兄嫁が婚約者と愛の逃避行!? 赤ん坊を置いて持ち出した物、全て返して頂きます!

さんけい

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 外へ出ると、霧が濃くなり始めていた。
 ジェイは宿の厩で、御者に話を聞く。私は馬の水を見ている。ベスは少し疲れているが、まだ目は強い。

「あと少しよ」

 首を撫でると、ベスが鼻を鳴らす。
 あと少し。そう言いながら、何度も一歩先へ行かれている。
 腹立たしい。だが、焦ってはいけない。

 左の道へ入る前に、フェンウィック家の使いが追いついた。ジェイは手早く指示を出す。
 宿に一人残す。もう一人はフェンウィック家へ戻し、ハロウズ湯治場でエルフォード家の家政鍵を回収したこと、茶色い封筒を持つ者が来る可能性があることを知らせる。

「エルフォードへも」

 私は言う。

「はい」

 使いの一人がこちらを見る。

「兄さんへ伝えて。家政鍵は回収した。すぐ鍵を替えるように。食品庫、食器棚、リネン室、薬棚、女主人の小机」

 言いながら、腹が立つ。
 嫁いだ女が家政鍵を持つ。それは信用だ。その家の内側を任されるということだ。
 それを宿の帳場に置く。
 何をしたのか、分かっているのか。分かっていないのだろう。いや、分かっていてやったのかもしれない。
 どちらでも同じだ。

「それから、シャーリーン様の女主人としての権限をすぐ止めて。家の者にも伝えて」

 使いがうなずく。

「承知しました」

 ジェイが横から続ける。

「ウィリアム様には、鍵を回収したのはアマンダ嬢だと」
「それは言わなくていいわ」
「言った方がいい」

 思わずジェイを見る。
 彼はまっすぐこちらを見ている。

「ウィリアム様は、あなたが家を守っていると知るべきです」
「……兄さんはまた礼を言うわ」
「言わせてあげてください」

 返す言葉が少し遅れる。

「分かったわ」

 使いが走る。馬の蹄が霧の向こうへ消えていく。
 左の道へ入る。細い道だ。
 馬車では無理だが、ジェイが言った通り、小型の二輪車なら行ける。
 車輪の跡がある。新しい。

「急ぎましょう」
「はい」

 霧が濃くなる。道は森の中へ続く。古い湯治場の裏山を越える道らしい。
 ところどころに石の段が残っていて、馬を急がせすぎると危ない。
 しばらく進むと、小さな祠のような建物があった。昔の湯治客が休んだ場所なのだろう。
 その前に、二輪車が捨てられている。

「ここで降りた」

 ジェイが馬を下りる。私は周囲を見る。霧の中に、人の声はない。
 ただ、水の落ちる音が聞こえる。近くに沢があるらしい。

「足跡は?」
「二人分」
「クリスも?」
「はい。ここで合流しています」

 ようやく。ようやく同じ足跡になった。
 ジェイが道の先を見る。

「この先に、古い離れ宿があります。今は使われていないはずですが、雨風はしのげる」
「そこへ?」
「おそらく」

 心臓が速く打つ。捕まる。今度こそ。
 そう思った瞬間、祠の中に白い紙が見えた。私は馬を下りる。
 紙は、石の上に置かれている。風で飛ばないように、小石が乗せてある。
 嫌な丁寧さだ。紙を取る。
 シャーリーンの字。

 ――どうか、もう追ってこないでください。
 ――私たちは互いだけを頼りに生きていきます。
 ――ウィリアム様には、私など忘れて、あの子と静かに暮らしてほしい。
 ――アマンダ様も、もっと良い方を見つけてください。
 ――クリス様を責めないで。
 ――彼は、私を救ってくださっただけなのです。

 最後まで読む。今度は畳まない。
 ジェイへ渡す。黙って読む。読み終えて、紙を折る。

「兄は、救ったつもりらしいです」
「そうね」
「では、こちらも救いましょう」
「誰を?」
「ウィリアム様と、ヘンリー様と、あなたを」

 言い方が静かすぎて、すぐには返せない。彼は続ける。

「それから、フェンウィック家も」
「クリスは?」
「書面の上では、できるだけ早く切り離します」
「本人は?」

 ジェイの目が、霧の向こうへ向く。

「自分が救われる側ではないと、分かってもらいます」

 私はうなずく。

「行きましょう」
「はい」

 その時、霧の向こうで、かすかに物音がした。木の扉が閉まる音。近い。すぐ近い。
 ジェイが手で合図する。声を出さない。馬を木につなぎ、足音を殺して進む。
 霧の奥に、古い離れ宿が見えてくる。石造りの小さな建物。窓に明かりがある。煙突から細い煙が上がっている。
 いる。
 今度こそ、いる。私は外套の内側に手を当てる。
 家政鍵の冷たい感触。ヘンリーの銀のがらがら。兄のハンカチ。肖像画。クラヴァットピン。
 持ち出されたものが、全部ここまで一緒に来ている。逃げた二人に見せるために。
 ジェイが小さく言う。

「裏口を見ます」
「私は?」
「ここで」
「嫌」
「では、玄関の右へ。窓から見える位置には立たないでください」
「分かった」

 返事が短くなる。ジェイは一瞬こちらを見るが、何も言わない。ただ、うなずいて裏へ回る。
 私は玄関の右側へ寄る。中から声が聞こえる。女の声。シャーリーンだ。

「……もう少しで、誰も追ってこなくなるわ」

 それから、男の声。

「そうだね。ジェイなら、父上を説得してくれる」

 クリス。私は目を閉じる。
 説得。この人は、まだ弟が自分のために動くと思っている。ジェイは、兄を止めるためにここまで来ているのに。

「アマンダも、きっと分かってくれる」

 次の言葉で、目を開ける。

「彼女は強いから」

 ああ。そう来るか。
 強いから。だから傷つかない。強いから、婚約者を取られても平気。強いから、兄を支えられる。強いから、赤ん坊も見られる。
 便利な言葉だ。
 私は玄関の前へ出る。もう待てない。
 扉を叩く。一度。二度。中の声が止まる。

「どなた?」

 シャーリーンの声がする。私は答える。

「アマンダよ」

 中で、何かが落ちる音がした。
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