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22 父の問いかけ
午後の光が少し傾き始めた頃、屋敷の空気はまた別の硬さを帯びていた。
昼すぎの騒ぎがひとまず収まったように見えても、実際には何ひとつ収まっていない。むしろ、いったん形を失ったものを、誰も同じ場所へ戻せずにいる時の静けさだった。
廊下を行く足音は朝より少ないのに、扉の開閉は妙に慎重で、呼び鈴の鳴り方だけが短く鋭い。
よく整った家ほど、ひびが入るとこういう音を立てるのだと、セリーヌは窓辺に立ちながら思った。
父は戻ってから一度も商会へ出直していないらしかった。
それだけで十分異常だった。午前の用向きがどう転んでも、午後の一定の時刻には帳場へ顔を出すのが父の習慣で、それを変える時はたいてい外へ見せたくない家の問題がある時だけだ。
自室の扉が叩かれたのは、その少しあとだった。
「お嬢様、旦那様が書斎へと」
マルトの声は平静だったが、いつもより低かった。家の気配を読んでいるのだろう。
セリーヌは振り返り、少しだけ顎を引く。
「今すぐ?」
「はい」
父の書斎。小書斎ではなく、本来は商会の大きな用向きや重要な客を通す、一階奥の重い部屋だ。
家族がそこへ呼ばれるのは珍しい。呼ばれる時は、たいてい家族としてではなく、何かの当事者として座らされる。
セリーヌは軽く身支度を整え、マルトを先に下がらせて廊下へ出た。
一階へ下りると、玄関広間にはもう午後の柔らかい陽が差していた。けれどその光の中にも、今日の屋敷はよそよそしい。
下男が磨いたはずの銀の縁取りも、花瓶の白百合も、朝のまま整然としているのに、どこか息が合っていない。
父の書斎の扉は閉まっていた。軽く叩くと、中から短く「入れ」と返る。
重い扉を押し開けた瞬間、空気の違いが分かった。
大きな机、壁一面の書棚、窓際の長椅子、暖炉の上の時計。どれもいつも通りなのに、部屋の中央に置かれた応接用の椅子が、今日は少しだけ前へ出されている。
父は机の向こうではなく、窓と暖炉のあいだに立っていた。母は椅子に座っている。エレオノールはさらにその脇、半ば壁際に追いやられるような位置だった。
「座れ」
父に言われ、セリーヌは残っていた椅子へ腰を下ろした。その顔はもう、昼の怒りの熱を越えていた。
怒鳴る段階を過ぎ、代わりにもっと始末の悪い静けさへ移っている。母は午前より疲れて見えたが、それでも姿勢は崩していない。
エレオノールだけが、明らかに泣いたあとの目元をしていた。けれど泣いたからといって慰められる空気ではないことを、自分でも分かっているらしい。
机の上には、紙が三つ並んでいた。
一つは父の封蝋の箱。一つは、見慣れた庭の春の記録帳。そしてもう一つは、昼に父がベッリーニ家から持ち帰ったあの細い紙。
セリーヌは机の上を見ただけで、父がどこまで進んだかを理解した。
「庭番頭から話を聞いた」
父が言った。
その声音には、もう確認の色はほとんど無い。事実を積み上げる者の声だった。
「春の半ばから、マルコ・ベッリーニは庭側を使っていた。毎度ではないが、記録に残る程度には」
「……そうですか」
セリーヌが静かに返すと、父の目が一瞬だけこちらへ来た。だがすぐ母へ戻る。
「お前は『何かあるかもしれないとは思っていた』と言ったな」
「ええ」
「何を、どこまでだ」
母はすぐには答えなかった。
答えないその間に、エレオノールが息を浅くするのが分かる。自分のことを話されるのを待つ者の息だ。けれど止めることも出来ない。
「最初は、ただの思い違いかと」
やがて母が言う。
「温室のあたりで二人が話していると聞きました。でも、若い方同士ですもの、表では言いづらいこともあろうかと」
「婚約者の妹と、か」
父の返しは冷たかった。母の指先が膝の上でわずかに重なる。
「それが行き過ぎているなら、どこかで収めなければと思っておりました」
「収める」
「ええ。表へ出る前に」
「それで放っておいたのか」
「騒げば、家と家の縁まで壊れます」
母はそう言い切った。
その言葉が、この部屋ではもう言い訳にならないことを知りながら、それでもなおそこへ戻るしかないのだろう。
母にとっては、それが最後まで手放せない理屈なのだ。波立てないため。壊さないため。傷を大きくしないため。
