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1 呆れた!
呆れた! どうしようもなく呆れたわ!
私たち、貴族に生まれて政略結婚ですもの、浮気も一つならまあ、多少見逃してもよかったのよ。
だけど……
まあいいわ。せっかくだからきっちり思い知らせてやりましょうか。
そう決めた瞬間、私は目の前の帳簿を閉じた。
◇
私の名は、ナタリア・ヴァレンティン。二十八歳。
ヴァレンティン子爵家に嫁いで七年、六つになる娘と四つになる息子に恵まれ、実家から持参した染織と装飾品の事業も、いまのところは順調――だった。
少なくとも、去年までは。
私の実家、ローデン伯爵家は領地経営よりも工房と商会に強い家だ。
娘である私には婚資として王都の工房と取引口の一部が与えられ、それを婚姻後も私の管理下に置くことは、最初から契約で定められていた。
夫のレオンハルトは子爵家当主としてその後ろ盾を得、代わりに事業の補佐と対外折衝を担う。
それが、この七年の形だった。
だから息子が生まれた時点で、家の継承に何の不安もなくなった。
ヴァレンティン子爵位を継ぐのは、私の産んだ正嫡の息子だけ。
あの夫がどこで誰に夢を見せようと、その順序が揺らぐことはない。
――はずだった。
◇
「奥様」
とある日、静かに声をかけてきたのは、帳場を預かる老執事のグレゴール。
私が視線を向けると、彼は机の上にもう一冊、薄い補助帳簿を差し出してきた。
「こちらが、この一年の臨時支出を抜き出したものです」
「見舞金、貸付、急ぎの仕立て代、輸送事故の詫び料……」
「名目はばらばらですが、流れ先が妙に偏っております」
開いて、私は鼻で笑った。
あまりにも小賢しい。
大きな額を一度ではなく、少額を何度も。しかも別々の名目で散らしてある。
けれど帳簿を七年見てきた女にはわかる。
これは商売の金の動きじゃない。
誰か一人、あるいは数人の女に、こそこそ貢いだ痕だ。
「最初は工房の下の者かと思いました」とグレゴールが言う。
「ですが旦那様は、支払先の薬舗と仕立屋を、ことごとくご自分で指定しておられます」
薬舗、ねえ。
ふと私は、ひとりの女の顔を思い出した。
第三工房の監督補佐、三十歳のヘルミーナ。
仕事はできるし口も堅い。既婚者で、夫が長く病床にあることも知っている。
……去年の秋頃から、夫が妙に彼女を気にかけているとは思っていた。
気の毒な事情の部下に少し肩入れしたところで、最初は構わないと思っていたのだ。
まさかその“見舞い”を、私の帳場から捻出しているとはね。
「そう言えば、その薬舗、ヘルミーナの夫の主治医が出入りしていたはずじゃなくて?」
「左様です」
「……なるほど。一人目はあの女なのね」
一人目、と口にしてから、私は自分で少し笑った。
本当に嫌になる。一人と決めつけられない時点で、もう充分すぎるほどクズだ。
けれど同時に、胸の内はすうっと冷えていった。
そして自分に言い聞かせる。
――怒りで目を曇らせてはだめ。
――こういう男は、泣いて責めても効かない。効くのは、逃げ道を一本ずつ塞ぐことだけだ。
「グレゴール。ヘルミーナの近辺を静かに洗ってちょうだい。夫の病状、最近増えた持ち物、旦那様が出入りした時刻。全部」
「承知いたしました」
「それと――旦那様の執務机の鍵、今夜のうちに合鍵を」
老執事は一礼し、まるで当然の命令であるかのように部屋を出て行った。
そう、まずは一人目から。
何人かわからないが、まあ一人であるより、かえってやりやすい。
あの男はきっと、同じ嘘を少しずつ言い換えながら、女たちのあいだを渡り歩いていたのだろう。
ならば逆に、その嘘同士をぶつけてやればいい。
私はもう一度帳簿を開き、細い金の流れを指で追った。
見舞金。貸付。特別手当。
そして、見慣れない若い令嬢向けの宝飾店の請求書。
……あら。
