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20 庭の人の半分の冗談
居間を出たあとも、セリーヌはまっすぐ自室へは戻らなかった。
戻れば、またすぐ誰かが来る気がした。母か、侍女か、あるいは今度はエレオノールか。
呼び止めておけばまだ何とかなると信じている者の足音を、今は聞きたくなかった。
二階の廊下を端まで行き、高窓の下を折れ、温室へ続く細い通路へ向かう。
昼過ぎの家は明るいのに、どこか落ち着かない。よく磨かれた床も、白い壁も、今日ばかりは神経質な顔をしているように見えた。
硝子戸を抜けると、外の空気は思ったより温かかった。
雨の翌日の陽だまりには、もう初夏の気配が混じる。温室の硝子はすっかり乾き、鉢植えの葉の上にだけ、朝の名残のような水滴がいくつか残っていた。
庭の土は表面から乾き始めているが、踏めばまだ少し柔らかいはずだ。セリーヌは庇のついた石畳まで出て、そこで立ち止まった。
家の中で張っていたものが、ようやく少しだけほどける。
けれど楽になったわけではない。むしろ逆だった。父の怒り、母の本音、エレオノールの怯え。
全部が一度に耳へ入ったせいで、胸の奥だけが奇妙にしん、と静まっている。
……静かすぎて、息の置き場が分からない。
「……今の顔は、あまり良くありません」
背後から声がして、セリーヌは振り向いた。
ジュリアンが、温室の陰から出てくるところだった。片手に剪定した枝を少しだけ抱えている。
昼の光の下で見ると、昨夜よりもずっと庭の人間らしく見えた。袖をまくり、シャツの襟元は少し開いている。
けれど目元だけは変わらず、こちらをまっすぐ見ていた。
「昨夜より悪い?」
「違います」
「どう違うの」
ジュリアンはすぐには答えなかった。代わりに、抱えていた枝を木箱の上へ置く。
若い葉が、置かれた拍子にひとつ揺れた。
「昨夜は、疲れている顔でした」
「今は?」
「何かを済ませたかのように」
セリーヌは思わず目を細めた。
「嫌な言い方ね」
「褒めているつもりはありません」
そう言われると、少しだけ笑いそうになる。笑う気分ではないのに、そのやりとりだけが妙に呼吸へなじんだ。
庇の外では、日を受けた若葉が薄く光っている。
昨日の雨が嘘みたいに、庭は明るかった。けれど石畳の目地のあいだにはまだ濃い色が残っている。
全部がすぐ乾くわけではないのだと、目で分かる。
「お父上、早くお戻りでしたね」
ジュリアンが何でもないふうに言った。さすがに庭にいても、会頭の馬車が早く帰れば気づくのだろう。
セリーヌは壁にもたれたまま、庭の向こうへ視線を流した。
「ええ」
「用向きが短かったのか」
「変わったのかもしれないわ」
「……そうですか」
彼は深くは訊かない。そこがありがたかった。
訊かれれば、今のセリーヌはどこまで口を開いてしまうか分からない。こんな時は、人にやさしくされるほうが厄介だ。
ジュリアンは足元の鉢の向きをひとつ直す。日当たりを調整するための、ごく小さな動きだった。
「さっき、庭番頭が奥様に呼ばれていました」
「庭番頭が」
「春の出入りについて、何か確かめられていたようです」
セリーヌは指先を少しだけ握る。やはり、庭の記録へ話は向かっているのだ。
父が戻って、母もようやく帳面のほうへ意識を向け始めたらしい。
もっとも原本はもう戻してある。そこを確かめれば、記録はきちんと残っているはずだった。
「父が?」
「いいえ、奥様です。旦那様は玄関のほうで声を荒げておられましたから」
それを聞いて、セリーヌは一瞬だけ目を伏せた。
母は探しているのだろう。帳面そのものの欠けではなく、どこまで見られたのかを。自分が知っていたことが、どの形で表へ出たのかを。
「庭番頭は何と」
「書いてあることは書いてある通りだと」
ジュリアンの声には、わずかに硬いものが混じっていた。
「それ以上のことは、訊かれても言えないでしょう。見ていた者は別にいても、記録に手を入れるのはあの人ではありません」
その言い方に、セリーヌは顔を上げた。
――見ていた者は別にいても。
ジュリアンはそこまで言って、こちらを見返した。責めるでもなく、探るでもなく、ただ言葉の置きどころを確かめるような目だった。
「あなたは、何をどこまで知っているの?」
