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2 まず、赤ん坊を眠らせる
「お嬢様、確認いたします」
家令のグレイヴスが、扉の前で背筋を伸ばす。
「馬を一頭。フェンウィック伯爵家へ早馬。宛先はフェンウィック伯爵閣下と、ジェイ様。内容は」
「長男クリストファー様が、エルフォード子爵夫人シャーリーンと共に出奔。エルフォード子爵家として事実確認と協力を求める。至急」
「承知いたしました」
「それからメアリーを呼んで。今夜からこの子を見てくれる人が要る。乳母は明日もう一人。夜番も一人。子供部屋の支度を整えて」
「奥様は」
グレイヴスの口がそこで止まる。
奥様。
この家では、今朝までその言葉はシャーリーンを指していた。
兄がぽつりと呟く。
「もう、そう呼ばなくていい」
その声があまりに静かだったので、私は甥を抱く腕に少し力を入れた。
赤ん坊は眠りかけている。こんな騒ぎの中でも、まぶたが重そうに落ちていく。まだ何も知らない。
母親が乳母を下がらせ、自分を父の腕に残し、甘ったるい香りの手紙一枚を置いて出て行ったことなど、知るはずがない。
「グレイヴス」
「はい」
「奥様ではなく、シャーリーン様でいいわ。まだ離縁は成立していないけれど、この家の女主人として扱う必要はない」
「承知いたしました」
グレイヴスは一度だけ頭を下げ、すぐ廊下へ出る。その足音が遠ざかる前に、別の足音がばたばたと近づいてきた。
「お嬢様!」
侍女のルーシーだ。髪を結う途中だったのか、額に細い房が落ちている。
「ルーシー、毛布を。あと湯を少し。子供部屋へ行くわ」
「はい! あの、奥……」
彼女もそこで詰まる。
「シャーリーン様は出て行ったわ」
「え」
「クリス様と」
ルーシーの手から、持っていた白い布が落ちる。
「拾って。今はそれどころじゃない」
「は、はい!」
ルーシーは慌てて布を拾う。兄が椅子から立とうとするので、私は目だけで止めた。
「兄さんは座っていて」
「だが」
「立ち上がるたびに顔色が悪くなる人が、赤ん坊を見られると思う?」
兄は黙る。眼鏡の片側はまだずれている。
気になる。とても気になる。
甥を片腕で抱き直し、空いた手で兄の眼鏡をそっと外す。柔らかい布はない。
仕方なく自分の袖口で、片方についた小さな涙の跡を拭く。
兄のものか。赤ん坊のものか。どちらでも腹が立つ。
眼鏡を掛け直すと、兄が小さく笑った。
「すまない」
「今は謝らないで」
「ああ」
「謝るのは、あの二人よ」
兄の喉がわずかに動く。それでも何も言わない。
私は甥を抱いて、書斎を出る。
廊下には既に人が集まり始めている。料理長、下働きの少女、庭師の息子、洗濯女まで顔を出している。
皆、何か言いたげだ。けれど誰も大きな声は出さない。
赤ん坊が眠りかけているのを見て、自然に声を落としている。
「子供部屋へ行くわ。ルーシー、先に暖炉を見て。火が弱ければ足して」
「はい」
「料理長、兄さんに温かいものを。スープでいい。酒は駄目」
「承知しました」
「トム。馬は」
「旦那様の栗毛ならすぐ出せます」
「伯爵家への早馬に使って。もう一頭、私用に。長く走れる馬」
庭師のトムは一瞬だけ目を大きくする。
「お嬢様が行かれるんで?」
「行くわ」
「では、灰毛のベスを。気性は荒いですが、足はあります」
「お願い」
トムはもう走りだしていた。
この家は大きくはない。伯爵家のような格式もない。けれど、動く時は早い。
父母が亡くなった時、兄はまだ二十歳だった。私は八歳。
領地の者達は、若い子爵を頼りないと思ったはずだ。実際、兄は頼りなかった。
初めての小作人との面談で、兄は緊張しすぎて、出された茶を三杯も飲んだ。帰ってから腹を壊し、寝込んだ。
それでも兄は逃げなかった。毎日机に向かい、毎日人の話を聞き、毎日少しずつ覚えていった。
強い声で命じる人ではない。けれど、誰の言葉も途中で切らない人だ。だから皆、兄を見捨てなかった。
その兄を、シャーリーンは退屈だと言った。
本当の愛。女として生きたい。
赤ん坊を置いていく人が、ずいぶん綺麗な言葉を選んだものだ。
