35 / 35
第35話:研ぎ澄まされた宝石のように
王都の北区。
喧騒から少し離れた、緑豊かな並木道に面した真新しい工房の扉には、美しい金文字の看板が掲げられていた。
「アリアンヌ様、ベルク商会から追加の発注書が届きました。ステラ・カットの新作ライン、非常に好評とのことです」
「ありがとう、トーマス。でも、現在の生産ラインのキャパシティを越える受注は受けられません。品質を落とさないためにも、納期は三ヶ月後で交渉してちょうだい」
「承知いたしました。先方も『アリアンヌ様が手掛けるものであれば、いくらでも待ちます』と仰っていましたよ」
柔らかな日差しが差し込む執務室で、アリアンヌは工程表にペンを走らせながら、ふっと口元を綻ばせた。
トーマスをはじめとする職人たちの顔には、かつてノリス工房で見せていたような、疲労と諦めが混じった暗い影はない。
彼らは皆、自分たちの技術が正当な評価と対価を得られるこの場所で、誇りを持って仕事に取り組んでいた。
アリアンヌがアランに離縁状を叩きつけ、ノリス家を去ってから半年が経過していた。
あの日、王立監査委員会の公開ヒアリングで絶対的な価値を証明したアリアンヌは、その足でこの新しい工房を立ち上げた。
彼女の元には、ノリス工房から引き抜いた熟練職人たちが全員集い、特許権が確定したステラ・カットを用いたジュエリーは、瞬く間に王都の貴族たちの間で不動の人気を獲得した。
「アリアンヌ様、少し休憩にしませんか?」
若い職人の一人が、湯気を立てるティーカップをワゴンに乗せて運んできた。
アリアンヌはペンを置き、背伸びをして凝り固まった肩をほぐした。
「ええ、ありがとう。皆さんも手を止めて、一緒にお茶にしましょう」
アリアンヌの言葉に、工房の奥から職人たちが談笑しながら集まってくる。
それは、かつてアランが口癖のように唱えていたフラットで明るい職場という薄っぺらい幻想ではなく、実務を分担し、互いの技術に敬意を払い、共に泥臭い責任を背負っているからこそ生まれる、本物の連帯感だった。
アリアンヌは、自分の手を見つめた。
研磨作業でついた細かな傷はまだ残っているが、ひび割れは治り、かつてのように荒れ果ててはいない。
自分の技術の価値を理解し、無理な納期を押し付けない環境が、彼女に人間らしい睡眠と休息を与えてくれたのだ。
「そういえば、アリアンヌ様」
紅茶を啜りながら、トーマスが少しだけ声を潜めた。
「先日、王都の南区で……、アラン元伯爵の姿を見かけた者がおりまして」
「……」
「多額の負債を抱え、爵位も返上させられたと聞いていましたが、今は裏町で日雇いの荷運びをしているとか。すっかり痩せこけて、誰かに『気合いが足りないぞ!』と怒鳴られていたそうです」
アリアンヌは、その報告を聞いても、心にさざ波一つ立たなかった。
かつては、彼に理解されないことに絶望し、心を冷たく閉ざしていた。
しかし今となっては、アランのことも、彼に応援という名の寄生をしていたコゼットのことも、アリアンヌの人生には全く関係のない、遠い世界の出来事に過ぎなかった。
「彼らには彼らのお似合いの人生があるのでしょう。私たちには関係のないことです」
アリアンヌは淡々と答え、ティーカップを静かにテーブルに置いた。
他人の労力を搾取し、中身のないポジティブな言葉で現実から目を背けてきた者たちは、その代償を自らの身で支払うしかない。
社会は、精神論だけでは決して動かないのだから。
「それよりも、来月の展示会に向けての準備を進めましょう。ステラ・カットの応用編として、新しい光の屈折パターンを考えているの」
アリアンヌが図面を広げると、職人たちは目を輝かせて机を囲んだ。
「ほう! これはまた、計算が複雑そうですね」
「アリアンヌ様の頭の中は、どうなっているんですか。我々も負けてはいられませんね」
彼らの頼もしい言葉に、アリアンヌは心から笑った。
それは、かつてアランの前で貼り付けていた完璧で美しい、冷たい仮面の微笑みではない。
自分の努力が正当に評価され、自分の技術を愛してくれる人々に囲まれて生きる、一人の女性としての、ごく自然で柔らかな笑顔だった。
