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59 何一つ戻らない
エレオノールが連れ戻されたあと、南の倉にはひどく妙な静けさが残った。
雨は夜半までには上がった。だが荷場の板はまだ濡れていて、崩れた木箱の跡だけが、夕立の騒ぎが本当にあったのだと教えていた。
乾物の小口は番人と人足たちが夜のうちにより分け、傷んだ分と無事な分を分けてある。大きな損ではない。けれど、その“大きな損ではない”が、かえって始末の悪い種類の傷だった。
荷は片づく。帳面もつけ直せる。
だが、見た者の目と口は片づかない。
マルコは、その夜の後半をほとんど眠れずに過ごした。
番人用の狭い寝台へ横になっても、板壁の向こうの気配ばかりが耳に入る。人足たちが小声で何か言い合う声。雨だれの落ちる音。遠くの川が、夕立のあとの水を少しだけ増して流れる気配。
そして、時々ひどく鮮やかに戻ってくる、荷場の端で見たエレオノールの姿。
汗で崩れた髪。泥のついた裾。向いていないのに意地だけでここまで来た顔。
そして「私は、向いてないのに来たのよ」と言った時の、あのひりつくような目。
あんなふう彼女が見たのは初めてだった。
温室の陰で会っていた頃のエレオノールは、華やかで、少し勝気で、こちらを選んだことに自信があった。だから自分も、その熱に気を良くしていたのだろう。だが、
南の倉へ来た彼女はまったく違っていた。綺麗ではなかった。可愛らしくもなかった。
ただ疲れて、暑さにやられ、泥に汚れ、それでも来た人間の顔をしていた。
そのことが、マルコには重かった。
嬉しくなかったわけではない。来てくれたのだと、胸のどこかではたしかに熱くなった。
だがその次の瞬間には、現実が来た。
どうして来た。来てはいけなかった。困る。事故。両家。
あの温度差は、エレオノールを傷つけただろう。それも、嫌になるほど分かっていた。
翌朝、アルド会頭は南の倉へそのまま残った。
夜のうちにヴァレール家へ次女の身柄を返し、最低限の損傷確認を済ませたあとも、そのまま朝までここへいると決めたのだろう。父が番人用の別室で仮眠を取ったこと自体、南の倉では滅多にないことだった。
日が高くなる前に、マルコは呼ばれた。
昨日の夕立が嘘のように、朝は晴れていた。空だけがやたら青く、ぬかるみの残る地面との対比がきつい。
荷場はもう半分ほどいつもの顔へ戻っているが、板の端の泥の跡だけが、昨夜を消しきれていなかった。
帳場机のある部屋へ入ると、父だけではなく、ヴィットーリオまで来ていた。
兄は朝のうちに本家から馬を飛ばしてきたらしい。上着はきちんとしているが、顔だけが少し寝不足の色をしている。
母――ベッリーニ夫人は来ていなかった。その不在が、今日ここで話されることの質をよく示していた。
慰めも取りなしもない。残るのは父と長男と、当人だけだ。
「座れ」
父が言う。マルコは椅子へ腰を下ろした。
右の腕にうっすら擦り傷があり、動かすと少し突っ張る。だがそれはどうでもよかった。部屋の空気のほうがよほど痛い。
しばらく、誰も口を開かなかった。外では人足が荷を数える声がする。あまり大きくないその声が、かえって部屋の沈黙を際立たせた。
「まず」
父が口を開く。
「荷の損傷は小さい。そこはまだいい」
「……はい」
「小さいからこそ、余計に腹が立つ」
「……」
声は低い。怒鳴りはしない。だがその怒りの芯が、前よりはっきりしているのが分かった。
「大事故なら、まだ外へ言いようもある。だが今回は違う。次女殿がここへ来た。その場で荷を崩し、夕立の中で両家が駆けつけた」
「はい」
「これをお前は何と呼ぶ?」
マルコは答えられなかった。
恋のもつれ。若い者の過ち。どれも違う。
違うのに、他の言葉もすぐには出ない。
「答えろ」
ヴィットーリオが低く言う。
「……不始末です」
「誰の」
「私の」
「だけか」
兄の問いに、喉が詰まる。