さて、ここから始めましょうか。
私たち、貴族に生まれて政略結婚ですもの、浮気も一つならまあ、多少見逃してもよかったのよ。
だけど……
まあいいわ。せっかくだからきっちり思い知らせてやりましょうか。
そう決めた瞬間、私は目の前の帳簿を閉じた。
◇
私の名は、ナタリア・ヴァレンティン。二十八歳。
ヴァレンティン子爵家に嫁いで七年、六つになる娘と四つになる息子に恵まれ、実家から持参した染織と装飾品の事業も、いまのところは順調――だった。
少なくとも、去年までは。
私の実家、ローデン伯爵家は領地経営よりも工房と商会に強い家だ。
娘である私には婚資として王都の工房と取引口の一部が与えられ、それを婚姻後も私の管理下に置くことは、最初から契約で定められていた。
夫のレオンハルトは子爵家当主としてその後ろ盾を得、代わりに事業の補佐と対外折衝を担う。
それが、この七年の形だった。
だから息子が生まれた時点で、家の継承に何の不安もなくなった。
ヴァレンティン子爵位を継ぐのは、私の産んだ正嫡の息子だけ。
あの夫がどこで誰に夢を見せようと、その順序が揺らぐことはない。
――はずだった。
◇
「奥様」
とある日、静かに声をかけてきたのは、帳場を預かる老執事のグレゴール。
私が視線を向けると、彼は机の上にもう一冊、薄い補助帳簿を差し出してきた。
「こちらが、この一年の臨時支出を抜き出したものです」
「見舞金、貸付、急ぎの仕立て代、輸送事故の詫び料……」
「名目はばらばらですが、流れ先が妙に偏っております」
開いて、私は鼻で笑った。
あまりにも小賢しい。
大きな額を一度ではなく、少額を何度も。しかも別々の名目で散らしてある。
けれど帳簿を七年見てきた女にはわかる。
これは商売の金の動きじゃない。
誰か一人、あるいは数人の女に、こそこそ貢いだ痕だ。
「最初は工房の下の者かと思いました」とグレゴールが言う。
「ですが旦那様は、支払先の薬舗と仕立屋を、ことごとくご自分で指定しておられます」
薬舗、ねえ。
ふと私は、ひとりの女の顔を思い出した。
第三工房の監督補佐、三十歳のヘルミーナ。
仕事はできるし口も堅い。既婚者で、夫が長く病床にあることも知っている。
……去年の秋頃から、夫が妙に彼女を気にかけているとは思っていた。
気の毒な事情の部下に少し肩入れしたところで、最初は構わないと思っていたのだ。
まさかその“見舞い”を、私の帳場から捻出しているとはね。
「そう言えば、その薬舗、ヘルミーナの夫の主治医が出入りしていたはずじゃなくて?」
「左様です」
「……なるほど。一人目はあの女なのね」
一人目、と口にしてから、私は自分で少し笑った。
本当に嫌になる。一人と決めつけられない時点で、もう充分すぎるほどクズだ。
けれど同時に、胸の内はすうっと冷えていった。
そして自分に言い聞かせる。
――怒りで目を曇らせてはだめ。
――こういう男は、泣いて責めても効かない。効くのは、逃げ道を一本ずつ塞ぐことだけだ。
「グレゴール。ヘルミーナの近辺を静かに洗ってちょうだい。夫の病状、最近増えた持ち物、旦那様が出入りした時刻。全部」
「承知いたしました」
「それと――旦那様の執務机の鍵、今夜のうちに合鍵を」
老執事は一礼し、まるで当然の命令であるかのように部屋を出て行った。
そう、まずは一人目から。
何人かわからないが、まあ一人であるより、かえってやりやすい。
あの男はきっと、同じ嘘を少しずつ言い換えながら、女たちのあいだを渡り歩いていたのだろう。
ならば逆に、その嘘同士をぶつけてやればいい。
私はもう一度帳簿を開き、細い金の流れを指で追った。
見舞金。貸付。特別手当。
そして、見慣れない若い令嬢向けの宝飾店の請求書。
……あら。
さて、ここから始めましょうか。
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