「ええ。皆さんの技術を信頼しています。最高のものを、作り上げましょう」
アリアンヌの澄んだアイスブルーの瞳には、希望の光が満ちていた。
理不尽な労働環境と、悪意のない搾取者からの撤退。
その勇気ある決断が、彼女をこの穏やかで満たされた場所へと導いたのだ。
窓から差し込む午後の光が、作業台の上に置かれた原石をキラキラと照らしている。
アリアンヌの人生は今、彼女自身の手によって研ぎ澄まされた宝石のように、誰にも曇らせることのできない、確かな輝きを放ち始めていた。
喧騒から少し離れた、緑豊かな並木道に面した真新しい工房の扉には、美しい金文字の看板が掲げられていた。
「アリアンヌ様、ベルク商会から追加の発注書が届きました。ステラ・カットの新作ライン、非常に好評とのことです」
「ありがとう、トーマス。でも、現在の生産ラインのキャパシティを越える受注は受けられません。品質を落とさないためにも、納期は三ヶ月後で交渉してちょうだい」
「承知いたしました。先方も『アリアンヌ様が手掛けるものであれば、いくらでも待ちます』と仰っていましたよ」
柔らかな日差しが差し込む執務室で、アリアンヌは工程表にペンを走らせながら、ふっと口元を綻ばせた。
トーマスをはじめとする職人たちの顔には、かつてノリス工房で見せていたような、疲労と諦めが混じった暗い影はない。
彼らは皆、自分たちの技術が正当な評価と対価を得られるこの場所で、誇りを持って仕事に取り組んでいた。
アリアンヌがアランに離縁状を叩きつけ、ノリス家を去ってから半年が経過していた。
あの日、王立監査委員会の公開ヒアリングで絶対的な価値を証明したアリアンヌは、その足でこの新しい工房を立ち上げた。
彼女の元には、ノリス工房から引き抜いた熟練職人たちが全員集い、特許権が確定したステラ・カットを用いたジュエリーは、瞬く間に王都の貴族たちの間で不動の人気を獲得した。
「アリアンヌ様、少し休憩にしませんか?」
若い職人の一人が、湯気を立てるティーカップをワゴンに乗せて運んできた。
アリアンヌはペンを置き、背伸びをして凝り固まった肩をほぐした。
「ええ、ありがとう。皆さんも手を止めて、一緒にお茶にしましょう」
アリアンヌの言葉に、工房の奥から職人たちが談笑しながら集まってくる。
それは、かつてアランが口癖のように唱えていたフラットで明るい職場という薄っぺらい幻想ではなく、実務を分担し、互いの技術に敬意を払い、共に泥臭い責任を背負っているからこそ生まれる、本物の連帯感だった。
アリアンヌは、自分の手を見つめた。
研磨作業でついた細かな傷はまだ残っているが、ひび割れは治り、かつてのように荒れ果ててはいない。
自分の技術の価値を理解し、無理な納期を押し付けない環境が、彼女に人間らしい睡眠と休息を与えてくれたのだ。
「そういえば、アリアンヌ様」
紅茶を啜りながら、トーマスが少しだけ声を潜めた。
「先日、王都の南区で……、アラン元伯爵の姿を見かけた者がおりまして」
「……」
「多額の負債を抱え、爵位も返上させられたと聞いていましたが、今は裏町で日雇いの荷運びをしているとか。すっかり痩せこけて、誰かに『気合いが足りないぞ!』と怒鳴られていたそうです」
アリアンヌは、その報告を聞いても、心にさざ波一つ立たなかった。
かつては、彼に理解されないことに絶望し、心を冷たく閉ざしていた。
しかし今となっては、アランのことも、彼に応援という名の寄生をしていたコゼットのことも、アリアンヌの人生には全く関係のない、遠い世界の出来事に過ぎなかった。
「彼らには彼らのお似合いの人生があるのでしょう。私たちには関係のないことです」
アリアンヌは淡々と答え、ティーカップを静かにテーブルに置いた。
他人の労力を搾取し、中身のないポジティブな言葉で現実から目を背けてきた者たちは、その代償を自らの身で支払うしかない。
社会は、精神論だけでは決して動かないのだから。
「それよりも、来月の展示会に向けての準備を進めましょう。ステラ・カットの応用編として、新しい光の屈折パターンを考えているの」
アリアンヌが図面を広げると、職人たちは目を輝かせて机を囲んだ。
