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36 あの朝ヴァレール家では
セリーヌが川へ下ったその朝、ヴァレール家の二階では、最初のうち誰も異変に気づかなかった。
夜明けは薄曇りだった。晴れるつもりの空に、まだ決めきれない色の雲が細く残っている。
高窓から入る光はいつもより白く、廊下の壁紙の模様だけをぼんやり浮かび上がらせていた。
台所では下働きが火を起こし、厩では馬の世話が始まり、勝手口の石床には朝いちばんの水が撒かれる。大きな屋敷は、家族が目を覚ます前から半分ほど起きているものだ。
――セリーヌの部屋付きの侍女マルトが、いつもの時刻に二階へ上がってきたのは、朝食の支度が整い始めた頃だった。
盆には湯の入った水差し、薄い朝の上着、髪を整えるための小箱。
毎朝ほとんど同じ順で持ってくるものばかりだ。
廊下は静かで、エレオノールの部屋のほうからはまだ物音がしない。父も母も、起きていても部屋からは出てきていない時間だった。
マルトはセリーヌの扉の前で軽く息を整え、二度、控えめに叩いた。
「お嬢様、朝でございます」
返事はない。
珍しいことではなかった。眠りが浅い夜の翌朝などは、セリーヌはすぐ返事をせず、しばらくしてから静かに「入って」と言うこともあった。
だからマルトはもう一度だけ叩いた。
「お嬢様?」
やはり返事はない。そこで初めて、侍女は少しだけ眉を寄せた。
セリーヌは具合が悪くても、呼ばれれば何かしら答える人だ。眠り込んでいるにしても、今朝は妙に気配が薄い。
マルトは恐る恐る扉を押した。
鍵は掛かっていず、扉はあっさりと開いた。部屋の中は薄い朝の光に満ちていて、寝台の天蓋の縁だけがやわらかく白んでいる。
――そして、寝台は空だった。
シーツの乱れも少ない。誰かが慌てて起きた跡ではなく、夜のうちに静かに抜けた形だとひと目で分かる。
枕の沈みも浅い。まるで、きちんと寝たあとで起きた人の部屋のように整いすぎていた。
「……お嬢様?」
マルトは無意識にそう呼んで、部屋を見回した。
衣装部屋の扉は半ば開いている。化粧台の上には櫛と小瓶が残り、窓辺のレースもいつも通りだ。
けれど、人だけがいない。その不在の仕方が、ただ庭へ出たのとも違っていた。
机の上に、便箋が一枚置かれているのに気づいたのは、その時だった。
封もされず、重しもなく、ただいちばん見えるところへ置かれている。見つけてほしい紙の置き方だった。
マルトは咄嗟には触れられなかった。侍女であっても、主人の私的な紙へ勝手に手を出すのはためらわれる。
だが、この部屋の空っぽさと、その紙の置かれ方は、ためらいをそのままにはしてくれなかった。
指先で便箋を取ると、短い字が、見慣れた手で書かれていた。
――探さないでください。
――私は私のために出ます。
――今まで私が引き受けていたものまで、これからは当然と思わないでください。
そこまで読んだところで、マルトの喉の奥がひやりとした。意味を取り違えようがない。
――出たのだ。お嬢様は、自分の足で。
その時、廊下の向こうから女中頭が近づいてくる気配がした。
いつもなら「まだかしら」と軽く声をかけるだけの時間だ。だが開け放たれた扉と、侍女が紙を持ったまま立ち尽くす姿を見た瞬間、女中頭の顔色が変わった。
「どうしたの」
「……お嬢様が」
「具合でも――」
「いらっしゃいません……!」
その答えに、女中頭は部屋の中を一歩だけ見て、すぐマルトの手の紙へ視線を落とした。
「それは」
「机の上に」
「見せなさい」
紙を受け取り、読み、女中頭は一拍だけ目を閉じた。年を経た女が本気で困った時の、声を出さない沈黙だった。
「誰にも言わずに、奥様を」
そう言ってから、すぐに言い直す。
「……いいえ、旦那様も先に」
どちらを先に呼ぶべきか、一瞬で決めきれなかったのだろう。
母へだけ渡せば収めようとするかもしれない。父へだけ渡せば怒りで家じゅうをひっくり返すかもしれない。
