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6 見事な娘、愚かな夫
私は馬車の窓辺に手を置いたまま、しばらくその光景を見ていた。
チャールズはまだこちらに気づいていない。
メイベルだけが気づいた。
それも、恋人を見つめる娘の顔から、客を見分ける店番の顔へ、恐ろしく滑らかに切り替えて。
なるほど。
この娘はただ若いだけではないらしい。
少なくとも、町の通りの真ん中で既婚者と並んでいる自分が、どう見えるかはよく知っている。
「奥様?」
御者が控えめに声をかけた。
私は視線を外し、背もたれにもたれた。
「そのままお進みなさい」
馬車は揺れながら角を曲がった。通り過ぎる一瞬、ようやく夫がこちらを見る。
顔つきが固まる。口元が半端に開き、片手が中途半端に上がる。
呼び止めるべきか、知らぬ顔をすべきか、判断のつかぬ男の顔だった。
私は軽く会釈だけした。妻として、これ以上ないほど礼儀正しく。
その程度で十分である。町なかで取り乱して見せてやるほど、彼に価値はない。
◇
家へ戻ると、ミセス・ウェッブが玄関先で私の外套を受け取った。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。ミセス・ウェッブ、今夜の夕食は少し早めにできるかしら」
「旦那様にお急ぎのご予定でも?」
「ええ。たぶん、言い訳をしに帰っていらっしゃるでしょうから」
彼女のまぶたが、ほんの一度だけ上がった。
だがそれだけだった。
「それでは、胃に優しい献立にいたしますか」
「お願い。動揺した紳士には、柔らかい肉のほうが良いかもしれませんものね」
「もっともでございます」
私は客間へ上がり、帽子を脱いだ。
鏡の前でピンを抜きながら、自分の顔を見る。やはり崩れてはいない。
結構なことだ。夫の愚行に合わせてこちらまで顔色を悪くしていては、あまりに損である。
それにしてもメイベルの会釈は見事だった。
無邪気な娘なら、固まるか、赤くなるか、逃げるかのどれかだろう。
だが彼女は違った。
驚いた。状況を読んだ。礼をした。
しかも「私には私の立場がありますけれど、あなたも騒がないのでしょう?」という探りまで含めていた。
まるで値札の裏まで見てから買うかどうか決める客の目だった。
チャールズはああいう娘を「無垢」と呼ぶらしい。
男というものは、ときどき自分の都合をそのまま形容詞にする。
◇
予想どおり、夫は普段よりずっと早く帰宅した。
玄関で扉の開く音がして、そのあと床板を踏む足音がやけに速い。
書斎にも帳場にも寄らず、まっすぐ食堂へ来たあたりで、もう中身は決まっている。
釈明か、逆上か、あるいはその両方だ。
私はテーブルの端で銀器の並びを見ていた。
夫は部屋へ入るなり、声を潜めた怒鳴り方で言った。
「今日、通りで見ただろう」
「ええ」
夫の顔が引きつった。
人は自分の期待どおりの反応を得られないと、たちまち苛立つ。おそらく彼としては、こちらが泣くか、責めるか、せめて嫌味の一つでも言うはずだったのだろう。
だが私はただ認めただけで、続きを彼に渡した。
「何も言うことはないのか」
「もう十分うかがっておりますもの。真面目な妻がいてこそ甘美なのだとか」
「今その話は――」
「店先で恋人ぶるのも、その甘美さの一部かしら」
夫は唇を噛んだ。
「きみはわざと私を怒らせたいのか」
「いいえ。怒っていらっしゃるのはあなたでしょう」
「町なかで、あんなふうに通り過ぎる必要はなかった!」
「あんなふうに、とは?」
「……あの、平然とした顔でだ」
私は思わず目を瞬いた。
今の台詞はなかなか新鮮だった。
浮気の現場を見た妻に対し、もっと取り乱してくれればよかったのに、と不満を述べる男は、そう多くないだろう。
「取り乱したほうが、お好みでした?」
「そういう意味じゃない」
「けれど、そういうことでしょう。あなた、あの娘さんの前で、私がみっともなく騒ぐのを少し期待していらしたのではなくて?」
夫は返事をしなかった。
しなかったということは、だいたいそういうことである。
私はナプキンを開きながら言った。
「ご安心なさい。あなたの恋の芝居に、私が舞台装置として参加するつもりはありませんわ」
「芝居だと?」
「違うの?」
「私は本気で――」
「まあ」
今度は私のほうが、少しだけ声を落とした。
「本気でしたの?」
その一言が効いたらしい。夫の顔が変わった。
怒っている時の顔ではなく、侮られた男の顔に。
なるほど、そこだったのか。
家庭も商売も捨てる気はない。妻には黙って支えていてほしい。だが恋愛だけは“本物”であってほしい。
実に欲張りで、実に安っぽい。
「メイベルは、きみとは違う」
と夫は言った。
「ええ、そうでしょうね」
「若くて、素直で、私を必要としてくれる」
「店の飾り紐や小箱を買ってくださる殿方ですもの、必要にもなるでしょう」
「きみはすぐに金の話をする」
「商人の妻ですから」
「そこだ! そういうところが……」
