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27 リディア・フェルナー③
「あなた、私のものが欲しかったのね」
その言葉に、リディアは思わず顔を上げた。
違う。いや、違うわけではない。
でも、そんなふうに簡単に言わないでほしかった。
もっと複雑で、もっと長いものだった。
持っている者の無自覚さに、何年も少しずつ削られてきた結果なのだ。
「あなたは昔から何でも持っていたでしょう」
気づけば、口が動いていた。
「家も、仕事も、子どもも、立場も」
そう。
それは本音だった。
夫だけが欲しかったわけではない。
むしろレオンハルトそのものには、もうそれほど価値はない。
今こうして広間の真ん中で青ざめて立っている姿を見れば、なおさらだ。
欲しかったのは、ナタリアの位置だ。
朝、子どもに呼ばれる声。食卓の上座。帳場の鍵が置かれる机。
女主人として自然に見上げられる空気。
あの女が当たり前のように持っているもの全部。
でもナタリアは、それを一言で切った。
「盗む、ですって」
「ええ、盗みよ。欲しいものを他人の家から順に奪おうとするのは、恋じゃなくて泥棒だわ」
泥棒。
その言葉は、思ったより深く刺さった。
だって少なくとも、リディア自身の中では、これはもっとましなものだったからだ。
正されるべき配置換えみたいな。何でも持っている女から、少しだけ零れてもいいはずのものを受け取るような。
そういう話だと、自分に言い聞かせていた。
でも違ったのだろう。ナタリアの目には、最初からそう見えていたのだ。
その時、隣でレオンハルトが間の抜けた声を出した。
「リディア……君は、私を……」
思わず、胸の底から冷たい笑いが込み上げた。
――この男、まだ自分が問題の中心だと思っているの。
だからリディアは、ほとんど反射で言った。
「あなたなんて、ただの入口でしょう」
言ってから、少しだけ気分がよかった。
せめてそれくらいは、本人にわからせてやりたかった。
広間の空気が変わる。
でももう、そこを取り繕う意味はない。ここまで来たら、何を言っても同じだ。
ナタリアが印章と鍵を取り上げ、工房からレオンハルトを切り離し、自分の持参財産への関与停止を宣言した時、リディアはただ立っていた。
離縁を求めたレオンハルトに、ナタリアが笑った時。
「そんなもの、今のあなたには救いでしょう」
と言った時。その一言で、すべてが本当に終わった気がした。
――ああ、そうか。
――この女は、最後まで強いのではない。強く見せるために、一番効くところを選んで切れる女なのだ。
離縁しない。
それはレオンハルトへの罰であると同時に、リディアへの宣告でもあった。
あなたには、ここへ入る余地など一生ない、と。
乾杯が起こった時、リディアは杯を持てなかった。
誰も近づいてこない。
さっきまで笑って挨拶をしていた女たちが、目を合わせない。
男たちの視線は、露骨に値踏みするものへ変わっている。
未亡人。友人の夫と通じ、若い娘を脅し、家へ出入りし、子どもたちにまで手を伸ばした女。
そういうものとして見られているのが、ひしひしとわかった。
広間の隅へ下がりながら、リディアは初めて、自分の手が震えているのに気づいた。
悔しい。恥ずかしい。腹が立つ。
でも、いちばん強かったのは、別の感情だった。
――羨ましい。
こんな時でさえ、ナタリアは中心に立っている。
夫の不始末を暴き、自分の家も仕事も守り、嫡子の位置も揺るがせず、最後には人々の杯まで集める。
やっぱり、あの女は全部持っている。
全部持っているくせに、最後まで落ちない。それが、たまらなく憎かった。
だからこそ、リディアはようやく理解した。
自分はレオンハルトが欲しかったのではない。
あの男を奪えたところで、きっと足りなかった。
子どもたちも、家も、帳場も、名前も、全部欲しかった。
ナタリアが当たり前のように持っている“場所”そのものが欲しかったのだ。
でも、その場所は手に入らない。ナタリアが立っている限り。
あの女があの顔で、平然と人前に立ち続ける限り。
乾杯の音がまだ響く中、リディアは広間の端で静かに立ち尽くした。
さっきまで自分が座ることを夢見ていた椅子は、もうひどく遠い。
そしてその遠さを、ナタリアはきっと最初から知っていた。
――盗みよ。
