21 / 21
21 離婚しないのが一番の罰
「何でしょう」
と私は促した。
夫はしばらく黙った。それから、ひどく苦いものを飲み込むみたいに言った。
「……しばらく別に暮らしたほうがいいかもしれない」
「まあ」
来た、と思った。
やはりそこへ落ちるのか。
「町の空気も落ち着くまで」
と夫は続けた。
「きみにとっても、そのほうが」
「私のため?」
「そうだ」
「あなたが家を出るの?」
「いや、そうではなく」
ここで言い淀むあたりが実に彼らしい。
つまり、自分はこの家と店と看板を保持したまま、私だけを少し脇へどけたいのだ。
そうして“いろいろあったが別居中”という、最も自分に都合のいい曖昧さへ逃げ込むつもりらしい。
なるほど、反省はしていない。困っているだけだ。最後まで、その筋はぶれない。
「私は出ていきませんわ」
と私は言った。
「この家は私の家でもありますもの」
「そういう意味では」
「では、どういう意味?」
「今は、少し距離を置いたほうが」
義母がそこで鼻で息をついた。
夫はびくりとした。
「距離」
と私は繰り返した。
「あなたが帽子屋の娘さんと店先でお取りになっていたものなら、もう十分ではなくて?」
「エレノア!」
「あなたは私に、離婚は望まぬ、家は壊したくない、けれど自分の気分のために浮気はしたいとおっしゃったのよ。今度はそれがまずくなったから、少し距離を置こうと?」
「私は事態を収めようとしているんだ」
「ええ。ご自分が立っていられなくなった場所から、滑らかに退きたいだけでしょう」
夫は青ざめた。
言い返したかったのだろうが、言葉より先に事実が部屋に満ちていた。
銀行の通知、卸の現金条件、教会の委員会、帽子屋の拒絶、母親の来訪。そのどれもが、彼のほうを向いて黙っている。
黙っている事実ほど、人を追い詰めるものはない。
「離婚はいたしません」
私ははっきりと言った。
「別居もしません」
「きみは……」
「あなたがご自分のしでかしたことの中で、ちゃんと夫として、店の主人として、息子として、教会員として立っているところを見届けますわ」
義母がゆっくり頷いた。
「私もそのほうがよろしいと思います」
と彼女は言った。
「甘い逃げ道は、もう十分お与えになったでしょう」
夫は椅子へ沈み込んだ。その様子は、ようやく本当に何かを失った男のものだった。
恋ではない。恋など最初から大した中身はなかったのだろう。
失ったのは、自分だけは体面も家も保ったまま、少しばかり刺激的に生きられるという幻想である。
◇
数日後、学校増築のための寄付を集める会が開かれた。
私は義母と並んで会場へ行き、毛布の帳面を持ち、婦人たちと話し、必要な布の数を確認した。
夫も来ていた。来ないわけにはいかない立場だったし、来たからといって以前のように大きな顔ができるわけでもなかった。
人はそういう中途半端な位置に立たされると、急に背丈が合わなくなる。
けれど、その日ひとつだけはっきりしたことがある。
寄付の席で、ミスター・フェルドンが皆の前で私の名を挙げたのだ。
「婦人会の働きと、ミセス・ハロウェイのお力添えに感謝を」
拍手が起きた。
大きすぎず、けれど確かに部屋を満たす拍手だった。
私は立って一礼した。義母も隣で軽く頷いた。
夫は少し離れた場所に立っていた。
そのとき私は思った。
ああ、これで十分だ、と。
彼を失脚させてやりたいわけではない。破産させたいわけでも、追い出したいわけでもない。
だいたい私が離婚して何になる。実家に戻ってそれで安泰なんて無理に決まってる。だからそれは元々選択肢にない。
ただ、自分の家と妻と看板を背負いながら、背徳ごっこだけを甘く味わえると思った、その考え違いを、二度と気楽に口にできないようにしたかっただけだ。
そしてこの先、私の信用で店が持ち直していくのをその目で見ればいいのだ。
◇
会が終わって帰る馬車の中で、夫はずっと黙っていた。
義母は窓の外を見ている。
私も何も言わなかった。
家へ着き、玄関の灯りの下で外套を脱いだ時、夫がぽつりと言った。
「……きみは、本当に出ていかないんだな」
「ええ」