「ほう! これはまた、計算が複雑そうですね」
「アリアンヌ様の頭の中は、どうなっているんですか。我々も負けてはいられませんね」
彼らの頼もしい言葉に、アリアンヌは心から笑った。
それは、かつてアランの前で貼り付けていた完璧で美しい、冷たい仮面の微笑みではない。
自分の努力が正当に評価され、自分の技術を愛してくれる人々に囲まれて生きる、一人の女性としての、ごく自然で柔らかな笑顔だった。
「ええ。皆さんの技術を信頼しています。最高のものを、作り上げましょう」
アリアンヌの澄んだアイスブルーの瞳には、希望の光が満ちていた。
理不尽な労働環境と、悪意のない搾取者からの撤退。
その勇気ある決断が、彼女をこの穏やかで満たされた場所へと導いたのだ。
窓から差し込む午後の光が、作業台の上に置かれた原石をキラキラと照らしている。
アリアンヌの人生は今、彼女自身の手によって研ぎ澄まされた宝石のように、誰にも曇らせることのできない、確かな輝きを放ち始めていた。
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで
狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。
一度目は信じた。
二度目は耐えた。
三度目は――すべてを失った。
そして私は、屋上から身を投げた。
……はずだった。
目を覚ますと、そこは過去。
すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。
――四度目の人生。
これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、
同じように裏切られ、すべてを失ってきた。
だから今度は、もう決めている。
「もう、陸翔はいらない」
愛していた。
けれど、もう疲れた。
今度こそ――
自分を守るために、家族を守るために、
私は、自分から手を放す。
これは、三度裏切られた女が、
四度目の人生で「選び直す」物語。
夫は私を愛していないそうなので、遠慮なく離婚します。今さら引き止められても遅いです
藤原遊
恋愛
王妃付き護衛騎士である夫に、「お前を愛したことはない」と告げられた。
理由は単純。
愛などなくても、仕事に支障はないからだという。
──そうですか。
それなら、こちらも遠慮する必要はありませんね。
王妃の機嫌、侍女たちとの関係、贈り物の選定。
夫が「当然のように」こなしていたそれらは、すべて私が整えていたもの。
離婚後、少しずつ歯車は狂い始める。
気づいたときにはもう遅い。
積み上げてきた信用は、静かに崩れていく。
一方で私は、王妃のもとへ。
今さら引き止められても、遅いのです。
前世の旦那様、貴方とだけは結婚しません。
真咲
恋愛
全21話。他サイトでも掲載しています。
一度目の人生、愛した夫には他に想い人がいた。
侯爵令嬢リリア・エンダロインは幼い頃両親同士の取り決めで、幼馴染の公爵家の嫡男であるエスター・カンザスと婚約した。彼は学園時代のクラスメイトに恋をしていたけれど、リリアを優先し、リリアだけを大切にしてくれた。
二度目の人生。
リリアは、再びリリア・エンダロインとして生まれ変わっていた。
「次は、私がエスターを幸せにする」
自分が彼に幸せにしてもらったように。そのために、何がなんでも、エスターとだけは結婚しないと決めた。
【完結】妹ばかり愛され追い出された姉ですが、無口な夫と暮らす日々が幸せすぎます
コトミ
恋愛
セラフィナは、実の親と、妹によって、家から追い出されることとなった。セラフィナがまだ幼い頃、両親は病弱なカタリナのため設備環境が良い王都に移り住んだ。姉のセラフィナは元々両親とともに住んでいた田舎に使用人のマーサの二人きりで暮らすこととなった。お金のない子爵家な上にカタリナのためお金を稼がなくてはならないため、子供二人を王都で暮らすには無理があるとセラフィナだけ残されたのだ。そしてセラフィナが19歳の時、3人が家へ戻ってきた。その理由はカタリナの婚約が上手くいかず王宮にいずらくなったためだ。やっと家族で暮らせると心待ちにしていたセラフィナは帰宅した父に思いがけないことを告げられる。