どちらもあり得ると、この家の古い女中頭は知っている。
結局、二人とも起こされた。
父が二階へ上がってきた時には、上着も着きらず、髪もまだ朝の乱れを少し残していた。
母はその後ろから、顔だけは整えたまま上がってくる。だがその整い方に、既にどこか険しいものが混じっていた。
「何事だ」
父の声は、最初から低かった。
女中頭が紙を差し出す。父はそれを受け取り、立ったまま読む。
読み終わるまでの時間は短かったはずなのに、部屋の中ではやけに長く感じられた。
母はそのあいだ、寝台と机と、半ば開いた衣装部屋とを順に見ていた。
物の位置を見る人の目だった。感情より先に、何がどれだけ動いているかを確かめる目。
「……これは何だ」
読み終えた父が言った。問いというより、言葉が追いついていない時の声だった。
母が紙を受け取る。今度は、読む前から顔色が変わっている。読めばさらに変わると分かっている人の手つきだった。
「探さないでください、ですって」
母が低く読む。
「私は私のために出ます――」
そこまでで声が止まる。母は最後の一行を声に出さず、目だけで追った。
――今まで私が引き受けていたものまで、これからは当然と思わないでください。
その一文が、母にはいちばん深く刺さったらしかった。
「……いつからいない?」
父が侍女へ向き直る。マルトは震えそうになるのをこらえながら答えた。
「今朝、お起こしに参りました時には、もう……」
「昨夜は」
「いつもよりお早くお休みになりました」
「誰か見た者は」
「下働きの娘が、夜明け前に裏階段で……」
女中頭がそこで引き取る。
炭の籠を持った娘が令嬢を見かけたこと。だがその娘は「少し早起きなさったのだと」としか思わなかったこと。
勝手口の鍵は内から開いていたが、朝の出入りと紛れて確かな時刻までは分からないこと。
父の顔が、聞くたびに少しずつ硬くなる。
母はまだ紙を持ったままだった。セリーヌの字を見ているのではない。最後の一行だけを、頭の中で何度も読み返しているようだった。
「探さないでください、だと」
父が繰り返した。
「探さぬわけがあるか」
「あなた」
母がそこで初めて口を開く。
「今すぐ家じゅうへ大騒ぎを広げるのはおやめください」
「広げるなと?」
「ええ。娘が出たと町へ知れれば、それだけで噂になります」
その言い方が、父の怒りにさらに油を注いだ。
「では放っておけと言うのか?」
「そうではありません。まず何を持って行ったか、どこから出たか、どこまで行ける支度だったかを見なければ」
「今はそれどころでは」
「それを見ずにどう探すのです」
母の声も、いつもより一段低かった。整えてはいるが、もう余裕ではない。
父は怒りで動きたい。母は現実で絞りたい。
その違いが、狭い部屋の空気をさらに悪くする。
結局、母のほうが先に動いた。衣装部屋へ入り、箱を開け、引き出しを確かめる。
セリーヌの衣装は大きくは減っていない。だが小粒の真珠の箱の中が一つぶん軽い。
耳飾りも、普段使わない細いものが消えている。化粧台の脇の小銭入れも空だ。
「派手には持ち出していないわ」
母が言う。
「あの子は本気で隠れる気です」
「……」
父は答えない。答えないが、その沈黙がひどく重い。
「馬車ではないわね」
母が続ける。
「馬車なら門番や御者の目に入る。荷も無い。歩きか、小さな舟か……」
その言葉で、父の目が動いた。
「川か」
「街外れですもの」
「庭側から出たのなら、あり得る」
「ええ」
部屋の中で、河岸へ通じる裏の道の記憶が、同時にいくつかの頭へ浮かんだようだった。
父も母もあの道を知っている。けれどそれを日常の動線としてよく見ていたかといえば、そうではない。
エレオノールが部屋へ駆け込んできたのは、その時だった。髪はほどけかけ、顔色は昨日よりさらに悪い。
廊下の騒ぎで起きたのだろう。扉のところで立ち止まり、部屋の空気をひと目で読んだ顔になる。