そう言いながら、誰か一人へ静かに重みを載せ続けるやり方を、この人はずっと正しいと思ってきた。
父はしばらく黙っていた。
書斎の大きな窓の外では、風が少しだけ木を揺らしている。晴れてはいるが、昨日ほどではないにせよ、空気はまだ安定しきっていないらしい。葉の裏がちらちらと見える。
「ベッリーニ会頭は」
父がゆっくり言う。
「息子を呼び、確認すると言った」
「当然でしょうね」
母の声はかすかに乾いていた。
「当然?」
父がそこで初めて、わずかに笑うような顔をした。笑いではない。怒りがとりあえず収まった時に出る顔だった。
「私は本日、向こうへ別の話を持って行った」
「……」
「だが先方は、まずこの紙の確認が先だと言った。つまり、こちらが話を運ぶ側で行って、問い返される側で帰ってきたわけだ」
部屋の中の空気がさらに薄くなる。
エレオノールはその意味を完全には飲み込めていない顔だったが、「予定通りには進まなかった」ことだけははっきり分かっているらしい。目元にまた不安が濃くなる。
「お父様、でも……」
彼女がようやく口を開く。
「マルコは、私を――」
「黙れ」
父の一言は鋭く、エレオノールは口を閉ざし、背筋まで縮めた。
今この部屋で初めて、彼女は“可愛い妹”でも“華のある娘”でもなく、問題の中心に立たされている。
セリーヌはその様子を見ながら、胸の中に変な清々しさにも似たものが広がるのを感じていた。
痛みが消えたわけではない。けれど自分だけが処理する側ではない空気を、ようやく他の者たちも吸っているのだ。
「今日の時点で分かったのは三つだ」
父が言った。
「一つ、マルコは庭側から出入りしていた」
指を一本折る。
「二つ、それを家の中で全く知らなかったわけではない者がいる」
もう一本。
「三つ、誰かがその事実を私の名刺入れへ差し込んだ」
最後の一本は折らなかった。ただ、指先が机の細い紙を軽く叩く。
「この三つだ」
その列挙の仕方に、セリーヌは父らしさを見た。
怒りのまま喚くのではなく、事実の形に直して並べる。そうしてようやく、自分の掌へ戻せると信じる人だ。
けれど今日ばかりは、その三つが父の手にきれいには収まっていないことも分かった。
母はその紙を見ている。エレオノールは俯いている。
そして父は、最後の三つ目を誰へ向けているのか、まだ決めきれていない。
「……セリーヌ」
名前を呼ばれ、セリーヌは父へ視線を向けた。
「お前は、何か知っているか」
朝や昼の問いとは少し違った。
責めるより先に、今の父は“この娘はどこまで見ているのか”を測ろうとしている。知らない相手ではないと、もう薄々感じ始めているのだろう。
セリーヌはすぐには答えなかった。
書斎の中は静かだ。暖炉の上の時計の針だけが、場違いに穏やかな音を立てている。
「知っていることにも、色々ございますわ」
そう言うと、母の目が動いた。
父の視線はさらに鋭くなる。エレオノールは顔を上げた。
「例えば?」
父が促す中、セリーヌは机の上の春の記録帳へ視線を落とした。
「庭に面した場所は、家の方が思うよりずっと人の目がございます」
「……」
「表玄関でなければ見えないと、そうお思いだったなら違います」
母の指先が、そこで初めてわずかに震えた。
父は答えなかった。けれどその沈黙には、娘の言葉を軽くは扱えないという色が出ていた。
「お前は、それをいつから」
「さあ」
セリーヌは少しだけ首を傾げた。
「私も、ずっとこの家におりますから」
それは答えのようでいて、何も明かしてはいない。けれど父には、その曖昧さがかえって響いたようだった。
セリーヌは何か一つを偶然知ったのではない。ずっと見てきたのだと、その言い方は告げている。
母がそこでようやく言う。
「あなたは、私達を責めているの」
その声は強くなかった。疲れていて、どこか乾いたものだ。
責めているの、と問うていながら、その実すでに責められていることは分かっている人の声だった。
セリーヌは母を見た。
「責めれば、変わりましたか?」
静かな問いだった。その一言で、母は口を閉ざした。
エレオノールは目を見開く。父だけが、じっとセリーヌを見たままだった。
「お前は」
父の声は低い。
「何を望んでいる」