自分だけではない。エレオノールも来た。両家も。
天気も悪かった。荷場の板も濡れていた。
そういう言い訳はいくらでも浮かぶ。
けれど今ここでそれを口にすれば、自分は本当に終わると思った。
「私が、止めるべきでした」
ようやくそう言う。
「それでも足りん」
父は言った。マルコは顔を上げる。
「止めるべき、ではない。来させるようなところまで行かせてしまったのがまず一つ。電報を受けて待ったのが一つ。荷場でまともに人を退けられなかったのが一つ」
「……」
「その全部だ」
それを一つずつ数えられると、自分でも逃げ場がなくなる。たしかにそうだ。
電報を受けた時点で、誰かへ先に打つことも出来たかもしれない。番人へ言って、荷場に人目の少ない場所を作ることも出来たかもしれない。あるいは倉の手前で追い返すことすら。
だが実際には、何も出来なかった。来る、と知った瞬間の熱に、自分でも足元を取られていたからだ。
「お前はまだ」
ヴィットーリオが言う。
「気持ちの話と現実の話を、同じ場へ並べて処理出来ると思っている」
「そんなことは」
「思っていないなら、荷場へ彼女を入れない」
「……」
「しかも電報を受けたあとだ。偶然ではない。準備が足りなかった、とも言える。だが足りなかったということ自体が問題なんだ」
兄の言葉は容赦がなかった。けれど、その容赦のなさの奥に、昨日よりはわずかに別の色も混じっている気がした。
怒りだけではない。弟の浅さを、いよいよ本気で見切らねばならぬ時の、苦さに近いものだ。
「ヴァレール家の次女は、あそこまでして来た」
父が言う。
「そのことを、私は軽く見るつもりはない」
「父上」
「だが、お前がそれをそのまま受け取るのは、もっと駄目だ」
マルコは息を止めた。
「来てくれた、ではない」
父は続ける。
「来るしかないところまで若い娘を追い込んだ、その上で来させた、だ」
「……」
「そこに少しでも酔っているなら、今のお前は人としても商人としても駄目だ」
その一言が、ひどく真っ直ぐに刺さった。
酔っている。たしかに、一瞬そうだった。
電報を読んだ瞬間、嬉しかった。こんなところまで来るほど、自分を思っているのだと。その熱があった。
今も完全に無いとは言えない。だが、それを父の口からこう切られると、自分の胸の浅いところがむき出しになるようで、マルコは何も言えなくなった。
「……私は」
ようやく絞り出す。
「エレオノールを、軽く見ていたわけでは」
「では何だ」
父の声は静かだ。
「君は彼女を“愛のほうへ来てくれる女”として見ていた」
ヴィットーリオが言う。
「でも昨日、君の前に現れたのは、“暑さも道も向いていないのに、意地だけでここまで来た女”だ」
「……」
「その違いに、君は自分で追いつけていなかった」
そこまで言われると、反論のしようがない。
まさにその通りだったからだ。荷場に現れたエレオノールは、温室の陰にいた彼女とは別人みたいだった。
それでも同じ人間なのだと、見た瞬間に分からされて、こちらだけが遅れた。
……そして、その遅れが、彼女を傷つけた。
マルコはそこで初めて、前日から胸に残っていた痛みの正体を少しだけ言葉に出来た気がした。
「……あの時、私は」
低く言う。
「彼女を見て、困ったんです」
「知っている」
父が即座に言う。
「顔に出ていた」
「はい」
「そしてそれが、次女殿には見えた」
「……はい」
外の人足の声が、一瞬だけ止んだ。荷の数えが一区切りついたのだろう。
その静けさが、部屋の中の恥を余計に際立たせた。
「もう一つ」
ヴィットーリオが言う。
「セリーヌ嬢の件だ」
その名が出た瞬間、マルコの肩がごくわずかに強張った。
「君は昨日、次女殿の前で、どこかまだ“白紙の後の話”をしていたんじゃないか」
「……」
「だが本当は、白紙の前にすでに終わっていたものがある」
「兄上」
「長女との婚約だ」
その言葉に、部屋の空気がまた少し変わった。セリーヌ。