「……お姉様……が?」
誰もすぐには答えなかった。母が持っている紙と、空の寝台と、父の顔。
その三つを見るだけで十分だったのだろう。妹の顔から、眠気は完全に消えた。
「……どこへ」
「分からないわ」
母が言う。慰めるでもなく、責めるでもない声だった。
それがかえってエレオノールにはきつかったらしい。
「どうして……」
「今はそんなことを言っている場合ではない」
父が切った。その一言で、エレオノールは唇を閉ざした。泣きそうな顔をしている。
だが、泣いても今は誰もそれを受け止めてはくれない。
セリーヌの部屋の中で、四人のあいだに妙な静けさが落ちた。
いなくなったのだ。あの静かな姉が。
泣きもせず、喚きもせず、必要なものだけ持って、自分の足で。
その事実が、ようやく部屋の中の誰にも同じ重さで落ち始めていた。
父はやがて紙を取り上げ、最後の一行をもう一度見た。
――今まで私が引き受けていたものまで、これからは当然と思わないでください。
顔が変わる。怒りとも、屈辱とも、別のものともつかない色が一瞬だけ混じった。
「……女中頭」
「はい」
「家じゅうへはまだ広げるな。表にも“お嬢様はお休み”で通せ」
「かしこまりました」
「ただし、河岸へ人をやれ。目立たぬ者を」
「はい」
「帳場にも知らせるな。私が後で言う」
命じながら、父はもう商会の会頭の顔へ戻り始めていた。
娘が消えた朝でさえ、まず外聞を整える。それがこの人なのだと、母もエレオノールも、そしていないセリーヌも、たぶん誰より知っている。
母はその横顔を見て、何も言わなかった。ただ、机の上に残された短い紙を、もう一度だけ見る。
セリーヌの字は乱れていない。夜のうちに静かに書かれた字だ。
感情のまま飛び出したのではない。考えた上で出たのだと、それだけは嫌でも分かる。
母はそのことを、父より深く理解したのかもしれない。
だからこそ、顔色が少しだけ悪くなっていた。
探せば見つかる娘ではないかもしれない、と。そう思ってしまった人の表情だった。
夜明けは薄曇りだった。晴れるつもりの空に、まだ決めきれない色の雲が細く残っている。
高窓から入る光はいつもより白く、廊下の壁紙の模様だけをぼんやり浮かび上がらせていた。
台所では下働きが火を起こし、厩では馬の世話が始まり、勝手口の石床には朝いちばんの水が撒かれる。大きな屋敷は、家族が目を覚ます前から半分ほど起きているものだ。
――セリーヌの部屋付きの侍女マルトが、いつもの時刻に二階へ上がってきたのは、朝食の支度が整い始めた頃だった。
盆には湯の入った水差し、薄い朝の上着、髪を整えるための小箱。
毎朝ほとんど同じ順で持ってくるものばかりだ。
廊下は静かで、エレオノールの部屋のほうからはまだ物音がしない。父も母も、起きていても部屋からは出てきていない時間だった。
マルトはセリーヌの扉の前で軽く息を整え、二度、控えめに叩いた。
「お嬢様、朝でございます」
返事はない。
珍しいことではなかった。眠りが浅い夜の翌朝などは、セリーヌはすぐ返事をせず、しばらくしてから静かに「入って」と言うこともあった。
だからマルトはもう一度だけ叩いた。
「お嬢様?」
やはり返事はない。そこで初めて、侍女は少しだけ眉を寄せた。
セリーヌは具合が悪くても、呼ばれれば何かしら答える人だ。眠り込んでいるにしても、今朝は妙に気配が薄い。
マルトは恐る恐る扉を押した。
鍵は掛かっていず、扉はあっさりと開いた。部屋の中は薄い朝の光に満ちていて、寝台の天蓋の縁だけがやわらかく白んでいる。
――そして、寝台は空だった。
シーツの乱れも少ない。誰かが慌てて起きた跡ではなく、夜のうちに静かに抜けた形だとひと目で分かる。
枕の沈みも浅い。まるで、きちんと寝たあとで起きた人の部屋のように整いすぎていた。
「……お嬢様?」
マルトは無意識にそう呼んで、部屋を見回した。