それはこの日初めて、まっすぐに向けられた問いだった。
――何を望んでいるのか。
婚約者を返してほしいのか。妹を罰したいのか。家を壊したいのか。自分でもまだ全部は言葉になっていない。
けれど、少なくとも昨日までのように黙って譲ることではない。それだけははっきりしていた。
セリーヌは少しだけ視線を落とし、それから答えた。
「せめて、何事もなかった顔ではいてほしくありませんわ」
その言葉が部屋へ落ちたあと、しばらく誰も動かなかった。
父の顔から、怒りとも困惑ともつかないものが少しずつ引いていく。
代わりに残ったのは、厄介なものの正体をようやく気付いた人の顔だった。
母は、まぶたを伏せた。エレオノールはその意味を測れずに、ただ息をひそめている。
――何事もなかった顔ではいてほしくない。
それは派手な復讐の宣言ではない。けれど、この家にはいちばん刺さる言葉だった。
なぜなら、彼らがずっと得意としてきたのが、その何事もなかった顔だったからだ。
外で、馬が短く鼻を鳴らした。厩のほうだろう。
午後の陽はまだ明るいのに、空のどこかにまた薄い雲が流れ始めているのが、窓の反射で分かった。
父がやがて、春の記録帳へ手を置いた。
「……今日はもう、誰もベッリーニ家へは行かせない」
その決定は短かった。けれど母の肩が、わずかに落ちた。諦めなのか安堵なのかは分からない。
エレオノールだけが、はっきりと青ざめる。話が止まるということの意味を、ようやく本能で感じたのだろう。
父はさらに言う。
「マルコからの使いが来ても、すぐには通すな」
「お父様……!」
エレオノールが思わず声を上げる。
「黙れと言ったはずだ」
父はもう彼女を見ない。そしてその行動がエレオノールには何よりも効いた。
これまでなら、父は最後には華やかな娘へ視線を戻した。
だが今はしない。
今目の前にいるのは可愛い娘ではなく、自分の顔へ泥を塗った問題の中心なのだ。
セリーヌはその空気の変わり方を、静かに吸い込んだ。
まだ終わってはいない。むしろ、ここからなのだろう。
けれど少なくとも、昨日の応接間で当然のように差し出された「譲れ」という言葉が戻ってくることはない。
昼すぎの騒ぎがひとまず収まったように見えても、実際には何ひとつ収まっていない。むしろ、いったん形を失ったものを、誰も同じ場所へ戻せずにいる時の静けさだった。
廊下を行く足音は朝より少ないのに、扉の開閉は妙に慎重で、呼び鈴の鳴り方だけが短く鋭い。
よく整った家ほど、ひびが入るとこういう音を立てるのだと、セリーヌは窓辺に立ちながら思った。
父は戻ってから一度も商会へ出直していないらしかった。
それだけで十分異常だった。午前の用向きがどう転んでも、午後の一定の時刻には帳場へ顔を出すのが父の習慣で、それを変える時はたいてい外へ見せたくない家の問題がある時だけだ。
自室の扉が叩かれたのは、その少しあとだった。
「お嬢様、旦那様が書斎へと」
マルトの声は平静だったが、いつもより低かった。家の気配を読んでいるのだろう。
セリーヌは振り返り、少しだけ顎を引く。
「今すぐ?」
「はい」
父の書斎。小書斎ではなく、本来は商会の大きな用向きや重要な客を通す、一階奥の重い部屋だ。
家族がそこへ呼ばれるのは珍しい。呼ばれる時は、たいてい家族としてではなく、何かの当事者として座らされる。
セリーヌは軽く身支度を整え、マルトを先に下がらせて廊下へ出た。
一階へ下りると、玄関広間にはもう午後の柔らかい陽が差していた。けれどその光の中にも、今日の屋敷はよそよそしい。
下男が磨いたはずの銀の縁取りも、花瓶の白百合も、朝のまま整然としているのに、どこか息が合っていない。
父の書斎の扉は閉まっていた。軽く叩くと、中から短く「入れ」と返る。
重い扉を押し開けた瞬間、空気の違いが分かった。
大きな机、壁一面の書棚、窓際の長椅子、暖炉の上の時計。どれもいつも通りなのに、部屋の中央に置かれた応接用の椅子が、今日は少しだけ前へ出されている。
父は机の向こうではなく、窓と暖炉のあいだに立っていた。母は椅子に座っている。エレオノールはさらにその脇、半ば壁際に追いやられるような位置だった。
「座れ」
父に言われ、セリーヌは残っていた椅子へ腰を下ろした。その顔はもう、昼の怒りの熱を越えていた。