その名はここしばらく、家の話し合いでは出ても、こうして弟を刺すために出されることは少なかった。
けれど本来、あの家とこの家のあいだで最初に結ばれていたのは、セリーヌとの婚約だ。
その土台の上で、次女との熱だけを育てた。そして長女は、出た。出ていってしまった。
「お前はあの人が出るまで、たぶん本当には見ていなかった」
ヴィットーリオが低く言う。
「昨日の件で次女殿に温度差が出たのも、根は同じだ。目の前の熱を見て、足元の静かなものを見ない」
「……」
「セリーヌ嬢の時も、次女殿の時も」
マルコは膝の上で手を握る。兄は正しい。それが、いちばんつらい。
セリーヌの静けさを、自分は聞き分けの良さだと思った。エレオノールの熱を、まっすぐな愛だと思った。
けれどどちらも、都合よく見ていたのは自分のほうだった。
「……戻せませんね」
気づけば、そう呟いていた。
父も兄も、すぐには返事をしない。その沈黙が、肯定みたいなものだった。
「何をだ」
やがて父が問う。その問いは、優しくも厳しくもなかった。
ただ、本人に言葉にさせるための問いだ。
マルコは少し考えた。何を、戻せないのか。
「……全部です」
やっと言う。
「セリーヌ嬢とのことも」
「……」
「エレオノールとのことも、たぶん前みたいには」
「前みたいに、とは」
兄が問う。
「温室の陰で会っていた頃みたいには、です」
それを口にした時、ようやく自分でもその言葉の幼さが分かった。
温室の陰。前みたいに。
そんなものは、もうどこにもない。
「ようやく分かったか」
ヴィットーリオが言う。皮肉でもなく、ただ確認する声だった。
父はしばらく息子を見ていたが、やがて机の上の控えへ目を落とした。
「南の倉は、そのまま続けろ」
「……」
「期間は延ばす」
その一言に、マルコは顔を上げた。
「父上」
「驚くことか」
「ですが」
「昨日の件で短くなるとでも思ったのなら、まだ甘い」
当然だった。むしろ延びないほうがおかしい。
荷の現場で物損まで出した以上、処分が軽くなる理由は一つもない。
「秋の終わりまでは戻すつもりはない」
そう続ける。
「そこで荷と帳面と人足の顔を、今度こそ覚えろ」
「……はい」
「そして、次に町へ戻る頃には、昨日のような顔で女を迎えるな」
「父上」
「気持ちがあるなら、それを現実の中で立たせるだけの頭と手を持て。持てないなら、最初から触るな」
その言葉は、父親の説教というより、会頭としての最後通告に近かった。
マルコはしばらく俯いたまま動けなかった。
秋の終わり。まだ夏も深まりきっていないのに、その先までここへ置かれる。
エレオノールとも会えないだろう。セリーヌは、もうどこにいるかも分からない。
家へ戻っても、以前の位置には立てない。
戻せない。さっき自分で口にしたその言葉が、今度はもっとはっきり、身体の中へ沈んでいく。
ヴィットーリオが最後に言った。
「お前は昨日、ようやく現実に直面したんだ」
「……」
「遅いが、会わないまま歳を取るよりはましだ」
「それで、何か変わりますか」
思わずそう返すと、兄は少しだけ目を細めた。
「変わるかどうかは、これからお前が何を覚えるか次第だ」
「……」
「ただ少なくとも、前のままではいられない」
「……はい」
その「はい」は、南へ来たばかりの頃より、少しだけ重かった。
父も兄も、それ以上は言わなかった。もう言葉は十分だったのだろう。
あとは荷と帳面と暑さが、毎日同じことを繰り返し教えるだけだ。
部屋を出ると、昼の陽が高かった。昨日の雨の名残はぬかるみにだけ残り、空は皮肉みたいによく晴れている。
人足たちはもう仕事へ戻っていた。崩れた箱のことなど、口にしながらも手は止めない。荷は待ってくれないからだ。
マルコは荷場の端へ立ち、少しだけ目を閉じた。
温室の陰も。白紙の前も。セリーヌの静かな顔も。エレオノールが根性で来たあの熱も。
何一つ、以前の位置へは戻らない。