夫は言葉に詰まった。
たぶん「冷たい」だの「現実的すぎる」だのを選びかけたのだろうが、そのどれもが今の自分にはずいぶん不利だと、さすがに気づいたらしい。
チャールズはまだこちらに気づいていない。
メイベルだけが気づいた。
それも、恋人を見つめる娘の顔から、客を見分ける店番の顔へ、恐ろしく滑らかに切り替えて。
なるほど。
この娘はただ若いだけではないらしい。
少なくとも、町の通りの真ん中で既婚者と並んでいる自分が、どう見えるかはよく知っている。
「奥様?」
御者が控えめに声をかけた。
私は視線を外し、背もたれにもたれた。
「そのままお進みなさい」
馬車は揺れながら角を曲がった。通り過ぎる一瞬、ようやく夫がこちらを見る。
顔つきが固まる。口元が半端に開き、片手が中途半端に上がる。
呼び止めるべきか、知らぬ顔をすべきか、判断のつかぬ男の顔だった。
私は軽く会釈だけした。妻として、これ以上ないほど礼儀正しく。
その程度で十分である。町なかで取り乱して見せてやるほど、彼に価値はない。
◇
家へ戻ると、ミセス・ウェッブが玄関先で私の外套を受け取った。
「お帰りなさいませ」
「ただいま。ミセス・ウェッブ、今夜の夕食は少し早めにできるかしら」
「旦那様にお急ぎのご予定でも?」
「ええ。たぶん、言い訳をしに帰っていらっしゃるでしょうから」
彼女のまぶたが、ほんの一度だけ上がった。
だがそれだけだった。
「それでは、胃に優しい献立にいたしますか」
「お願い。動揺した紳士には、柔らかい肉のほうが良いかもしれませんものね」
「もっともでございます」
私は客間へ上がり、帽子を脱いだ。
鏡の前でピンを抜きながら、自分の顔を見る。やはり崩れてはいない。
結構なことだ。夫の愚行に合わせてこちらまで顔色を悪くしていては、あまりに損である。
それにしてもメイベルの会釈は見事だった。
無邪気な娘なら、固まるか、赤くなるか、逃げるかのどれかだろう。
だが彼女は違った。
驚いた。状況を読んだ。礼をした。
しかも「私には私の立場がありますけれど、あなたも騒がないのでしょう?」という探りまで含めていた。
まるで値札の裏まで見てから買うかどうか決める客の目だった。
チャールズはああいう娘を「無垢」と呼ぶらしい。
男というものは、ときどき自分の都合をそのまま形容詞にする。
◇
予想どおり、夫は普段よりずっと早く帰宅した。
玄関で扉の開く音がして、そのあと床板を踏む足音がやけに速い。
書斎にも帳場にも寄らず、まっすぐ食堂へ来たあたりで、もう中身は決まっている。
釈明か、逆上か、あるいはその両方だ。
私はテーブルの端で銀器の並びを見ていた。
夫は部屋へ入るなり、声を潜めた怒鳴り方で言った。
「今日、通りで見ただろう」
「ええ」
夫の顔が引きつった。
人は自分の期待どおりの反応を得られないと、たちまち苛立つ。おそらく彼としては、こちらが泣くか、責めるか、せめて嫌味の一つでも言うはずだったのだろう。
だが私はただ認めただけで、続きを彼に渡した。
「何も言うことはないのか」
「もう十分うかがっておりますもの。真面目な妻がいてこそ甘美なのだとか」
「今その話は――」
「店先で恋人ぶるのも、その甘美さの一部かしら」
夫は唇を噛んだ。
「きみはわざと私を怒らせたいのか」
「いいえ。怒っていらっしゃるのはあなたでしょう」
「町なかで、あんなふうに通り過ぎる必要はなかった!」
「あんなふうに、とは?」
「……あの、平然とした顔でだ」
私は思わず目を瞬いた。
今の台詞はなかなか新鮮だった。
浮気の現場を見た妻に対し、もっと取り乱してくれればよかったのに、と不満を述べる男は、そう多くないだろう。
「取り乱したほうが、お好みでした?」
「そういう意味じゃない」
「けれど、そういうことでしょう。あなた、あの娘さんの前で、私がみっともなく騒ぐのを少し期待していらしたのではなくて?」
夫は返事をしなかった。
しなかったということは、だいたいそういうことである。
私はナプキンを開きながら言った。
「ご安心なさい。あなたの恋の芝居に、私が舞台装置として参加するつもりはありませんわ」
「芝居だと?」
「違うの?」
「私は本気で――」
「まあ」
今度は私のほうが、少しだけ声を落とした。
「本気でしたの?」
その一言が効いたらしい。夫の顔が変わった。
怒っている時の顔ではなく、侮られた男の顔に。
なるほど、そこだったのか。
家庭も商売も捨てる気はない。妻には黙って支えていてほしい。だが恋愛だけは“本物”であってほしい。
実に欲張りで、実に安っぽい。
「メイベルは、きみとは違う」
と夫は言った。
「ええ、そうでしょうね」
「若くて、素直で、私を必要としてくれる」
「店の飾り紐や小箱を買ってくださる殿方ですもの、必要にもなるでしょう」
「きみはすぐに金の話をする」
「商人の妻ですから」
「そこだ! そういうところが……」
夫は言葉に詰まった。
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