思わずそう聞くと、彼は少しだけ肩をすくめた。
「庭から見えることだけです」
「それはずいぶん多いでしょうね」
「そうでもありません。表の家の人は、見えていると思っていない場所が多いだけです」
――表の家の人。
その言いまわしには妙な現実味があった。
家族でもない、使用人でもない、その中間にいる者だからこそ、こう言えるのだろう。
ジュリアンはこの屋敷を知っている。だが、それを自分のものとして語ってはいない。
「……あなた、見ていたの」
セリーヌの声は自分でも思ったより静かだった。
「マルコが来ていたことを」
庇の外で、風が一度だけ強くなった。若葉が裏返り、陽の色が少し変わる。
夏の前の風は、晴れていてもどこか落ち着かない。
ジュリアンはすぐには答えなかった。答えないまま、木箱の上に置いた枝を揃える。葉先の向きをそろえながら、ようやく言った。
「一度や二度ではありませんでした」
その言葉は、思っていたより胸に深く落ちた。知っていたのだ。庭の者たちは。
少なくとも、気づく者は気づいていた。表の客ではない時間に、庭側から入り、温室の陰を使って出入りする若い男を。
「では、ずっと」
「見て見ぬふりをするのが、この家のやり方だと思っておりました」
ジュリアンは言いながら、ようやくこちらを見た。
「違いましたか」
セリーヌは返事をしなかった。
違わない。違わないから、ここまで来たのだ。母が見て見ぬふりをし、父はたぶん何も知らず、エレオノールは愛し合っていると信じ、マルコはそのぬるさに甘えていた。
その全部が、今になって紙一枚で表へ出た。
「……あなたは、誰にも言わなかったのね」
その言葉は責めるでも礼でもない、妙な響きになる。ジュリアンは少しだけ眉を寄せた。
「私が口を出すことではないでしょう」
「そう」
「けれど、見ていたのに知らないとは言えません」
その言い方に、セリーヌは彼らしいと思った。
味方になるとは言わない。黙って守るとも言わない。訊かれれば、見たことは見たと答える。そういう不器用な真っ直ぐさが、かえって信用できる。
庇の端から、乾ききらなかった雫がひとつ落ちた。
「家の中、ずいぶん騒がしいようでした」
ジュリアンが言う。
「ええ」
「旦那様がお戻りになってから、余計に」
「そうでしょうね」
「……あなたが、何かをなさったんですか」
ついに来た、という感じだった。その声には非難も好奇心もない。
ただ、ここまで来たなら確かめておくべきかどうか迷った末の問いのように聞こえた。
セリーヌは少し考える。
全部を話す気はない。話せば、彼を内側へ引きずり込む。それはまだしたくなかった。
だが何もかも黙れば、今のこの場もまた、家の中の空疎なやり取りと同じになる気がした。
「何もしなかった、と言えば嘘になるわ」
そう答えると、ジュリアンの目がほんの少しだけ細くなった。驚いたのではない。むしろ、そうだろうと思っていた顔だった。
「お勧めはしません」
「止めるの」
「止まりそうに見えませんね」
「そう?」
「ただ」
そこで彼は言葉を切った。
少しだけ近づき、けれど庇の外へは出ない。その距離が、妙にぎりぎりだった。
近すぎれば不自然で、遠すぎれば言葉が届かない。その境目に立つ人間の距離。
「あなたが壊したいのが、ご自分なのか家なのかは、間違えないほうがいい」
セリーヌは息を止めた。
説教じみた言い方ではなかった。静かで、乾いていて、それでいて妙に芯へ触れる声だった。
だから余計に痛い。
「……嫌なことを言うのね」
「そうかもしれません」
「でも、そういう顔をしていた?」
「少し」
庇の向こうで、風がまた若葉を揺らした。
日差しはあるのに、空のどこかにまだ落ち着かなさが残っている。初夏の手前の天気だ。晴れていても、急に色が変わることがある。
セリーヌは壁から背を離した。
「私は自分を壊したいわけではないわ」
「でしたら結構です」
「家のほうは?」
「半分くらいなら」
思いがけず、そこでジュリアンの口元が少しだけ動いた。笑った、というほどでもない。けれど完全な真顔ではない、それくらいの緩みだった。
セリーヌは思わず眉を寄せる。
「庭の人の冗談?」
「半分は本気です」
それが可笑しくて、喉の奥にひどく小さな息が漏れた。
笑いと呼ぶにはあまりに短かったが、昨日から初めて、自分の中のどこかが少しだけ軽くなった気がした。