夏の熱気の中で、そのことだけが、妙に澄んで分かった。
雨は夜半までには上がった。だが荷場の板はまだ濡れていて、崩れた木箱の跡だけが、夕立の騒ぎが本当にあったのだと教えていた。
乾物の小口は番人と人足たちが夜のうちにより分け、傷んだ分と無事な分を分けてある。大きな損ではない。けれど、その“大きな損ではない”が、かえって始末の悪い種類の傷だった。
荷は片づく。帳面もつけ直せる。
だが、見た者の目と口は片づかない。
マルコは、その夜の後半をほとんど眠れずに過ごした。
番人用の狭い寝台へ横になっても、板壁の向こうの気配ばかりが耳に入る。人足たちが小声で何か言い合う声。雨だれの落ちる音。遠くの川が、夕立のあとの水を少しだけ増して流れる気配。
そして、時々ひどく鮮やかに戻ってくる、荷場の端で見たエレオノールの姿。
汗で崩れた髪。泥のついた裾。向いていないのに意地だけでここまで来た顔。
そして「私は、向いてないのに来たのよ」と言った時の、あのひりつくような目。
あんなふう彼女が見たのは初めてだった。
温室の陰で会っていた頃のエレオノールは、華やかで、少し勝気で、こちらを選んだことに自信があった。だから自分も、その熱に気を良くしていたのだろう。だが、
南の倉へ来た彼女はまったく違っていた。綺麗ではなかった。可愛らしくもなかった。
ただ疲れて、暑さにやられ、泥に汚れ、それでも来た人間の顔をしていた。
そのことが、マルコには重かった。
嬉しくなかったわけではない。来てくれたのだと、胸のどこかではたしかに熱くなった。
だがその次の瞬間には、現実が来た。
どうして来た。来てはいけなかった。困る。事故。両家。
あの温度差は、エレオノールを傷つけただろう。それも、嫌になるほど分かっていた。
翌朝、アルド会頭は南の倉へそのまま残った。
夜のうちにヴァレール家へ次女の身柄を返し、最低限の損傷確認を済ませたあとも、そのまま朝までここへいると決めたのだろう。父が番人用の別室で仮眠を取ったこと自体、南の倉では滅多にないことだった。
日が高くなる前に、マルコは呼ばれた。
昨日の夕立が嘘のように、朝は晴れていた。空だけがやたら青く、ぬかるみの残る地面との対比がきつい。
荷場はもう半分ほどいつもの顔へ戻っているが、板の端の泥の跡だけが、昨夜を消しきれていなかった。
帳場机のある部屋へ入ると、父だけではなく、ヴィットーリオまで来ていた。
兄は朝のうちに本家から馬を飛ばしてきたらしい。上着はきちんとしているが、顔だけが少し寝不足の色をしている。
母――ベッリーニ夫人は来ていなかった。その不在が、今日ここで話されることの質をよく示していた。
慰めも取りなしもない。残るのは父と長男と、当人だけだ。
「座れ」
父が言う。マルコは椅子へ腰を下ろした。
右の腕にうっすら擦り傷があり、動かすと少し突っ張る。だがそれはどうでもよかった。部屋の空気のほうがよほど痛い。
しばらく、誰も口を開かなかった。外では人足が荷を数える声がする。あまり大きくないその声が、かえって部屋の沈黙を際立たせた。
「まず」
父が口を開く。
「荷の損傷は小さい。そこはまだいい」
「……はい」
「小さいからこそ、余計に腹が立つ」
「……」
声は低い。怒鳴りはしない。だがその怒りの芯が、前よりはっきりしているのが分かった。
「大事故なら、まだ外へ言いようもある。だが今回は違う。次女殿がここへ来た。その場で荷を崩し、夕立の中で両家が駆けつけた」
「はい」
「これをお前は何と呼ぶ?」
マルコは答えられなかった。
恋のもつれ。若い者の過ち。どれも違う。
違うのに、他の言葉もすぐには出ない。
「答えろ」
ヴィットーリオが低く言う。
「……不始末です」
「誰の」
「私の」
「だけか」
兄の問いに、喉が詰まる。
自分だけではない。エレオノールも来た。両家も。
天気も悪かった。荷場の板も濡れていた。
そういう言い訳はいくらでも浮かぶ。
