婚約者が妹に心変わり?では一刺しして家を捨てましょう。皆様、あとはご自由に。

さんけい

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32 出発

 夜明け前に目が覚めた時、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
 窓の外はまだ暗いが、真夜中の濃さではない。空の底がわずかに薄まり始めていて、夜と朝のあわいにある色が、レース越しに部屋へにじんでいた。
 燭台の火はとうに消えていた。残っているのは、寝台の布のぬくもりと、自分の胸の鼓動だけだった。

 ――来たのだ。

 セリーヌは思った。今日が。
 その実感は、昨日までの考えの続きではなく、もっと素朴に身体へ落ちてきた。
 起きなければならない。もう寝台に留まっている時間はない。そう分かると、眠気はすぐに引いた。
 静かに身を起こす。
 侍女を呼ばない朝など、本来ならありえない。けれどこの家では、ありえないことほど、人は最初のうち疑わない。
 少し寝坊したのだろう、少し気分が悪いのだろう、その程度の理由へ先に寄せる。そういう習いを、セリーヌはよく知っていた。
 昨夜まとめた布袋を取り出し、服を選ぶ。
 旅支度らしいものは避けた。町へ少し出る娘のように見える服。上等すぎず、粗末でもないもの。
 色も地味な青灰で、朝の薄暗さに紛れやすい。靴は音の出にくい柔らかなものにした。
 髪もきっちり結い上げず、後ろで低くまとめるだけにする。
 鏡の中の自分は、どこへでもいそうで、どこにもいない顔をしていた。
 そして机の上の便箋へ目をやる。昨夜置いたままの、短い紙。今さらそれを読み返す気にはならなかった。
 もう書いたことより、行くことのほうが本物だ。
 扉の前で一度だけ立ち止まる。

 ――この部屋へは、戻らないかもしれない。

 そう思っても、別れを惜しむような感傷は出てこなかった。ただ、長く息をひそめていた場所から、やっと自分の足で出るのだという静かな確かさだけがあった。
 扉を開けると、二階の廊下は、まだ夜のものだった。燭台の火は落ちていて、高窓の向こうにだけ薄い灰色がある。
 屋敷全体が眠っているわけではない。台所ではもう下働きが起きている時間かもしれないし、厩では誰かが馬の様子を見ているかもしれない。だが家族の階は静かだった。
 セリーヌは布袋を腕へ掛け、音を立てずに歩き出した。
 表階段は使わない。踊り場の大窓から入る朝の気配が、かえって人目を呼ぶからだ。
 談話室の前を過ぎ、lリネン室の脇へ出て、裏階段へ入る。
 ここは壁の匂いも、空気の冷たさも、表とは違う。洗いたての布、石鹸、木の古い匂い。子供の頃から、この階段を使う時だけは家の別の内側を歩いている気がした。
 一段ずつ下りていく。
 途中で、下のほうから物音がした。セリーヌはとっさに壁際へ寄る。
 だが現れたのは、炭の籠を抱えた下働きの娘だった。娘はまだ半分眠そうな顔で、暗い階段を上ってくる。
 視線が合った瞬間、少しだけ驚いた顔をした。

「お、お嬢様」
「早いのね」
「は、はい……台所へ」

 娘はそれだけ言って頭を下げた。
 こんな時間に令嬢が一人で裏階段にいることを不思議とは思っただろう。けれど、それを咎める立場ではない。
 むしろ、お嬢様にも色々あるのだろう、くらいの曖昧さで通り過ぎてくれる。
 こういう家の使われ方を、セリーヌはよく知っている。

「足元に気をつけて」

 それだけ言って先へ行かせると、娘はほっとしたように頷き、上へ消えた。
 一階へ着くと、勝手口へ続く石床は、夜の冷えを少し残していた。窓の外はもう黒ではなく、深い藍に変わっている。
 勝手口の鍵は、内側からなら簡単に開く。もともと朝早い荷の出入りのためにそう作られているのだ。
 扉を押すと、外の空気が頬へ触れた。
 冷たいというほどではない。むしろ春の名残を引いた柔らかな冷えだ。湿りを含んだ土の匂いと、遠くの水の匂いが混じっている。川が近い朝の空気だった。
 庭はまだ半分眠っている。
 温室の硝子は夜明け前の色を映し、白い石縁だけがぼんやりと形を持っていた。
 木々は風を待つみたいに静かで、鳥の声もまだ本格的には始まっていない。
 屋敷の裏手から川へ向かう細道は、昨日見た時よりずっと狭く見えた。夜の終わりという時間が、景色を少しだけ不確かにするのだろう。
 セリーヌは振り返らなかった。振り返れば、屋敷の窓のどれかに気を取られそうだったからだ。
 父も母も、エレオノールも、まだ眠っているかもしれないし、もう目を覚ましているかもしれない。
 けれど、そのどれも今は自分を呼び止めるものではない。そう思い定めて、細道へ足を向ける。
 庭番小屋の手前で、人影が動く。ジュリアンだった。
 昨日と同じく、待っていたようには見えない顔をしていた。肩には空の麻袋、手には小さなランタン。
 灯はごく弱く、足元だけを照らすくらいだ。母屋からは見えにくく、川へ下るには十分な明るさだった。

「おはようございます」

 その声は低く、朝の空気にちょうどよく馴染んでいた。

「おはよう」
「お一人で来られましたね」
「ええ」

 変な問いだと思いながらも、セリーヌは少しだけ息をついた。
 ここまで来たのだ。来られた。まだ誰にも止められていない。
 ジュリアンはその顔を見て、何も言わない。代わりに提灯を少し持ち上げ、細道の先を示した。