ジュリアンはそれを見ても何も言わなかった。ただ、木箱の上の枝束を抱え直す。
「奥様がまた庭番頭を呼ぶかもしれません」
「ええ」
「私は、見たことを訊かれれば答えます」
「そうでしょうね」
「ですが、訊かれていないことまでは申しません」
協力の約束ではない。彼は自分の立ち位置を分かっている。
だからこそ、そこから先へ無闇には踏み込まない。線引きはきっちりしている。
「ありがとう、と言うべきかしら」
「どちらでも」
セリーヌはしばらく彼を見ていた。
庭の者の顔をしている。けれどこの家に染まりきった顔ではない。だから、自分が今どんな顔をしているのかを、家族とは違う角度から見てしまうのだろう。
「……あなた、教会町へ戻るのは夏の終わりだったわね」
「はい」
「それまで、まだここにいるの?」
「庭にいる分には」
その答えに、なぜか少しだけ安心した。安心したこと自体が、セリーヌには少し怖かった。
誰かが家の外の空気を持って立っている、その事実に頼りたくなっている。けれど頼り切ってしまえば、今度は自分のやっていることが曇る気もした。
「戻るわ」
そう言うと、ジュリアンは頷いた。
「ええ」
「あなたも仕事を」
「そうします」
庇の外へ一歩出ると、日差しは思ったより強かった。
石畳に残る薄い湿りが、光の中で白く乾いていく。夏はまだ先だ。けれど、もう春のままではいられない。
母屋のほうへ歩き出したところで、背後からジュリアンの声がした。
「セリーヌ様」
振り向く。
彼は庇の陰に立ったまま、短く言った。
「戻って来られる場所は、残しておいたほうがいい」
それだけだった。何に対してか、明言はしない。
家から逃げる時のことか、自分を見失う時のことか、それとももっと別のことか。けれどその曖昧さのまま、言葉はちゃんと残った。
セリーヌはすぐには返事をせず、ほんの少しだけ頷き、母屋へ向き直る。
家の中では、まだざわめきが続いているだろう。父は怒りを抱えたまま、母は言い訳と段取りのあいだで立ち尽くし、エレオノールはようやく自分の足元が危ういことに気づき始めている。
その中へ戻るセリーヌの足取りは、朝よりも確かだった。
戻れば、またすぐ誰かが来る気がした。母か、侍女か、あるいは今度はエレオノールか。
呼び止めておけばまだ何とかなると信じている者の足音を、今は聞きたくなかった。
二階の廊下を端まで行き、高窓の下を折れ、温室へ続く細い通路へ向かう。
昼過ぎの家は明るいのに、どこか落ち着かない。よく磨かれた床も、白い壁も、今日ばかりは神経質な顔をしているように見えた。
硝子戸を抜けると、外の空気は思ったより温かかった。
雨の翌日の陽だまりには、もう初夏の気配が混じる。温室の硝子はすっかり乾き、鉢植えの葉の上にだけ、朝の名残のような水滴がいくつか残っていた。
庭の土は表面から乾き始めているが、踏めばまだ少し柔らかいはずだ。セリーヌは庇のついた石畳まで出て、そこで立ち止まった。
家の中で張っていたものが、ようやく少しだけほどける。
けれど楽になったわけではない。むしろ逆だった。父の怒り、母の本音、エレオノールの怯え。
全部が一度に耳へ入ったせいで、胸の奥だけが奇妙にしん、と静まっている。
……静かすぎて、息の置き場が分からない。
「……今の顔は、あまり良くありません」
背後から声がして、セリーヌは振り向いた。
ジュリアンが、温室の陰から出てくるところだった。片手に剪定した枝を少しだけ抱えている。
昼の光の下で見ると、昨夜よりもずっと庭の人間らしく見えた。袖をまくり、シャツの襟元は少し開いている。
けれど目元だけは変わらず、こちらをまっすぐ見ていた。
「昨夜より悪い?」
「違います」
「どう違うの」
ジュリアンはすぐには答えなかった。代わりに、抱えていた枝を木箱の上へ置く。
若い葉が、置かれた拍子にひとつ揺れた。
「昨夜は、疲れている顔でした」
「今は?」
「何かを済ませたかのように」
セリーヌは思わず目を細めた。
「嫌な言い方ね」
「褒めているつもりはありません」
そう言われると、少しだけ笑いそうになる。笑う気分ではないのに、そのやりとりだけが妙に呼吸へなじんだ。
庇の外では、日を受けた若葉が薄く光っている。
昨日の雨が嘘みたいに、庭は明るかった。けれど石畳の目地のあいだにはまだ濃い色が残っている。