けれど今ここでそれを口にすれば、自分は本当に終わると思った。
「私が、止めるべきでした」
ようやくそう言う。
「それでも足りん」
父は言った。マルコは顔を上げる。
「止めるべき、ではない。来させるようなところまで行かせてしまったのがまず一つ。電報を受けて待ったのが一つ。荷場でまともに人を退けられなかったのが一つ」
「……」
「その全部だ」
それを一つずつ数えられると、自分でも逃げ場がなくなる。たしかにそうだ。
電報を受けた時点で、誰かへ先に打つことも出来たかもしれない。番人へ言って、荷場に人目の少ない場所を作ることも出来たかもしれない。あるいは倉の手前で追い返すことすら。
だが実際には、何も出来なかった。来る、と知った瞬間の熱に、自分でも足元を取られていたからだ。
「お前はまだ」
ヴィットーリオが言う。
「気持ちの話と現実の話を、同じ場へ並べて処理出来ると思っている」
「そんなことは」
「思っていないなら、荷場へ彼女を入れない」
「……」
「しかも電報を受けたあとだ。偶然ではない。準備が足りなかった、とも言える。だが足りなかったということ自体が問題なんだ」
兄の言葉は容赦がなかった。けれど、その容赦のなさの奥に、昨日よりはわずかに別の色も混じっている気がした。
怒りだけではない。弟の浅さを、いよいよ本気で見切らねばならぬ時の、苦さに近いものだ。
「ヴァレール家の次女は、あそこまでして来た」
父が言う。
「そのことを、私は軽く見るつもりはない」
「父上」
「だが、お前がそれをそのまま受け取るのは、もっと駄目だ」
マルコは息を止めた。
「来てくれた、ではない」
父は続ける。
「来るしかないところまで若い娘を追い込んだ、その上で来させた、だ」
「……」
「そこに少しでも酔っているなら、今のお前は人としても商人としても駄目だ」
その一言が、ひどく真っ直ぐに刺さった。
酔っている。たしかに、一瞬そうだった。
電報を読んだ瞬間、嬉しかった。こんなところまで来るほど、自分を思っているのだと。その熱があった。
今も完全に無いとは言えない。だが、それを父の口からこう切られると、自分の胸の浅いところがむき出しになるようで、マルコは何も言えなくなった。
「……私は」
ようやく絞り出す。
「エレオノールを、軽く見ていたわけでは」
「では何だ」
父の声は静かだ。
「君は彼女を“愛のほうへ来てくれる女”として見ていた」
ヴィットーリオが言う。
「でも昨日、君の前に現れたのは、“暑さも道も向いていないのに、意地だけでここまで来た女”だ」
「……」
「その違いに、君は自分で追いつけていなかった」
そこまで言われると、反論のしようがない。
まさにその通りだったからだ。荷場に現れたエレオノールは、温室の陰にいた彼女とは別人みたいだった。
それでも同じ人間なのだと、見た瞬間に分からされて、こちらだけが遅れた。
……そして、その遅れが、彼女を傷つけた。
マルコはそこで初めて、前日から胸に残っていた痛みの正体を少しだけ言葉に出来た気がした。
「……あの時、私は」
低く言う。
「彼女を見て、困ったんです」
「知っている」
父が即座に言う。
「顔に出ていた」
「はい」
「そしてそれが、次女殿には見えた」
「……はい」
外の人足の声が、一瞬だけ止んだ。荷の数えが一区切りついたのだろう。
その静けさが、部屋の中の恥を余計に際立たせた。
「もう一つ」
ヴィットーリオが言う。
「セリーヌ嬢の件だ」
その名が出た瞬間、マルコの肩がごくわずかに強張った。
「君は昨日、次女殿の前で、どこかまだ“白紙の後の話”をしていたんじゃないか」
「……」
「だが本当は、白紙の前にすでに終わっていたものがある」
「兄上」
「長女との婚約だ」
その言葉に、部屋の空気がまた少し変わった。セリーヌ。
その名はここしばらく、家の話し合いでは出ても、こうして弟を刺すために出されることは少なかった。
けれど本来、あの家とこの家のあいだで最初に結ばれていたのは、セリーヌとの婚約だ。