怒鳴る段階を過ぎ、代わりにもっと始末の悪い静けさへ移っている。母は午前より疲れて見えたが、それでも姿勢は崩していない。
エレオノールだけが、明らかに泣いたあとの目元をしていた。けれど泣いたからといって慰められる空気ではないことを、自分でも分かっているらしい。
机の上には、紙が三つ並んでいた。
一つは父の封蝋の箱。一つは、見慣れた庭の春の記録帳。そしてもう一つは、昼に父がベッリーニ家から持ち帰ったあの細い紙。
セリーヌは机の上を見ただけで、父がどこまで進んだかを理解した。
「庭番頭から話を聞いた」
父が言った。
その声音には、もう確認の色はほとんど無い。事実を積み上げる者の声だった。
「春の半ばから、マルコ・ベッリーニは庭側を使っていた。毎度ではないが、記録に残る程度には」
「……そうですか」
セリーヌが静かに返すと、父の目が一瞬だけこちらへ来た。だがすぐ母へ戻る。
「お前は『何かあるかもしれないとは思っていた』と言ったな」
「ええ」
「何を、どこまでだ」
母はすぐには答えなかった。
答えないその間に、エレオノールが息を浅くするのが分かる。自分のことを話されるのを待つ者の息だ。けれど止めることも出来ない。
「最初は、ただの思い違いかと」
やがて母が言う。
「温室のあたりで二人が話していると聞きました。でも、若い方同士ですもの、表では言いづらいこともあろうかと」
「婚約者の妹と、か」
父の返しは冷たかった。母の指先が膝の上でわずかに重なる。
「それが行き過ぎているなら、どこかで収めなければと思っておりました」
「収める」
「ええ。表へ出る前に」
「それで放っておいたのか」
「騒げば、家と家の縁まで壊れます」
母はそう言い切った。
その言葉が、この部屋ではもう言い訳にならないことを知りながら、それでもなおそこへ戻るしかないのだろう。
母にとっては、それが最後まで手放せない理屈なのだ。波立てないため。壊さないため。傷を大きくしないため。
そう言いながら、誰か一人へ静かに重みを載せ続けるやり方を、この人はずっと正しいと思ってきた。
父はしばらく黙っていた。
書斎の大きな窓の外では、風が少しだけ木を揺らしている。晴れてはいるが、昨日ほどではないにせよ、空気はまだ安定しきっていないらしい。葉の裏がちらちらと見える。
「ベッリーニ会頭は」
父がゆっくり言う。
「息子を呼び、確認すると言った」
「当然でしょうね」
母の声はかすかに乾いていた。
「当然?」
父がそこで初めて、わずかに笑うような顔をした。笑いではない。怒りがとりあえず収まった時に出る顔だった。
「私は本日、向こうへ別の話を持って行った」
「……」
「だが先方は、まずこの紙の確認が先だと言った。つまり、こちらが話を運ぶ側で行って、問い返される側で帰ってきたわけだ」
部屋の中の空気がさらに薄くなる。
エレオノールはその意味を完全には飲み込めていない顔だったが、「予定通りには進まなかった」ことだけははっきり分かっているらしい。目元にまた不安が濃くなる。
「お父様、でも……」
彼女がようやく口を開く。
「マルコは、私を――」
「黙れ」
父の一言は鋭く、エレオノールは口を閉ざし、背筋まで縮めた。
今この部屋で初めて、彼女は“可愛い妹”でも“華のある娘”でもなく、問題の中心に立たされている。
セリーヌはその様子を見ながら、胸の中に変な清々しさにも似たものが広がるのを感じていた。
痛みが消えたわけではない。けれど自分だけが処理する側ではない空気を、ようやく他の者たちも吸っているのだ。
「今日の時点で分かったのは三つだ」
父が言った。
「一つ、マルコは庭側から出入りしていた」
指を一本折る。
「二つ、それを家の中で全く知らなかったわけではない者がいる」
もう一本。
「三つ、誰かがその事実を私の名刺入れへ差し込んだ」
最後の一本は折らなかった。ただ、指先が机の細い紙を軽く叩く。
「この三つだ」
その列挙の仕方に、セリーヌは父らしさを見た。
怒りのまま喚くのではなく、事実の形に直して並べる。そうしてようやく、自分の掌へ戻せると信じる人だ。
けれど今日ばかりは、その三つが父の手にきれいには収まっていないことも分かった。
母はその紙を見ている。エレオノールは俯いている。