全部がすぐ乾くわけではないのだと、目で分かる。
「お父上、早くお戻りでしたね」
ジュリアンが何でもないふうに言った。さすがに庭にいても、会頭の馬車が早く帰れば気づくのだろう。
セリーヌは壁にもたれたまま、庭の向こうへ視線を流した。
「ええ」
「用向きが短かったのか」
「変わったのかもしれないわ」
「……そうですか」
彼は深くは訊かない。そこがありがたかった。
訊かれれば、今のセリーヌはどこまで口を開いてしまうか分からない。こんな時は、人にやさしくされるほうが厄介だ。
ジュリアンは足元の鉢の向きをひとつ直す。日当たりを調整するための、ごく小さな動きだった。
「さっき、庭番頭が奥様に呼ばれていました」
「庭番頭が」
「春の出入りについて、何か確かめられていたようです」
セリーヌは指先を少しだけ握る。やはり、庭の記録へ話は向かっているのだ。
父が戻って、母もようやく帳面のほうへ意識を向け始めたらしい。
もっとも原本はもう戻してある。そこを確かめれば、記録はきちんと残っているはずだった。
「父が?」
「いいえ、奥様です。旦那様は玄関のほうで声を荒げておられましたから」
それを聞いて、セリーヌは一瞬だけ目を伏せた。
母は探しているのだろう。帳面そのものの欠けではなく、どこまで見られたのかを。自分が知っていたことが、どの形で表へ出たのかを。
「庭番頭は何と」
「書いてあることは書いてある通りだと」
ジュリアンの声には、わずかに硬いものが混じっていた。
「それ以上のことは、訊かれても言えないでしょう。見ていた者は別にいても、記録に手を入れるのはあの人ではありません」
その言い方に、セリーヌは顔を上げた。
――見ていた者は別にいても。
ジュリアンはそこまで言って、こちらを見返した。責めるでもなく、探るでもなく、ただ言葉の置きどころを確かめるような目だった。
「あなたは、何をどこまで知っているの?」
思わずそう聞くと、彼は少しだけ肩をすくめた。
「庭から見えることだけです」
「それはずいぶん多いでしょうね」
「そうでもありません。表の家の人は、見えていると思っていない場所が多いだけです」
――表の家の人。
その言いまわしには妙な現実味があった。
家族でもない、使用人でもない、その中間にいる者だからこそ、こう言えるのだろう。
ジュリアンはこの屋敷を知っている。だが、それを自分のものとして語ってはいない。
「……あなた、見ていたの」
セリーヌの声は自分でも思ったより静かだった。
「マルコが来ていたことを」
庇の外で、風が一度だけ強くなった。若葉が裏返り、陽の色が少し変わる。
夏の前の風は、晴れていてもどこか落ち着かない。
ジュリアンはすぐには答えなかった。答えないまま、木箱の上に置いた枝を揃える。葉先の向きをそろえながら、ようやく言った。
「一度や二度ではありませんでした」
その言葉は、思っていたより胸に深く落ちた。知っていたのだ。庭の者たちは。
少なくとも、気づく者は気づいていた。表の客ではない時間に、庭側から入り、温室の陰を使って出入りする若い男を。
「では、ずっと」
「見て見ぬふりをするのが、この家のやり方だと思っておりました」
ジュリアンは言いながら、ようやくこちらを見た。
「違いましたか」
セリーヌは返事をしなかった。
違わない。違わないから、ここまで来たのだ。母が見て見ぬふりをし、父はたぶん何も知らず、エレオノールは愛し合っていると信じ、マルコはそのぬるさに甘えていた。
その全部が、今になって紙一枚で表へ出た。
「……あなたは、誰にも言わなかったのね」
その言葉は責めるでも礼でもない、妙な響きになる。ジュリアンは少しだけ眉を寄せた。
「私が口を出すことではないでしょう」
「そう」
「けれど、見ていたのに知らないとは言えません」
その言い方に、セリーヌは彼らしいと思った。
味方になるとは言わない。黙って守るとも言わない。訊かれれば、見たことは見たと答える。そういう不器用な真っ直ぐさが、かえって信用できる。
庇の端から、乾ききらなかった雫がひとつ落ちた。
「家の中、ずいぶん騒がしいようでした」
ジュリアンが言う。
「ええ」
「旦那様がお戻りになってから、余計に」
「そうでしょうね」
「……あなたが、何かをなさったんですか」