その土台の上で、次女との熱だけを育てた。そして長女は、出た。出ていってしまった。
「お前はあの人が出るまで、たぶん本当には見ていなかった」
ヴィットーリオが低く言う。
「昨日の件で次女殿に温度差が出たのも、根は同じだ。目の前の熱を見て、足元の静かなものを見ない」
「……」
「セリーヌ嬢の時も、次女殿の時も」
マルコは膝の上で手を握る。兄は正しい。それが、いちばんつらい。
セリーヌの静けさを、自分は聞き分けの良さだと思った。エレオノールの熱を、まっすぐな愛だと思った。
けれどどちらも、都合よく見ていたのは自分のほうだった。
「……戻せませんね」
気づけば、そう呟いていた。
父も兄も、すぐには返事をしない。その沈黙が、肯定みたいなものだった。
「何をだ」
やがて父が問う。その問いは、優しくも厳しくもなかった。
ただ、本人に言葉にさせるための問いだ。
マルコは少し考えた。何を、戻せないのか。
「……全部です」
やっと言う。
「セリーヌ嬢とのことも」
「……」
「エレオノールとのことも、たぶん前みたいには」
「前みたいに、とは」
兄が問う。
「温室の陰で会っていた頃みたいには、です」
それを口にした時、ようやく自分でもその言葉の幼さが分かった。
温室の陰。前みたいに。
そんなものは、もうどこにもない。
「ようやく分かったか」
ヴィットーリオが言う。皮肉でもなく、ただ確認する声だった。
父はしばらく息子を見ていたが、やがて机の上の控えへ目を落とした。
「南の倉は、そのまま続けろ」
「……」
「期間は延ばす」
その一言に、マルコは顔を上げた。
「父上」
「驚くことか」
「ですが」
「昨日の件で短くなるとでも思ったのなら、まだ甘い」
当然だった。むしろ延びないほうがおかしい。
荷の現場で物損まで出した以上、処分が軽くなる理由は一つもない。
「秋の終わりまでは戻すつもりはない」
そう続ける。
「そこで荷と帳面と人足の顔を、今度こそ覚えろ」
「……はい」
「そして、次に町へ戻る頃には、昨日のような顔で女を迎えるな」
「父上」
「気持ちがあるなら、それを現実の中で立たせるだけの頭と手を持て。持てないなら、最初から触るな」
その言葉は、父親の説教というより、会頭としての最後通告に近かった。
マルコはしばらく俯いたまま動けなかった。
秋の終わり。まだ夏も深まりきっていないのに、その先までここへ置かれる。
エレオノールとも会えないだろう。セリーヌは、もうどこにいるかも分からない。
家へ戻っても、以前の位置には立てない。
戻せない。さっき自分で口にしたその言葉が、今度はもっとはっきり、身体の中へ沈んでいく。
ヴィットーリオが最後に言った。
「お前は昨日、ようやく現実に直面したんだ」
「……」
「遅いが、会わないまま歳を取るよりはましだ」
「それで、何か変わりますか」
思わずそう返すと、兄は少しだけ目を細めた。
「変わるかどうかは、これからお前が何を覚えるか次第だ」
「……」
「ただ少なくとも、前のままではいられない」
「……はい」
その「はい」は、南へ来たばかりの頃より、少しだけ重かった。
父も兄も、それ以上は言わなかった。もう言葉は十分だったのだろう。
あとは荷と帳面と暑さが、毎日同じことを繰り返し教えるだけだ。
部屋を出ると、昼の陽が高かった。昨日の雨の名残はぬかるみにだけ残り、空は皮肉みたいによく晴れている。
人足たちはもう仕事へ戻っていた。崩れた箱のことなど、口にしながらも手は止めない。荷は待ってくれないからだ。
マルコは荷場の端へ立ち、少しだけ目を閉じた。
温室の陰も。白紙の前も。セリーヌの静かな顔も。エレオノールが根性で来たあの熱も。
何一つ、以前の位置へは戻らない。
夏の熱気の中で、そのことだけが、妙に澄んで分かった。
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