「このままずっと?」
「少なくとも、あなたが楽になりたいからという理由では」
夫はしばらく立っていた。
そして、ひどく疲れた声で言った。
「私は、ずいぶん馬鹿だったらしい」
私はその言葉を聞いて、少しだけ考えた。
謝罪ではない。告白とも違う。ただ、ようやく自分の位置を見た男の、乾いた報告みたいなものだ。
それでも最初の頃に比べれば、たいそうな進歩ではある。
「ええ」
と私は答えた。
「ようやく、そこまでは」
義母が背後で小さく咳払いをした。
たぶん笑いを堪えたのだろう。私も少しだけ口もとが緩んだ。
暖炉の火は、その夜もきれいに燃えていた。
夫が最初に愚説を披露した晩と同じように、ぱちりと音を立てる。
ただ違うのは、もう彼がその火の前で恋の冒険者を気取っていないことだった。
結構なことである。
真面目な妻がいてこそ浮気は甘美なのだと、あの人は言った。
ならば、その真面目な妻が変わらず家にいて、変わらず町へ出て、変わらず嘘をつかなかった時に何が起きるかも、きちんと味わっていただけばよろしい。
離婚はしない。
それが、いちばんの罰なのだから。
※ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
本日からまた短期集中型の作品を投稿致します。
「ガリ勉地味女は要らないから婚約破棄?ありがとうございます!」
やっと婚約破棄が叶ったヒロインと、その豪快な家族の物語です。
と私は促した。
夫はしばらく黙った。それから、ひどく苦いものを飲み込むみたいに言った。
「……しばらく別に暮らしたほうがいいかもしれない」
「まあ」
来た、と思った。
やはりそこへ落ちるのか。
「町の空気も落ち着くまで」
と夫は続けた。
「きみにとっても、そのほうが」
「私のため?」
「そうだ」
「あなたが家を出るの?」
「いや、そうではなく」
ここで言い淀むあたりが実に彼らしい。
つまり、自分はこの家と店と看板を保持したまま、私だけを少し脇へどけたいのだ。
そうして“いろいろあったが別居中”という、最も自分に都合のいい曖昧さへ逃げ込むつもりらしい。
なるほど、反省はしていない。困っているだけだ。最後まで、その筋はぶれない。
「私は出ていきませんわ」
と私は言った。
「この家は私の家でもありますもの」
「そういう意味では」
「では、どういう意味?」
「今は、少し距離を置いたほうが」
義母がそこで鼻で息をついた。
夫はびくりとした。
「距離」
と私は繰り返した。
「あなたが帽子屋の娘さんと店先でお取りになっていたものなら、もう十分ではなくて?」
「エレノア!」
「あなたは私に、離婚は望まぬ、家は壊したくない、けれど自分の気分のために浮気はしたいとおっしゃったのよ。今度はそれがまずくなったから、少し距離を置こうと?」
「私は事態を収めようとしているんだ」
「ええ。ご自分が立っていられなくなった場所から、滑らかに退きたいだけでしょう」
夫は青ざめた。
言い返したかったのだろうが、言葉より先に事実が部屋に満ちていた。
銀行の通知、卸の現金条件、教会の委員会、帽子屋の拒絶、母親の来訪。そのどれもが、彼のほうを向いて黙っている。
黙っている事実ほど、人を追い詰めるものはない。
「離婚はいたしません」
私ははっきりと言った。
「別居もしません」
「きみは……」
「あなたがご自分のしでかしたことの中で、ちゃんと夫として、店の主人として、息子として、教会員として立っているところを見届けますわ」
義母がゆっくり頷いた。
「私もそのほうがよろしいと思います」
と彼女は言った。
「甘い逃げ道は、もう十分お与えになったでしょう」
夫は椅子へ沈み込んだ。その様子は、ようやく本当に何かを失った男のものだった。
恋ではない。恋など最初から大した中身はなかったのだろう。
失ったのは、自分だけは体面も家も保ったまま、少しばかり刺激的に生きられるという幻想である。
◇
数日後、学校増築のための寄付を集める会が開かれた。
私は義母と並んで会場へ行き、毛布の帳面を持ち、婦人たちと話し、必要な布の数を確認した。