家令のグレイヴスが、扉の前で背筋を伸ばす。
「馬を一頭。フェンウィック伯爵家へ早馬。宛先はフェンウィック伯爵閣下と、ジェイ様。内容は」
「長男クリストファー様が、エルフォード子爵夫人シャーリーンと共に出奔。エルフォード子爵家として事実確認と協力を求める。至急」
「承知いたしました」
「それからメアリーを呼んで。今夜からこの子を見てくれる人が要る。乳母は明日もう一人。夜番も一人。子供部屋の支度を整えて」
「奥様は」
グレイヴスの口がそこで止まる。
奥様。
この家では、今朝までその言葉はシャーリーンを指していた。
兄がぽつりと呟く。
「もう、そう呼ばなくていい」
その声があまりに静かだったので、私は甥を抱く腕に少し力を入れた。
赤ん坊は眠りかけている。こんな騒ぎの中でも、まぶたが重そうに落ちていく。まだ何も知らない。
母親が乳母を下がらせ、自分を父の腕に残し、甘ったるい香りの手紙一枚を置いて出て行ったことなど、知るはずがない。
「グレイヴス」
「はい」
「奥様ではなく、シャーリーン様でいいわ。まだ離縁は成立していないけれど、この家の女主人として扱う必要はない」
「承知いたしました」
グレイヴスは一度だけ頭を下げ、すぐ廊下へ出る。その足音が遠ざかる前に、別の足音がばたばたと近づいてきた。
「お嬢様!」
侍女のルーシーだ。髪を結う途中だったのか、額に細い房が落ちている。
「ルーシー、毛布を。あと湯を少し。子供部屋へ行くわ」
「はい! あの、奥……」
彼女もそこで詰まる。
「シャーリーン様は出て行ったわ」
「え」
「クリス様と」
ルーシーの手から、持っていた白い布が落ちる。
「拾って。今はそれどころじゃない」
「は、はい!」
ルーシーは慌てて布を拾う。兄が椅子から立とうとするので、私は目だけで止めた。
「兄さんは座っていて」
「だが」
「立ち上がるたびに顔色が悪くなる人が、赤ん坊を見られると思う?」
兄は黙る。眼鏡の片側はまだずれている。
気になる。とても気になる。
甥を片腕で抱き直し、空いた手で兄の眼鏡をそっと外す。柔らかい布はない。
仕方なく自分の袖口で、片方についた小さな涙の跡を拭く。
兄のものか。赤ん坊のものか。どちらでも腹が立つ。
眼鏡を掛け直すと、兄が小さく笑った。
「すまない」
「今は謝らないで」
「ああ」
「謝るのは、あの二人よ」
兄の喉がわずかに動く。それでも何も言わない。
私は甥を抱いて、書斎を出る。
廊下には既に人が集まり始めている。料理長、下働きの少女、庭師の息子、洗濯女まで顔を出している。
皆、何か言いたげだ。けれど誰も大きな声は出さない。
赤ん坊が眠りかけているのを見て、自然に声を落としている。
「子供部屋へ行くわ。ルーシー、先に暖炉を見て。火が弱ければ足して」
「はい」
「料理長、兄さんに温かいものを。スープでいい。酒は駄目」
「承知しました」
「トム。馬は」
「旦那様の栗毛ならすぐ出せます」
「伯爵家への早馬に使って。もう一頭、私用に。長く走れる馬」
庭師のトムは一瞬だけ目を大きくする。
「お嬢様が行かれるんで?」
「行くわ」
「では、灰毛のベスを。気性は荒いですが、足はあります」
「お願い」
トムはもう走りだしていた。
この家は大きくはない。伯爵家のような格式もない。けれど、動く時は早い。
父母が亡くなった時、兄はまだ二十歳だった。私は八歳。
領地の者達は、若い子爵を頼りないと思ったはずだ。実際、兄は頼りなかった。
初めての小作人との面談で、兄は緊張しすぎて、出された茶を三杯も飲んだ。帰ってから腹を壊し、寝込んだ。
それでも兄は逃げなかった。毎日机に向かい、毎日人の話を聞き、毎日少しずつ覚えていった。
強い声で命じる人ではない。けれど、誰の言葉も途中で切らない人だ。だから皆、兄を見捨てなかった。
その兄を、シャーリーンは退屈だと言った。
本当の愛。女として生きたい。
赤ん坊を置いていく人が、ずいぶん綺麗な言葉を選んだものだ。
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