ついに来た、という感じだった。その声には非難も好奇心もない。
ただ、ここまで来たなら確かめておくべきかどうか迷った末の問いのように聞こえた。
セリーヌは少し考える。
全部を話す気はない。話せば、彼を内側へ引きずり込む。それはまだしたくなかった。
だが何もかも黙れば、今のこの場もまた、家の中の空疎なやり取りと同じになる気がした。
「何もしなかった、と言えば嘘になるわ」
そう答えると、ジュリアンの目がほんの少しだけ細くなった。驚いたのではない。むしろ、そうだろうと思っていた顔だった。
「お勧めはしません」
「止めるの」
「止まりそうに見えませんね」
「そう?」
「ただ」
そこで彼は言葉を切った。
少しだけ近づき、けれど庇の外へは出ない。その距離が、妙にぎりぎりだった。
近すぎれば不自然で、遠すぎれば言葉が届かない。その境目に立つ人間の距離。
「あなたが壊したいのが、ご自分なのか家なのかは、間違えないほうがいい」
セリーヌは息を止めた。
説教じみた言い方ではなかった。静かで、乾いていて、それでいて妙に芯へ触れる声だった。
だから余計に痛い。
「……嫌なことを言うのね」
「そうかもしれません」
「でも、そういう顔をしていた?」
「少し」
庇の向こうで、風がまた若葉を揺らした。
日差しはあるのに、空のどこかにまだ落ち着かなさが残っている。初夏の手前の天気だ。晴れていても、急に色が変わることがある。
セリーヌは壁から背を離した。
「私は自分を壊したいわけではないわ」
「でしたら結構です」
「家のほうは?」
「半分くらいなら」
思いがけず、そこでジュリアンの口元が少しだけ動いた。笑った、というほどでもない。けれど完全な真顔ではない、それくらいの緩みだった。
セリーヌは思わず眉を寄せる。
「庭の人の冗談?」
「半分は本気です」
それが可笑しくて、喉の奥にひどく小さな息が漏れた。
笑いと呼ぶにはあまりに短かったが、昨日から初めて、自分の中のどこかが少しだけ軽くなった気がした。
ジュリアンはそれを見ても何も言わなかった。ただ、木箱の上の枝束を抱え直す。
「奥様がまた庭番頭を呼ぶかもしれません」
「ええ」
「私は、見たことを訊かれれば答えます」
「そうでしょうね」
「ですが、訊かれていないことまでは申しません」
協力の約束ではない。彼は自分の立ち位置を分かっている。
だからこそ、そこから先へ無闇には踏み込まない。線引きはきっちりしている。
「ありがとう、と言うべきかしら」
「どちらでも」
セリーヌはしばらく彼を見ていた。
庭の者の顔をしている。けれどこの家に染まりきった顔ではない。だから、自分が今どんな顔をしているのかを、家族とは違う角度から見てしまうのだろう。
「……あなた、教会町へ戻るのは夏の終わりだったわね」
「はい」
「それまで、まだここにいるの?」
「庭にいる分には」
その答えに、なぜか少しだけ安心した。安心したこと自体が、セリーヌには少し怖かった。
誰かが家の外の空気を持って立っている、その事実に頼りたくなっている。けれど頼り切ってしまえば、今度は自分のやっていることが曇る気もした。
「戻るわ」
そう言うと、ジュリアンは頷いた。
「ええ」
「あなたも仕事を」
「そうします」
庇の外へ一歩出ると、日差しは思ったより強かった。
石畳に残る薄い湿りが、光の中で白く乾いていく。夏はまだ先だ。けれど、もう春のままではいられない。
母屋のほうへ歩き出したところで、背後からジュリアンの声がした。
「セリーヌ様」
振り向く。
彼は庇の陰に立ったまま、短く言った。
「戻って来られる場所は、残しておいたほうがいい」
それだけだった。何に対してか、明言はしない。
家から逃げる時のことか、自分を見失う時のことか、それとももっと別のことか。けれどその曖昧さのまま、言葉はちゃんと残った。
セリーヌはすぐには返事をせず、ほんの少しだけ頷き、母屋へ向き直る。
家の中では、まだざわめきが続いているだろう。父は怒りを抱えたまま、母は言い訳と段取りのあいだで立ち尽くし、エレオノールはようやく自分の足元が危ういことに気づき始めている。
その中へ戻るセリーヌの足取りは、朝よりも確かだった。
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