婚約者が妹に心変わり?では一刺しして家を捨てましょう。皆様、あとはご自由に。

さんけい

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16 何も気付かないままに

 ――父が先に話を整える前に、あちらの家で何か一つ、引っかかればいい。

 その考えを胸の内に静かに置いたまま、セリーヌは机へ向かった。
 窓の外では、玄関前の砂利を均す音がしている。馬車が出る前の、あの細かな支度の音だ。
 御者が足場を確かめ、若い下男が踏み台を運び、誰かが革具を拭う。
 晴れた日の昼前らしい乾いた気配が、そこだけ家の外から滲んでくる。
 セリーヌは衣装箱の底から抜いた紙を、もう一度だけ広げた。

 ――四月半ば。
 ――ベッリーニ家の若君、庭より来訪。奥様ご承知とのこと。

 この一枚そのものを外へ出す気はなかった。
 帳面から抜いた紙がそのまま消えれば、いずれ誰かが気づくかもしれない。
 気づかれないままでも構わないが、自分の手元からはまだ離したくなかった。これは、この家が何を見過ごしてきたかの、初めて触れた手触りだったからだ。
 だから必要なのは、これをそのまま渡すことではない。
 あちらの家へ、父が持っていく顔を一瞬でも曇らせるだけの、薄い刃のようなもの。
 小机の引き出しから細い便箋を取り出し、ペン先を選ぶ。
 普段の書状に使う柔らかな太さではなく、もっと硬く、記録用の乾いた線が出るもの。インク壺の蓋を開けると、金属の匂いがわずかに立った。
 セリーヌは少しだけ呼吸を整え、書いた。

 ――四月半ば以降の庭側出入りをお確かめください。ヴァレール家庭番記録に、「ベッリーニ家の若君、庭より来訪。奥様ご承知とのこと」とあります。

 それだけだった。
 名乗りも、責めも、飾る言葉も入れない。親切な忠告の顔もいらない。
 むしろ短いほうが、読む側の胸に残る。商家の会頭なら、こういう短さの嫌さをよく知っているはずだ。
 書き終えてから、セリーヌはしばらくその紙を見ていた。
 自分のいつもの字ではない。帳面を写す時の、少し角張った、乾いた字に寄せた。
 女の私信にも、父の書状にも見えない手。誰が書いたかは分からなくても、ただの悪意の落書きでは済まないくらいの体裁だけ残した。
 紙を細く折る。
 父が使う銀の名刺入れは、昼前になると一階の小卓へ置かれる。出る直前、帽子と手袋と一緒に持たせるためだ。
 革の書類挟みはラウルが預かるが、名刺入れだけは父が自分で持つ。訪問先で最初に差し出すものだから。
 その習慣を、セリーヌは昔から知っていた。知っていて、今まで何にも使わなかっただけだ。
 紙を袖の中へ滑らせ、部屋を出る。
 二階の廊下は明るかった。昼が近いせいで、朝よりずっと影が薄い。
 だからこそ、人は安心して物を置く。見えているのだから大丈夫だと思うのだ。

 階段を下りると、一階の空気にはもう出発前の硬さが混じっていた。
 玄関広間の扉は半ば開けられ、外の陽が石床へ斜めに差し込んでいる。その脇の小卓に、父の帽子、薄革の手袋、銀の名刺入れがきちんと並べられていた。
 誰もそこを見ていない。
 というより、見ていても、ただの家の支度としてしか見ていない。
 父はまだ小書斎。母はたぶん居間か、その手前。ラウルは馬車のほうへ行っている。
 下男は玄関の外。ほんの短い、けれど確かに空いた時間だった。
 セリーヌは小卓の前へ寄った。
 名刺入れは、小ぶりで平たい銀細工のものだ。蓋の縁に細い蔓草の模様が入っていて、父はこれを気に入っていた。
 手に取ると、ひんやりしている。留め具を押せば、小さく乾いた音がして開いた。中には父の名刺が十枚ほど。
 その一番上と二番目のあいだへ、細く折った紙を滑り込ませた。
 見た目は変わらない。厚みもほとんど出ない。
 だが、最初の一枚を抜けば、その次に指へ触れるはずだ。
 父が自分で気づくにしても、訪問先で相手の前で気づくにしても、どちらでもよかった。
 大事なのは、ベッリーニ家の敷居をまたぐ時、父が昨日までの顔ではいられなくなることだ。
 蓋を閉じ、元の位置へ戻す。それだけ済ませて身を引いた時、奥の廊下から母の声がした。

「セリーヌ?」

 振り向くと、母がこちらへ歩いてくるところだった。光の中では、その濃紺の昼のドレスが朝よりさらに落ち着いて見える。
 けれど表情は落ち着いていなかった。整えてはいるが、疲れがもう薄く滲んでいる。

「こんなところで何を」
「外が明るいので、少し見ていただけです」

 母の目が、小卓の上を一度だけなぞる。帽子、手袋、名刺入れ。
 ほんの一瞬、何かを確かめるような目だったが、すぐに戻った。

「お父様はもう出るわ」
「そうでしょうね」
「あなたは部屋へ戻っていなさい」

 昨日も今日も、母はそれを繰り返す。見えないところにいなさい、という意味だ。
 波立てないために。都合の悪い顔を、外へ出さないために。

「分かりました」

 そう答えると、母はわずかに息をついた。まだ従う。まだ返事をする。その確認の息だと、もう分かってしまう。
 その時、小書斎の扉が開いて父が出てきた。
 上着はきちんと整えられ、髪もいつも通りに撫でつけられている。
 書状を失くした朝の苛立ちは、表向きにはもう見せない顔だった。
 会頭として外へ出る時の顔。セリーヌはそれを見て、胸のどこかがひどく静かになった。
 父は小卓へ寄り、帽子と手袋を取り、最後に名刺入れを上着の内ポケットへ滑らせた。

 ――何も気づかないままに。

 その動作はあまりにもいつも通りで、かえって可笑しかった。
 家というものは、こんなふうにいつもの手つきで、自分の足元のずれに触れずに済むと思い込んでいる。

「行ってくる」

 父が母に告げる。母が頷く。
 二人のあいだにあるのは、夫婦の情ではなく、今日の用向きを失敗なく運ぶ者同士の合図のように見えた。
 玄関の外で御者が姿勢を正す。砂利を踏む音。馬具の軽い鳴り。
 父は振り返らなかった。セリーヌのほうも、もう見ようとはしなかったのかもしれない。
 ただその背中が玄関を出て、陽の中へまっすぐ歩いていくのを、セリーヌは黙って見ていた。

 扉の外は、よく晴れていた。
 その明るさの中で馬車が動き出し、車輪が乾きはじめた砂利をかすかに鳴らす。
 やがて門のほうへ向かって遠ざかっていく。
 名刺入れの中には、薄い紙が一枚。
 それだけで、本当に何かが変わるのかは、まだ分からない。
 けれど少なくとも、父はもう、何も知らない顔のままベッリーニ家の敷居をまたぐことはできない。
 どの瞬間に気づくにせよ、その時には、向こうの家の空気もまた昨日までとは同じではなくなるはずだった。
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