「お前はジェラール・モンフォール伯爵と結婚することになった。すぐに荷物をまとめるんだ。一週間後には結婚式だ」
困惑するセラフィナに対して、冷酷にも時間は進み続け、結婚生活が始まる。
理想の女性を見つけた時には、運命の人を愛人にして白い結婚を宣言していました
ぺきぺき
恋愛
王家の次男として生まれたヨーゼフには幼い頃から決められていた婚約者がいた。兄の補佐として育てられ、兄の息子が立太子した後には臣籍降下し大公になるよていだった。
このヨーゼフ、優秀な頭脳を持ち、立派な大公となることが期待されていたが、幼い頃に見た絵本のお姫様を理想の女性として探し続けているという残念なところがあった。
そしてついに貴族学園で絵本のお姫様とそっくりな令嬢に出会う。
ーーーー
若気の至りでやらかしたことに苦しめられる主人公が最後になんとか幸せになる話。
作者別作品『二人のエリーと遅れてあらわれるヒーローたち』のスピンオフになっていますが、単体でも読めます。
完結まで執筆済み。毎日四話更新で4/24に完結予定。
第一章 無計画な婚約破棄
第二章 無計画な白い結婚
第三章 無計画な告白
第四章 無計画なプロポーズ
第五章 無計画な真実の愛
エピローグ
【完結】今日も旦那は愛人に尽くしている~なら私もいいわよね?~
コトミ
恋愛
結婚した夫には愛人がいた。辺境伯の令嬢であったビオラには男兄弟がおらず、子爵家のカールを婿として屋敷に向かい入れた。半年の間は良かったが、それから事態は急速に悪化していく。伯爵であり、領地も統治している夫に平民の愛人がいて、屋敷の隣にその愛人のための別棟まで作って愛人に尽くす。こんなことを我慢できる夫人は私以外に何人いるのかしら。そんな考えを巡らせながら、ビオラは毎日夫の代わりに領地の仕事をこなしていた。毎晩夫のカールは愛人の元へ通っている。その間ビオラは休む暇なく仕事をこなした。ビオラがカールに反論してもカールは「君も愛人を作ればいいじゃないか」の一点張り。我慢の限界になったビオラはずっと大切にしてきた屋敷を飛び出した。
そしてその飛び出した先で出会った人とは?
(できる限り毎日投稿を頑張ります。誤字脱字、世界観、ストーリー構成、などなどはゆるゆるです)
側近という名の愛人はいりません。というか、そんな婚約者もいりません。
gacchi(がっち)
恋愛
十歳の時にお見合いで婚約することになった侯爵家のディアナとエラルド。一人娘のディアナのところにエラルドが婿入りする予定となっていたが、エラルドは領主になるための勉強は嫌だと逃げ出してしまった。仕方なく、ディアナが女侯爵となることに。五年後、学園で久しぶりに再会したエラルドは、幼馴染の令嬢三人を連れていた。あまりの距離の近さに友人らしい付き合い方をお願いするが、一向に直す気配はない。卒業する学年になって、いい加減にしてほしいと注意したディアナに、エラルドは令嬢三人を連れて婿入りする気だと言った。
十六歳の妹の誕生日、私はこの世を去る。
あいみ
恋愛
碌に手入れもされていない赤毛の伯爵令嬢、スカーレット。
宝石のように澄んだ青い髪をした伯爵令嬢、ルビア。
対極のような二人は姉妹。母親の違う。
お世辞にも美しいと言えない前妻の子供であるスカーレットは誰からも愛されない。
そばかすだらけで、笑顔が苦手な醜い姉。
天使のように愛らしく、誰からも好かれる可愛い妹。
生まれつき体の弱いルビアは長くは生きられないと宣告されていた。
両親の必死に看病や、“婚約者の献身的なサポート”のおかげで、日常生活が送れるようになるまで回復した。
だが……。運命とは残酷である。
ルビアの元に死神から知らせが届く。
十六歳の誕生日、ルビアの魂は天に還る、と。
美しい愛しているルビア。
失いたくない。殺されてなるものか。
それぞれのルビアを大切に思う想いが、一つの選択をさせた。
生まれてくる価値のなかった、醜いスカーレットを代わりに殺そう、と。
これは彼女が死ぬ前と死んだ後の、少しの物語。