《完結》兄嫁が婚約者と愛の逃避行!? 赤ん坊を置いて持ち出した物、全て返して頂きます!

さんけい

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25 翌朝の馬鹿者たち

 朝は、霧の中から始まった。
 窓の外が白い。遠くの木も、道も、厩の屋根も、輪郭だけになっている。
 それでも宿は動いている。廊下の向こうで湯を運ぶ足音がする。厨房から、卵を茹でる匂いと、昨日の煮込みを温め直す匂いが流れてくる。外では馬が鼻を鳴らしている。
 顔を洗うと、昨日より少し頭が重い。当然だ。あれだけ走って、あれだけ怒って、あれだけ書かせた。身体が平気なふりをしているだけだ。
 でも、まだ倒れるわけにはいかない。

 食堂へ下りると、ジェイはもう席にいた。
 卓には薄い粥と、茹で卵と、昨日のパンを焼き直したもの。小さな器には林檎の煮たものが入っている。
 焼き林檎ほど甘くはない。けれど、湯気と一緒に酸味のある香りが立つ。

「おはようございます、アマンダ嬢」
「おはよう、ジェイ様」

 昨日の夜、一度だけ呼び方が崩れた。けれど朝になると、また少し戻る。それでいい。
 戻る場所があって、そこからまた少しずつ変わればいい。

「眠れましたか」
「少し」
「私もです」
「嘘でもよく眠ったとは言わないのね」
「信じませんよね」
「信じないわ」

 粥を口にする。塩気は薄い。けれど、昨日の煮込みの汁を少し入れてあるらしい。
 麦がやわらかく、鶏の味がほんの少しする。胃に優しい。ありがたい。
 熱い茶を飲むと、少し目が覚める。

「今日は、まず離れね」
「はい。夜の間、二人は動いていません」
「動けなかった、ではなく?」
「それもあります」

 淡々と彼は言う。

「フェンウィックの使いが二人、エルフォードの従者が一人、宿の者が一人。出ようとしても、すぐ分かります」
「クリスは騒いだ?」
「一度だけ」
「何て」
「弟のくせに、と」
「便利な言葉ね」
「はい」

 彼は卵の殻を割る。白身に少し塩をつけ、半分を口に入れる。

「シャーリーン様は?」
「泣いていたそうです」
「何について?」
「自分のことを」
「そう」

 もう驚かない。
 ヘンリーではない。兄でもない。自分のこと。なら、もう十分だ。

 食事を終える頃、グレイヴスが入ってくる。

「お嬢様。フェンウィック伯爵閣下より、正式な書状が届きました」

 ジェイにも同時に封書が渡される。封を切り、読む。読み終えるまで、顔はほとんど変わらない。

「父は、兄の権利停止を正式に進めるそうです。今日から私が代理になります。兄は一度フェンウィックへ連れ戻す。ただし、エルフォード家との処理が済むまでは、自由な外出も通信も認めない」
「シャーリーン様は?」
「彼女の実家へも知らせが行っています。迎えは来るでしょうが、エルフォード家への離縁同意と返還確認が優先です」
「よかった」

 よかった、でいいのかは分からない。
 でも、少なくとも兄の家へ戻されることはない。ヘンリーの側に、あの人が急に立つことはない。
 それだけでいい。
 こちらの手紙も開く。兄の字だ。

 ――アマンダ。
 ――昨夜、回収品の知らせを受け取った。
 ――鍵はすべて替えた。
 ――ヘンリーはよく眠った。
 ――朝、ミルクを飲んだ。
 ――メアリーが、少し笑ったと言っている。
 ――帰りは急がなくていい。
 ――だが、早く顔を見せてくれると助かる。
 ――ジェイ殿にも、どうか無理をさせないでほしい。

 最後の一文で、少しだけ口元が動きそうになる。兄さん。自分の方がひどい目に遭っているのに、こちらの同行者まで心配している。そういう人だ。

「兄さん、ヘンリーが笑ったって」
「それはよかった」

 ジェイの声が、少しやわらぐ。

「ええ」
「早く帰りましょう」
「ええ」

 離れへ行く前に、荷を確認する。回収品は、夜の間グレイヴスとジェイが二重に封じてくれていた。
 布包みがいくつもある。箱もある。書類もある。
 来た時には、怒りと馬だけだった。帰る荷は、来た時よりずっと重い。
 離れの扉を開けると、冷えた空気が出てくる。
 クリスは椅子に座っていた。上着は乱れている。昨日より顔色が悪い。
 シャーリーンは寝台の端に腰掛けている。目元が赤い。それでも髪は直してあった。そこは、直すのか。

「おはようございます」

 私は言う。礼儀は捨てない。こちらが捨てるものではない。
 クリスは返事をしない。シャーリーンは小さく頭を下げる。
 ジェイは父親の書状を机に置く。

「兄上。父上の決定です」
「聞きたくない」
「聞かなくても、決定は変わりません」

 クリスの指が、椅子の肘掛けを掴む。

「あなたはフェンウィック家へ戻ります。ただし、長男としての権利は停止。今後の処遇は父上と親族会議で決まります」
「お前が、私の席に座るのか」
「必要なら」
「嬉しいか」

 その言葉は、かなり嫌な音をしていた。ジェイはすぐには答えない。

「嬉しいわけがありません」
「では断れ」
「断りません」
「なぜ」
「フェンウィック家が必要とするからです」

 クリスが笑う。乾いた、短い笑いだ。

「お前は昔からそうだ。家、家、家。自分がない」
「あります」

 ジェイは静かに言う。

「だから、家を壊す人間に渡したくない」

 クリスの笑いが止まる。私はその横で、シャーリーンへ書類を出す。

「シャーリーン様。昨日署名した内容の控えです。あなたの実家にも送ります」
「……ウィリアム様は」
「ヘンリーの側にいます」
「あの方は、私に何か」
「何も」

 シャーリーンの目が揺れる。

「何も?」
「ええ」

 言わない方がいいと思った。
 兄は怒っている。でも、その怒りをこの人へ届ける必要はない。それは兄のものだ。この人のためのものではない。

「ヘンリーは」
「ミルクを飲んで、笑ったそうよ」

 シャーリーンの唇が開く。何か言おうとする。でも、出てこない。
 やっとか。やっと、赤ん坊の名で何か止まったのか。遅い。
 でも、何もないよりはましかもしれない。

「あなたは今後、ヘンリーの母親として何を望むか、書面で出して」
「会えるのでしょうか」
「それを決めるのは、兄さんと、正式な手続きよ。少なくとも、勝手に会いに来ることは許さない」

 シャーリーンはうつむく。

「分かりました」

 その声が本当に分かっている声かどうかは、今は判断しない。
 グレイヴスが回収品の確認書を読み上げる。フェンウィック家の使いも立ち会う。
 ひとつずつ、ここにあるもの、ハドリーで回収済みのもの、エルフォードへ送るものを確認する。
 クリスは何度も苛立ったように息を吐く。シャーリーンは途中で涙を拭く。それでも、確認は止めない。
 最後にジェイが言う。

「兄上。これで、あなたが持ち出した、または使用したものの確認は一度終わります。後から別のものが見つかった場合、さらに追記します」
「もう好きにしろ」
「はい」

 短い返事。好きにしろ、と言われたら、本当に好きにする人だ。
 頼もしい。
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