夫も来ていた。来ないわけにはいかない立場だったし、来たからといって以前のように大きな顔ができるわけでもなかった。
人はそういう中途半端な位置に立たされると、急に背丈が合わなくなる。
けれど、その日ひとつだけはっきりしたことがある。
寄付の席で、ミスター・フェルドンが皆の前で私の名を挙げたのだ。
「婦人会の働きと、ミセス・ハロウェイのお力添えに感謝を」
拍手が起きた。
大きすぎず、けれど確かに部屋を満たす拍手だった。
私は立って一礼した。義母も隣で軽く頷いた。
夫は少し離れた場所に立っていた。
そのとき私は思った。
ああ、これで十分だ、と。
彼を失脚させてやりたいわけではない。破産させたいわけでも、追い出したいわけでもない。
だいたい私が離婚して何になる。実家に戻ってそれで安泰なんて無理に決まってる。だからそれは元々選択肢にない。
ただ、自分の家と妻と看板を背負いながら、背徳ごっこだけを甘く味わえると思った、その考え違いを、二度と気楽に口にできないようにしたかっただけだ。
そしてこの先、私の信用で店が持ち直していくのをその目で見ればいいのだ。
◇
会が終わって帰る馬車の中で、夫はずっと黙っていた。
義母は窓の外を見ている。
私も何も言わなかった。
家へ着き、玄関の灯りの下で外套を脱いだ時、夫がぽつりと言った。
「……きみは、本当に出ていかないんだな」
「ええ」
「このままずっと?」
「少なくとも、あなたが楽になりたいからという理由では」
夫はしばらく立っていた。
そして、ひどく疲れた声で言った。
「私は、ずいぶん馬鹿だったらしい」
私はその言葉を聞いて、少しだけ考えた。
謝罪ではない。告白とも違う。ただ、ようやく自分の位置を見た男の、乾いた報告みたいなものだ。
それでも最初の頃に比べれば、たいそうな進歩ではある。
「ええ」
と私は答えた。
「ようやく、そこまでは」
義母が背後で小さく咳払いをした。
たぶん笑いを堪えたのだろう。私も少しだけ口もとが緩んだ。
暖炉の火は、その夜もきれいに燃えていた。
夫が最初に愚説を披露した晩と同じように、ぱちりと音を立てる。
ただ違うのは、もう彼がその火の前で恋の冒険者を気取っていないことだった。
結構なことである。
真面目な妻がいてこそ浮気は甘美なのだと、あの人は言った。
ならば、その真面目な妻が変わらず家にいて、変わらず町へ出て、変わらず嘘をつかなかった時に何が起きるかも、きちんと味わっていただけばよろしい。
離婚はしない。
それが、いちばんの罰なのだから。
※ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
本日からまた短期集中型の作品を投稿致します。
「ガリ勉地味女は要らないから婚約破棄?ありがとうございます!」
やっと婚約破棄が叶ったヒロインと、その豪快な家族の物語です。
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(8件)
あなたにおすすめの小説
(完結)あなたの愛は諦めました (全5話)
青空一夏
恋愛
私はライラ・エト伯爵夫人と呼ばれるようになって3年経つ。子供は女の子が一人いる。子育てをナニーに任せっきりにする貴族も多いけれど、私は違う。はじめての子育ては夫と協力してしたかった。けれど、夫のエト伯爵は私の相談には全く乗ってくれない。彼は他人の相談に乗るので忙しいからよ。
これは自分の家庭を顧みず、他人にいい顔だけをしようとする男の末路を描いた作品です。
ショートショートの予定。
ゆるふわ設定。ご都合主義です。タグが増えるかもしれません。
[完結]思い出せませんので
シマ
恋愛
「早急にサインして返却する事」
父親から届いた手紙には婚約解消の書類と共に、その一言だけが書かれていた。
同じ学園で学び一年後には卒業早々、入籍し式を挙げるはずだったのに。急になぜ?訳が分からない。
直接会って訳を聞かねば
注)女性が怪我してます。苦手な方は回避でお願いします。
男性視点
四話完結済み。毎日、一話更新
魔法のせいだから許して?