衣装部屋の扉は半ば開いている。化粧台の上には櫛と小瓶が残り、窓辺のレースもいつも通りだ。
けれど、人だけがいない。その不在の仕方が、ただ庭へ出たのとも違っていた。
机の上に、便箋が一枚置かれているのに気づいたのは、その時だった。
封もされず、重しもなく、ただいちばん見えるところへ置かれている。見つけてほしい紙の置き方だった。
マルトは咄嗟には触れられなかった。侍女であっても、主人の私的な紙へ勝手に手を出すのはためらわれる。
だが、この部屋の空っぽさと、その紙の置かれ方は、ためらいをそのままにはしてくれなかった。
指先で便箋を取ると、短い字が、見慣れた手で書かれていた。
――探さないでください。
――私は私のために出ます。
――今まで私が引き受けていたものまで、これからは当然と思わないでください。
そこまで読んだところで、マルトの喉の奥がひやりとした。意味を取り違えようがない。
――出たのだ。お嬢様は、自分の足で。
その時、廊下の向こうから女中頭が近づいてくる気配がした。
いつもなら「まだかしら」と軽く声をかけるだけの時間だ。だが開け放たれた扉と、侍女が紙を持ったまま立ち尽くす姿を見た瞬間、女中頭の顔色が変わった。
「どうしたの」
「……お嬢様が」
「具合でも――」
「いらっしゃいません……!」
その答えに、女中頭は部屋の中を一歩だけ見て、すぐマルトの手の紙へ視線を落とした。
「それは」
「机の上に」
「見せなさい」
紙を受け取り、読み、女中頭は一拍だけ目を閉じた。年を経た女が本気で困った時の、声を出さない沈黙だった。
「誰にも言わずに、奥様を」
そう言ってから、すぐに言い直す。
「……いいえ、旦那様も先に」
どちらを先に呼ぶべきか、一瞬で決めきれなかったのだろう。
母へだけ渡せば収めようとするかもしれない。父へだけ渡せば怒りで家じゅうをひっくり返すかもしれない。
どちらもあり得ると、この家の古い女中頭は知っている。
結局、二人とも起こされた。
父が二階へ上がってきた時には、上着も着きらず、髪もまだ朝の乱れを少し残していた。
母はその後ろから、顔だけは整えたまま上がってくる。だがその整い方に、既にどこか険しいものが混じっていた。
「何事だ」
父の声は、最初から低かった。
女中頭が紙を差し出す。父はそれを受け取り、立ったまま読む。
読み終わるまでの時間は短かったはずなのに、部屋の中ではやけに長く感じられた。
母はそのあいだ、寝台と机と、半ば開いた衣装部屋とを順に見ていた。
物の位置を見る人の目だった。感情より先に、何がどれだけ動いているかを確かめる目。
「……これは何だ」
読み終えた父が言った。問いというより、言葉が追いついていない時の声だった。
母が紙を受け取る。今度は、読む前から顔色が変わっている。読めばさらに変わると分かっている人の手つきだった。
「探さないでください、ですって」
母が低く読む。
「私は私のために出ます――」
そこまでで声が止まる。母は最後の一行を声に出さず、目だけで追った。
――今まで私が引き受けていたものまで、これからは当然と思わないでください。
その一文が、母にはいちばん深く刺さったらしかった。
「……いつからいない?」
父が侍女へ向き直る。マルトは震えそうになるのをこらえながら答えた。
「今朝、お起こしに参りました時には、もう……」
「昨夜は」
「いつもよりお早くお休みになりました」
「誰か見た者は」
「下働きの娘が、夜明け前に裏階段で……」
女中頭がそこで引き取る。
炭の籠を持った娘が令嬢を見かけたこと。だがその娘は「少し早起きなさったのだと」としか思わなかったこと。
勝手口の鍵は内から開いていたが、朝の出入りと紛れて確かな時刻までは分からないこと。
父の顔が、聞くたびに少しずつ硬くなる。
母はまだ紙を持ったままだった。セリーヌの字を見ているのではない。最後の一行だけを、頭の中で何度も読み返しているようだった。
「探さないでください、だと」
父が繰り返した。
