性質が出る。空が明るいと、昨日の不愉快まで処理が済んだもののように思えるのだ。

「おはよう、セリーヌ。今日は顔色が少し戻ったわね」
「おはようございます、お母様」

 返しながら、セリーヌは母の手元を見た。
 朝の手紙はまだ届いていない。ということは、父は先に小書斎へ寄るはずだ。
 まもなく父も入ってきた。上着はまだ着ていないが、すでに商会へ出る前の顔になっている。
 夜のうちに気持ちを切り替えたのか、昨夕ほどの苛立ちは見えない。
 ただ、その落ち着きが今日の段取りを進める前提のものだと分かっているぶん、セリーヌにはかえってよく見えた。

「よく眠れたか」

 父が問う。

「それなりに」

 そう答えると、父はそれ以上聞かなかった。もともと答えの中身にはそれほど興味がないのだろう。
 母が茶を注ぐよう侍女に目配せしたあたりで、エレオノールが少し遅れて入ってきた。
 昨日よりさらに「気まずさを抱えております」という顔を作っている。目元だけを少し伏せ、けれど髪は朝から丁寧に整えられていた。
 朝食は静かだった。
 パンの焼け具合、果実の酸味、薄く切られたハム。そういうものばかりが、妙に鮮明に分かる。
 誰も婚約のことには触れない。
 父は食べ終わるのが早く、母はその様子を見ながら自分の茶をゆっくり飲み、エレオノールは会話を始めるでもなく、ただ沈んだふりをしている。
 やがて父がナプキンを置いた。

「小書斎へ行く」

 言葉は短い。だがそれで十分だった。
 母の睫毛がわずかに動き、侍女がすぐ控えめに頭を下げる。書状の時間だ。
 セリーヌはその一連の動きを、自分の茶器を持ち上げながら見ていた。
 父が出ていく。少し遅れて母も立つ。
 エレオノールは座ったままだが、落ち着かないように指先を重ねている。自分のための書状だと分かっているのだろう。

「お姉様」

 不意にその声が向けられて、セリーヌは顔を上げた。
 エレオノールはひどく沈んだ顔をして

「本当に……ごめんなさい」

 朝の光の中で聞くと、その台詞はいっそう薄かった。
 昨夜の雨も、食卓の気まずさも、何ひとつ本当に沁みていない人間だけが出せる声だと分かる。

「あなたが気に病むことではないでしょう」

 セリーヌがそう言うと、妹は少しだけ目を見張った。責められるか、許されるか、そのどちらかを待っていた顔だった。
 けれど今の返しは、どちらにもきちんと当てはまらない。

「そういう意味では……」
「では、どういう意味なの」

 問うと、エレオノールは言葉を探すように唇を閉じた。
 子供の頃からそうだった。
 欲しいものを取る時は早いのに、その後の説明になると急にしおらしくなる。そこを周囲が補ってきたからだ。
 母が「この子も辛かったのよ」と言い、父が「もう済んだことだ」と切り上げる。
 その流れを、妹は自然に信じている。

「……あなたは、昔から変わらないわね」

 セリーヌが静かに言うと、エレオノールの顔がほんの少し曇った。

「え?」
「欲しいものがある時だけ、急にしおらしい顔をするところ」

 そこまで言って、セリーヌは茶器を置いた。
 これ以上続ければ、朝食室で波が立つ。今はそれを望んでいなかった。

「失礼するわ」

 立ち上がると、エレオノールは何も言えなかった。

 ◇

 朝食室を出たセリーヌは、まっすぐ二階へ戻るふりをして、すぐに廊下の角を曲がった。
 食堂から小書斎へ向かう側の廊下だ。
 正面から行くには少し近すぎる。だから一度、庭に面した細い通路へ入り、そこから飾り棚の陰を回る。
 朝の家は明るいぶん、影が短い。隠れるには夜より不利だ。
 けれど人は明るい時ほど、見えているつもりで細部を見ない。
 小書斎の扉は閉まっていた。
 中からは父と母の低い声。ときおり紙をめくる音。封蝋の箱を開くような硬い音も混じる。
 もう書状は机の上に出ているのだろう。
 セリーヌは扉の正面には立たず、その少し手前、壁に掛けられた大きな風景画の下で足を止めた。
 そこからなら、書斎の扉と、廊下の両方が視界に入る。さらに廊下を折れた先には、玄関広間へ通じる道もある。
 少しして、母が出てきた。
 扉を引きながら、中へ向かって何か一言だけ言う。
 その声は聞き取れなかった。けれど用は済んだのだろう。母は振り返らずに食堂側へ去る。
 扉は完全には閉まらず、わずかに隙間が残った。
 その隙間から、父が机を引く音がした。何か別の書類へ手を伸ばしたらしい。たぶん商会の帳面だ。
 ひとつの用件を済ませたあと、次の用件へ意識が移る時、父はまれに手元が雑になる。
 そこへ、予想していた足音がやって来た。ラウルだ。
 玄関広間の方から小走りに近づき、小書斎の前で足を止める。