そして父は、最後の三つ目を誰へ向けているのか、まだ決めきれていない。
「……セリーヌ」
名前を呼ばれ、セリーヌは父へ視線を向けた。
「お前は、何か知っているか」
朝や昼の問いとは少し違った。
責めるより先に、今の父は“この娘はどこまで見ているのか”を測ろうとしている。知らない相手ではないと、もう薄々感じ始めているのだろう。
セリーヌはすぐには答えなかった。
書斎の中は静かだ。暖炉の上の時計の針だけが、場違いに穏やかな音を立てている。
「知っていることにも、色々ございますわ」
そう言うと、母の目が動いた。
父の視線はさらに鋭くなる。エレオノールは顔を上げた。
「例えば?」
父が促す中、セリーヌは机の上の春の記録帳へ視線を落とした。
「庭に面した場所は、家の方が思うよりずっと人の目がございます」
「……」
「表玄関でなければ見えないと、そうお思いだったなら違います」
母の指先が、そこで初めてわずかに震えた。
父は答えなかった。けれどその沈黙には、娘の言葉を軽くは扱えないという色が出ていた。
「お前は、それをいつから」
「さあ」
セリーヌは少しだけ首を傾げた。
「私も、ずっとこの家におりますから」
それは答えのようでいて、何も明かしてはいない。けれど父には、その曖昧さがかえって響いたようだった。
セリーヌは何か一つを偶然知ったのではない。ずっと見てきたのだと、その言い方は告げている。
母がそこでようやく言う。
「あなたは、私達を責めているの」
その声は強くなかった。疲れていて、どこか乾いたものだ。
責めているの、と問うていながら、その実すでに責められていることは分かっている人の声だった。
セリーヌは母を見た。
「責めれば、変わりましたか?」
静かな問いだった。その一言で、母は口を閉ざした。
エレオノールは目を見開く。父だけが、じっとセリーヌを見たままだった。
「お前は」
父の声は低い。
「何を望んでいる」
それはこの日初めて、まっすぐに向けられた問いだった。
――何を望んでいるのか。
婚約者を返してほしいのか。妹を罰したいのか。家を壊したいのか。自分でもまだ全部は言葉になっていない。
けれど、少なくとも昨日までのように黙って譲ることではない。それだけははっきりしていた。
セリーヌは少しだけ視線を落とし、それから答えた。
「せめて、何事もなかった顔ではいてほしくありませんわ」
その言葉が部屋へ落ちたあと、しばらく誰も動かなかった。
父の顔から、怒りとも困惑ともつかないものが少しずつ引いていく。
代わりに残ったのは、厄介なものの正体をようやく気付いた人の顔だった。
母は、まぶたを伏せた。エレオノールはその意味を測れずに、ただ息をひそめている。
――何事もなかった顔ではいてほしくない。
それは派手な復讐の宣言ではない。けれど、この家にはいちばん刺さる言葉だった。
なぜなら、彼らがずっと得意としてきたのが、その何事もなかった顔だったからだ。
外で、馬が短く鼻を鳴らした。厩のほうだろう。
午後の陽はまだ明るいのに、空のどこかにまた薄い雲が流れ始めているのが、窓の反射で分かった。
父がやがて、春の記録帳へ手を置いた。
「……今日はもう、誰もベッリーニ家へは行かせない」
その決定は短かった。けれど母の肩が、わずかに落ちた。諦めなのか安堵なのかは分からない。
エレオノールだけが、はっきりと青ざめる。話が止まるということの意味を、ようやく本能で感じたのだろう。
父はさらに言う。
「マルコからの使いが来ても、すぐには通すな」
「お父様……!」
エレオノールが思わず声を上げる。
「黙れと言ったはずだ」
父はもう彼女を見ない。そしてその行動がエレオノールには何よりも効いた。
これまでなら、父は最後には華やかな娘へ視線を戻した。
だが今はしない。
今目の前にいるのは可愛い娘ではなく、自分の顔へ泥を塗った問題の中心なのだ。
セリーヌはその空気の変わり方を、静かに吸い込んだ。
まだ終わってはいない。むしろ、ここからなのだろう。
けれど少なくとも、昨日の応接間で当然のように差し出された「譲れ」という言葉が戻ってくることはない。
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