あの一言が、頭の奥で何度も響いた。
その言葉に、リディアは思わず顔を上げた。
違う。いや、違うわけではない。
でも、そんなふうに簡単に言わないでほしかった。
もっと複雑で、もっと長いものだった。
持っている者の無自覚さに、何年も少しずつ削られてきた結果なのだ。
「あなたは昔から何でも持っていたでしょう」
気づけば、口が動いていた。
「家も、仕事も、子どもも、立場も」
そう。
それは本音だった。
夫だけが欲しかったわけではない。
むしろレオンハルトそのものには、もうそれほど価値はない。
今こうして広間の真ん中で青ざめて立っている姿を見れば、なおさらだ。
欲しかったのは、ナタリアの位置だ。
朝、子どもに呼ばれる声。食卓の上座。帳場の鍵が置かれる机。
女主人として自然に見上げられる空気。
あの女が当たり前のように持っているもの全部。
でもナタリアは、それを一言で切った。
「盗む、ですって」
「ええ、盗みよ。欲しいものを他人の家から順に奪おうとするのは、恋じゃなくて泥棒だわ」
泥棒。
その言葉は、思ったより深く刺さった。
だって少なくとも、リディア自身の中では、これはもっとましなものだったからだ。
正されるべき配置換えみたいな。何でも持っている女から、少しだけ零れてもいいはずのものを受け取るような。
そういう話だと、自分に言い聞かせていた。
でも違ったのだろう。ナタリアの目には、最初からそう見えていたのだ。
その時、隣でレオンハルトが間の抜けた声を出した。
「リディア……君は、私を……」
思わず、胸の底から冷たい笑いが込み上げた。
――この男、まだ自分が問題の中心だと思っているの。
だからリディアは、ほとんど反射で言った。
「あなたなんて、ただの入口でしょう」
言ってから、少しだけ気分がよかった。
せめてそれくらいは、本人にわからせてやりたかった。
広間の空気が変わる。
でももう、そこを取り繕う意味はない。ここまで来たら、何を言っても同じだ。
ナタリアが印章と鍵を取り上げ、工房からレオンハルトを切り離し、自分の持参財産への関与停止を宣言した時、リディアはただ立っていた。
離縁を求めたレオンハルトに、ナタリアが笑った時。
「そんなもの、今のあなたには救いでしょう」
と言った時。その一言で、すべてが本当に終わった気がした。
――ああ、そうか。
――この女は、最後まで強いのではない。強く見せるために、一番効くところを選んで切れる女なのだ。
離縁しない。
それはレオンハルトへの罰であると同時に、リディアへの宣告でもあった。
あなたには、ここへ入る余地など一生ない、と。
乾杯が起こった時、リディアは杯を持てなかった。
誰も近づいてこない。
さっきまで笑って挨拶をしていた女たちが、目を合わせない。
男たちの視線は、露骨に値踏みするものへ変わっている。
未亡人。友人の夫と通じ、若い娘を脅し、家へ出入りし、子どもたちにまで手を伸ばした女。
そういうものとして見られているのが、ひしひしとわかった。
広間の隅へ下がりながら、リディアは初めて、自分の手が震えているのに気づいた。
悔しい。恥ずかしい。腹が立つ。
でも、いちばん強かったのは、別の感情だった。
――羨ましい。
こんな時でさえ、ナタリアは中心に立っている。
夫の不始末を暴き、自分の家も仕事も守り、嫡子の位置も揺るがせず、最後には人々の杯まで集める。
やっぱり、あの女は全部持っている。
全部持っているくせに、最後まで落ちない。それが、たまらなく憎かった。
だからこそ、リディアはようやく理解した。
自分はレオンハルトが欲しかったのではない。
あの男を奪えたところで、きっと足りなかった。
子どもたちも、家も、帳場も、名前も、全部欲しかった。
ナタリアが当たり前のように持っている“場所”そのものが欲しかったのだ。
でも、その場所は手に入らない。ナタリアが立っている限り。
あの女があの顔で、平然と人前に立ち続ける限り。
乾杯の音がまだ響く中、リディアは広間の端で静かに立ち尽くした。
さっきまで自分が座ることを夢見ていた椅子は、もうひどく遠い。
そしてその遠さを、ナタリアはきっと最初から知っていた。
――盗みよ。
あの一言が、頭の奥で何度も響いた。
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