「川はまだ霧が薄いです。足元だけ気をつけて」
「舟は」
「来ています。二番目の舟がもう岸についています」
「早いのね」
「市場の日ですから」

 二人は並んで歩き出した。
 草の先が、靴にかすかに触れる。夜露だろう。
 朝の匂いが少しずつ濃くなり、下るほどに川の気配が近づく。
 上では家がまだ夜の内側にあるのに、こちらへ来ると世界はもう朝の支度を始めている。そういう境目が、少しだけ心地よかった。

「後ろは」

 セリーヌが小さく聞く。

「今のところ動いていません」
「そう」
「台所は起きていますが、二階はまだです」
「見ていたの」
「庭の人ですから」

 その返しに、セリーヌはほんの少しだけ口元をゆるめた。
 川へ下りる道は、朝の薄明かりの中では昨日より急に見える。石と土が混じり、ところどころに古い根が張り出している。
 ジュリアンは前を歩きすぎず、横にも立ちすぎず、ちょうど半歩だけ先でランタンを下げる。その距離が妙にありがたかった。
 やがて二人は船着き場へ着く。
 川はまだ朝の色を決めきれていない。灰と薄青のあいだを揺れていて、流れの上にだけかすかな白さが浮く。
 岸には二艘の舟が並んでいた。最初のほうはすでに野菜の籠や魚籠が積まれ、人足らしい男たちが慣れた顔で乗り込んでいる。
 二番目の舟はそれより小さく、荷も少ない。反物の包み、小さな木箱、籠を抱えた女が一人、それに教会町方面へ行くのか、若い修道女見習いのような娘が端に座っていた。
 船頭は昨日見た年嵩の男だ。
 こちらを見ると、ジュリアンと目だけで挨拶を交わし、それからセリーヌの布袋へ視線を落とした。詮索はしない。ただ、乗る者の数と荷の重さを目で量っている。

「お一人か?」

 低い声で言う。

「はい」
「中継の河岸まででいいな?」
「ええ」
「銀貨は先にもらうよ」

 ここでジュリアンが口を挟まないのが良かった。
 セリーヌは自分で小袋から銀貨を取り出し、船頭へ渡す。船頭は重さを指で確かめ、懐へ入れた。
 それで話は終わる。旅立ちというほど大げさなものではない。
 ただの朝の乗船として処理される。その素っ気なさが、今はありがたかった。
 舟へ乗る前に、セリーヌはふと立ち止まる。

 ――ここまで来た。来たのだ。

 その実感が、今になって波のように押し寄せる。
 怖い。わくわくしている。胸の奥が軽くなったようでもあり、足元だけ急に頼りなくなったようでもある。

「……戻れって、言わないのね」

 気づけば、ジュリアンにそう言っていた。彼はランタンを下げたまま、少しだけ首を傾ける。

「言ってほしかったですか」
「いいえ」
「でしたら」
「でも、少しは止めるかと思ったの」
「止まらないでしょう」

 あまりにあっさり言うので、セリーヌは少しだけ目を細めた。

「そう見える?」
「はい」

 それから彼は、少し間を置いた。

「止めるとしたら、昨日までにそうしていました」

 その言い方が、静かに胸へ落ちる。
 昨日までに。つまり、もう決めた人を朝の河岸で引き戻すのは違う、と彼は思っているのだ。
 そこにあるのは冷たさではなく、たぶん敬意に近い。

「……そう」

 セリーヌはそれだけ言った。……もっと色々言いたい気もした。
 ありがとう、でも足りない。さようなら、では変だ。
 戻ってきたら、は今の自分には言えない。言葉にしようとすると、どれも少しずつ違う。
 ジュリアンのほうも、たぶん同じだったのだろう。彼はただ、ランタンを少し横へずらして、舟へ乗る板の端を照らす。

「足元を」
「ええ」

 板へ足をかける。朝露で少しだけ湿っていたが、滑るほどではない。
 舟は小さく揺れ、その揺れが現実を一段だけ強くした。
 もう岸の人ではない。まだ岸から離れてはいないのに、その半歩だけで世界の位置が変わる。
 舟の中ほどへ座り、布袋を膝に置く。川の匂いが近い。水と木と、朝の湿った風の匂いだ。
 岸の上に立つジュリアンは、夜明けのあわいの中で少しだけ輪郭がぼやけている。それでも、その場にしっかり立っていることだけは分かった。

「教会町へ着いたら」

 彼が言う。

「西外れの仕立屋へ。名前は昨夜お伝えした通りです」
「ええ」
「もし途中で気が変わったら」
「変わらないわ」
「……でしょうね」

 そこで初めて、ほんの少しだけ口元がゆるむ。
 舟のへさきで船頭が棹を押した。岸から水の音が離れる。ほんの少しだった距離が、最初のひと押しで急に大きくなる。
 セリーヌはその揺れに身を任せながら、ようやく振り返った。
 屋敷は木立の向こうでまだ半分眠っている。温室の屋根がかすかに光り、三階建ての本館は朝の薄い色の中に溶けかけていた。
 大きくて、重くて、長く自分を中へ閉じ込めていたはずの家が、川から見ると妙に遠い。
 泣きたくはならなかった。代わりに、胸の中のどこかで長く張っていた糸が、静かにほどけていくのを感じた。
 岸から離れる舟の上で、セリーヌは自分の手をそっと握った。

 ――怖い。
 ――それでも、息がしやすい。

 その両方が、今の自分には確かだった。
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