「探さぬわけがあるか」
「あなた」
母がそこで初めて口を開く。
「今すぐ家じゅうへ大騒ぎを広げるのはおやめください」
「広げるなと?」
「ええ。娘が出たと町へ知れれば、それだけで噂になります」
その言い方が、父の怒りにさらに油を注いだ。
「では放っておけと言うのか?」
「そうではありません。まず何を持って行ったか、どこから出たか、どこまで行ける支度だったかを見なければ」
「今はそれどころでは」
「それを見ずにどう探すのです」
母の声も、いつもより一段低かった。整えてはいるが、もう余裕ではない。
父は怒りで動きたい。母は現実で絞りたい。
その違いが、狭い部屋の空気をさらに悪くする。
結局、母のほうが先に動いた。衣装部屋へ入り、箱を開け、引き出しを確かめる。
セリーヌの衣装は大きくは減っていない。だが小粒の真珠の箱の中が一つぶん軽い。
耳飾りも、普段使わない細いものが消えている。化粧台の脇の小銭入れも空だ。
「派手には持ち出していないわ」
母が言う。
「あの子は本気で隠れる気です」
「……」
父は答えない。答えないが、その沈黙がひどく重い。
「馬車ではないわね」
母が続ける。
「馬車なら門番や御者の目に入る。荷も無い。歩きか、小さな舟か……」
その言葉で、父の目が動いた。
「川か」
「街外れですもの」
「庭側から出たのなら、あり得る」
「ええ」
部屋の中で、河岸へ通じる裏の道の記憶が、同時にいくつかの頭へ浮かんだようだった。
父も母もあの道を知っている。けれどそれを日常の動線としてよく見ていたかといえば、そうではない。
エレオノールが部屋へ駆け込んできたのは、その時だった。髪はほどけかけ、顔色は昨日よりさらに悪い。
廊下の騒ぎで起きたのだろう。扉のところで立ち止まり、部屋の空気をひと目で読んだ顔になる。
「……お姉様……が?」
誰もすぐには答えなかった。母が持っている紙と、空の寝台と、父の顔。
その三つを見るだけで十分だったのだろう。妹の顔から、眠気は完全に消えた。
「……どこへ」
「分からないわ」
母が言う。慰めるでもなく、責めるでもない声だった。
それがかえってエレオノールにはきつかったらしい。
「どうして……」
「今はそんなことを言っている場合ではない」
父が切った。その一言で、エレオノールは唇を閉ざした。泣きそうな顔をしている。
だが、泣いても今は誰もそれを受け止めてはくれない。
セリーヌの部屋の中で、四人のあいだに妙な静けさが落ちた。
いなくなったのだ。あの静かな姉が。
泣きもせず、喚きもせず、必要なものだけ持って、自分の足で。
その事実が、ようやく部屋の中の誰にも同じ重さで落ち始めていた。
父はやがて紙を取り上げ、最後の一行をもう一度見た。
――今まで私が引き受けていたものまで、これからは当然と思わないでください。
顔が変わる。怒りとも、屈辱とも、別のものともつかない色が一瞬だけ混じった。
「……女中頭」
「はい」
「家じゅうへはまだ広げるな。表にも“お嬢様はお休み”で通せ」
「かしこまりました」
「ただし、河岸へ人をやれ。目立たぬ者を」
「はい」
「帳場にも知らせるな。私が後で言う」
命じながら、父はもう商会の会頭の顔へ戻り始めていた。
娘が消えた朝でさえ、まず外聞を整える。それがこの人なのだと、母もエレオノールも、そしていないセリーヌも、たぶん誰より知っている。
母はその横顔を見て、何も言わなかった。ただ、机の上に残された短い紙を、もう一度だけ見る。
セリーヌの字は乱れていない。夜のうちに静かに書かれた字だ。
感情のまま飛び出したのではない。考えた上で出たのだと、それだけは嫌でも分かる。
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だからこそ、顔色が少しだけ悪くなっていた。
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