ましろ
恋愛
リーゼロッテの婚約者であるジークハルト王子の突然の心変わり。嫌悪を顕にした眼差し、口を開けば暴言、身に覚えの無い出来事までリーゼのせいにされる。リーゼは学園で孤立し、ジークハルトは美しい女性の手を取り愛おしそうに見つめながら愛を囁く。
どうしてこんなことに?それでもきっと今だけ……そう、自分に言い聞かせて耐えた。でも、そろそろ一年。もう終わらせたい、そう思っていたある日、リーゼは殿下に罵倒され頬を張られ怪我をした。
──もう無理。王妃様に頼み、なんとか婚約解消することができた。
しかしその後、彼の心変わりは魅了魔法のせいだと分かり……
魔法のせいなら許せる?
基本ご都合主義。ゆるゆる設定です。
婚約解消は君の方から
みなせ
恋愛
私、リオンは“真実の愛”を見つけてしまった。
しかし、私には産まれた時からの婚約者・ミアがいる。
私が愛するカレンに嫌がらせをするミアに、
嫌がらせをやめるよう呼び出したのに……
どうしてこうなったんだろう?
2020.2.17より、カレンの話を始めました。
小説家になろうさんにも掲載しています。
[完結]婚約破棄してください。そして私にもう関わらないで
みちこ
恋愛
妹ばかり溺愛する両親、妹は思い通りにならないと泣いて私の事を責める
婚約者も妹の味方、そんな私の味方になってくれる人はお兄様と伯父さんと伯母さんとお祖父様とお祖母様
私を愛してくれる人の為にももう自由になります
諦めていた自由を手に入れた令嬢
しゃーりん
恋愛
公爵令嬢シャーロットは婚約者であるニコルソン王太子殿下に好きな令嬢がいることを知っている。
これまで二度、婚約解消を申し入れても国王夫妻に許してもらえなかったが、王子と隣国の皇女の婚約話を知り、三度目に婚約解消が許された。
実家からも逃げたいシャーロットは平民になりたいと願い、学園を卒業と同時に一人暮らしをするはずが、実家に知られて連れ戻されないよう、結婚することになってしまう。
自由を手に入れて、幸せな結婚まで手にするシャーロットのお話です。
こんな気持ち悪いおっさんと添い遂げる奥さん偉いわ(継続中)😅
完結投稿お疲れ様でした〜🤗
結婚は打算なのです。
尻に敷いておく方が楽、というのは昔はありました♪
あー、なるほど。店員の笑顔に「俺に気がある!」と盛大な勘違いをするナルシストおっさんですか。女の子かわいそ。
そら怖くて気持ち悪くて、手紙になんて触りたくもないわな。
ですよねー!勘違いおっさんはいけませんよ。
よほどの金持ちのおっさんならいざ知らず、小金持ち程度のおっさんでは若い女はメリット無いのでなびきません😮💨
ですよねー!