「旦那様」
「入れ」

 扉が開き、ラウルが中へ入る。革の書類挟みと、手袋。出立の前の姿だった。
 今なら、とセリーヌは思った。
 小書斎のすぐ脇、飾り棚の陰に置かれた小卓の上には、朝に活け替えられたばかりの白百合がある。
 背の高い花瓶で、裾に敷かれたレースがまだ少し整っていない。
 たぶん先ほど玄関脇で花を活け直していた下男が、最後のひと手間を残したまま行ったのだ。
 セリーヌはそちらへ半歩寄り、レースの端をそっと引いた。

 ――ほんの少しだけ。

 引かれたレースの端が花瓶の底にわずかに触れ、花瓶は目に見えないほど、ほんのわずか傾いた。
 そのままでは倒れない。だが、誰かが急いで横を通れば、裾の布が引っかかるには十分なずれだ。
 やりすぎではない。壊すつもりもない。ただ、足を止めさせればいい。
 セリーヌはすぐに身を引いた。
 その瞬間、小書斎の中で父が低く言った。

「これをベッリーニ家へ。会頭に直接渡せ」
「承知しました」

 扉が開く。
 ラウルが出てくる。手には白い封筒がある。
 歩き出しかけたその足が、小卓の脇でわずかに乱れた。
 上着の裾が、引かれたレースの端に触れた。
 花瓶が傾き、白百合が揺れ、水が一筋、磨いた床へこぼれた。

「おっと」

 ラウルが慌てて封筒を持ち直す。
 中身を濡らすほどではない。だが、床に落ちた水と花瓶をそのままにはできない。
 彼はすぐさま空いている手で花瓶を支え、廊下の向こうへ声を投げた。

「誰か、布を!」

 小さなことだった。
 本当に小さなことだ。けれど廊下に張りつめていた朝の流れは、その一瞬で止まる。
 父が扉の内側から苛立った声を出し、どこからか下働きの娘が駆けてくる。
 娘は水を見て慌て、ラウルは封筒を濡らさないよう片手を高く持ち上げたまま舌打ちを飲み込んでいる。
 そのすべてが、セリーヌには驚くほどゆっくり見えた。
 封筒は無事だ。けれどラウルの手は今ふさがっている。
 下働きの娘は両手で布を広げ、床ばかり見ている。
 父は廊下へ出るのをためらっている。磨いた床へ自分が出れば、かえって汚すからだ。
 セリーヌは風景画の陰から一歩だけ進んだ。

「これを」

 自分でも驚くほど自然な声が出た。ラウルの手から、封筒を受け取る。
 彼は一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに目の前の花瓶へ意識を戻した。
 下働きの娘が布で床を押さえ、ラウルが花瓶を立て直す。

「すぐにお持ちするわ」

 セリーヌがそう言うと、小書斎の中の父は一拍置いてから、

「……ああ」

とだけ答えた。

 まさかここで娘が受け取るとは思っていなかったのだろう。
 けれど、もう受け渡しは済んでいる。ラウルは片づけに手を取られ、父は机の前から動きにくい。
 ほんの数秒だ。だが家の流れというのは、その数秒で十分に形を変える。

 封筒は思ったより軽かった。
 上質な紙の感触が指先に乗る。宛名はまだ見ない。見る必要もない。
 セリーヌはそれを胸元に軽く押さえたまま、廊下を玄関広間とは反対へ歩き出した。
 誰も、すぐには呼び止めなかった。
 下働きの娘は床の水に気を取られ、ラウルは花瓶のぐらつきを確かめ、父は扉の内側から苛立たしげに何か言っている。その間に、廊下の角はもうすぐそこだった。
 曲がった先には、庭へ面した細い通路。
 さらに進めば、温室脇の硝子戸。
 朝の光は強く、濡れた庭は静かだった。まるで何も起きていない顔で、家の外側だけがきれいに晴れている。
 セリーヌは歩を緩めなかった。
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