兄嫁が婚約者と愛の逃避行!? 赤ん坊を置いて持ち出した物、全て返して頂きます!

さんけい

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12 夜明け前のパンは味がしない

 夕食は出た。硬いパンと、豆の煮込み。
 それから薄い肉を少し焼いたもの。
 普段なら、宿の食事としては悪くないのだと思う。けれど今は、味がしない。
 パンを半分だけ齧る。煮込みを二匙だけ。肉は、ジェイがこちらを見たので仕方なく口に入れた。

「食べなければ倒れます」
「分かっているわ」
「なら、もう少し」
「ジェイ様こそ」

 彼の皿を見る。こちらと大して変わらない。一拍置いてから、彼は肉を一切れ口に入れた。
 何をしているのだろう。逃げた兄嫁と婚約者を追って、宿屋で向かい合って、互いに食べろと言い合っている。
 笑うところではない。全く笑うところではない。
 けれど、たぶんこの人がいなければ、私はもっと食べなかった。

「残りは包んでもらいましょう」
「道中用に?」
「はい。明日は夜明け前に出ます」
「分かったわ」

 宿の女中に頼んで、残りのパンと肉を布に包んでもらう。
 美味しく食べるのは後でいい。今は、動くためのものだ。

 ◇
 
 部屋へ入っても、すぐには眠れない。
 隣ではない。廊下を挟んだ向かいがジェイの部屋だ。その間の椅子には、宿の女中が夜番として座っている。
 彼がそう手配した。
 正しい。やはり正しい。
 だが、正しいことばかりしていると、どこかでひどく疲れるのではないか。
 そんなことを考えて、すぐやめる。今は人の心配をしている場合ではない。
 ヘンリーの銀のがらがらを寝台脇の机に置く。布で包んでいても、そこにあると分かる。兄の予備眼鏡の空箱も、鞄に入っている。
 取り戻したもの。まだ取り戻していないもの。
 父の形見の眼鏡。シャーリーンの持ち出した宝石。クリスが何に使ったか分からない、フェンウィック家の信用。
 兄の、夫としての尊厳。ヘンリーの母親。
 最後のひとつは、戻らなくていい。戻されても困る。
 ただ、母親であるという名を、きちんと置いていってもらう。泣きながら握っていられても迷惑だ。

 ◇

 眠れたのは、ほんの少しだった。扉を軽く叩く音で目を開ける。

「アマンダ嬢。夜明け前です」

 ジェイの声だ。

「起きているわ」

 嘘ではない。目は閉じていたが、眠っていた気がしない。
 顔を洗い、髪を結び直す。ルーシーがいればもっときちんと結ってくれただろうが、今は崩れなければいい。
 廊下へ出ると、彼はもう旅装を整えていた。目元に少し疲れがある。だが、姿勢は崩れていない。

「眠れましたか」
「少し。ジェイ様は?」
「同じくらいです」
「嘘でも、よく眠ったと言わないのね」
「信じませんよね」
「信じないわ」

 宿の女中が、包んだパンと肉を渡してくれる。それを受け取り、礼を言う。
 外はまだ薄暗い。空の端だけが白んでいる。馬たちは休んだおかげか、昨日より落ち着いていた。
 ベスの首を撫でる。

「もう少し付き合って」

 ベスは鼻を鳴らす。了承か不満かは分からない。まあ、私も同じだ。

 ロムジーの町を出て、西へ向かう。
 最初の村までは近かった。洗濯屋の荷車が通ったという話は、すぐに聞けた。

「金髪の女?」

 井戸端で水を汲んでいた女が、眉を寄せる。

「髪は見えなかったねえ。灰色の外套で、ずっと俯いていたよ」
「荷車はどこへ」
「村はずれまで。そこで降りた」
「一人で?」
「うん。けど、後から男が来た」

 私はジェイ様を見る。

「若い人?」

 女は首を横に振る。

「いや、年寄りだよ。古い辻馬車の御者。あの馬車に乗っていった」
「どちらへ」
「西の街道だね」

 また先だ。
 ただ、昨夜より近い気がする。逃げ道が少しずつ雑になっている。

「何か置いていった?」

 女は目をぱちぱちさせる。

「置いていったというか、払ったというか」
「何を」
「布だよ。上等な刺繍のハンカチ。洗濯屋が喜んでたけど、あれ、たぶん貴族の家の印が入ってたね」

 今度はジェイが先に口を開く。

「どこの洗濯屋ですか」

 洗濯屋は、村はずれの小さな家だった。竿に白い布がいくつも干してある。朝の湿った風に、はたはた揺れていた。
 戸を叩くと、恰幅のよい女性が出てくる。こちらを見るなり、まずジェイの服を見て、次に私の顔を見る。
 それから、しまった、というように口を結んだ。

「昨夜、灰色の外套の女性を荷車に乗せたわね」
「さあ」
「フェンウィック伯爵家とエルフォード子爵家の者です」

 静かに彼は言う。

「金を払えと言っているのではありません。確認です」
「……乗せました」
「代金は」

 女性は肩を落として、奥へ引っ込む。戻ってきた手には、白い布があった。
 受け取る前に分かる。エルフォード家の紋だ。
 それも、ただのハンカチではない。兄のものだ。小さな頃、私が刺繍を習い始めたばかりの時に、何枚も失敗して、ようやく一枚だけまともに仕上げたもの。
 兄はそれを、今でも持っていた。
 何で。どうしてそんなものを持っていく。しばらく、手が伸びない。

「アマンダ嬢」

 ジェイの声で、指が動く。
 ハンカチを受け取る。洗われてはいない。少し香水の匂いがついている。シャーリーンの匂いだ。

「これも、うちのものよ」
「知りませんでした」

 洗濯屋の女性は急いで言う。

「あの方が、ご自分のものだと」
「でしょうね」

 これが自分のものだと言える人なのだ。兄のものも、ヘンリーのものも、家の馬車も。
 全部、使えるものに見える。

「代金はいくら」
「い、いりません」
「請求して。正しく払うわ。これは持ち帰る」

 ジェイが横から、村の名と洗濯屋の名を書き留める。

「後ほど正式に」
「はい」

 外に出る。朝の光が、白い布を明るくしている。手の中のハンカチだけが、やけに重い。

「アマンダ嬢」
「何」
「少し、私が持ちましょうか」
「いいえ」
「ですが」
「これは私が持つ」

 ジェイ様はそれ以上言わない。ありがたい。慰められたら、たぶん腹が立つ。
 ……いや、今は、腹を立てていたいか。

 馬に戻る途中、ジェイ様が口を開いた。

「兄がここに来た形跡はありません」
「シャーリーン様だけね」
「はい」
「クリス様はどこかで別行動」
「おそらく、西の街道で合流するつもりです」
「できると思う?」
「兄は、できると思っているでしょう」
「それは不安ね」
「かなり」

 その返事に、少しだけ息が抜ける。
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