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第5話:方程式と氷の公爵
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王都を出て三日目。
北へ向かう街道は、徐々に舗装が剥がれ、馬車の揺れが激しくなっていました。
私の膝の上で、紅茶のカップがカタカタと音を立てます。
マリーが淹れた紅茶の水面が揺れていますが、決してこぼれることはありません。
彼女が振動の周期に合わせて、絶妙にトレイの角度を調整しているからです。
人間ジャイロスコープですね。
素晴らしい技術です。
「お嬢様、前方に障害物です」
御者の声と共に、馬車が緩やかに停止しました。
私は地図から顔を上げ、窓の外を確認します。
街道の真ん中に、立派な黒塗りの馬車が停まっていました。
車輪の軸が折れたようで、大きく傾いています。
紋章は見えませんが、車体の装飾を見る限り、高位貴族のものでしょう。
「……迂回するには道幅が狭すぎますね」
私は懐中時計を確認しました。
予定より十五分の遅れ。
無視して通り過ぎたいところですが、物理的に通行不可です。
私はため息をつき、ショールを羽織って馬車を降りました。
「マリー、貴女は待機を。少し様子を見てきます」
「護身用のスタンガン(魔導具)をお持ちください」
「助かります」
私はマリーから渡された杖型の護身具を手に、故障車へと近づきました。
近づくにつれ、奇妙な光景が目に入りました。
馬車の周りで御者たちが慌てふためいている傍らで、一人の青年が地面にしゃがみ込んでいるのです。
銀色の長髪。
透き通るようなアイスブルーの瞳。
彫刻のように整った美貌の持ち主ですが、その行動は異常でした。
彼は木の枝を手に持ち、地面の土埃の上に、延々と数式を書き連ねていたのです。
「……負荷係数が想定と異なる。車軸の材質におけるヤング率の誤記か? いや、路面の摩擦抵抗の変数を過小評価していたか?」
ブツブツと呟きながら、彼は一心不乱に計算を続けています。
御者の一人が泣きそうな顔で声をかけていました。
「あ、あの、閣下……、計算は後にして、馬車を持ち上げるのを手伝って……」
「静かにしろ。今、この車軸が折れた物理的要因を解明しなければ、修理しても再発する。これは構造力学的な欠陥の可能性があるんだ」
……なるほど。
変人ですね。
しかし、私は彼の書いている数式を見て、眼鏡の奥で目を細めました。
地面に書かれているのは、応力解析の微分方程式。
かなり高度な式ですが――致命的なミスがあります。
「あの、失礼ですが」
私が声をかけると、青年は煩わしそうに顔だけをこちらに向けました。
「なんだ? 今は忙しい。通行の邪魔なら謝罪するが、この解が出るまで動かせない」
「いえ、そうではなくて。その三行目の積分定数、符号が逆ではありませんか?」
青年動きがピタリと止まりました。
彼は恐ろしい形相で地面を凝視し、それから弾かれたように私を見上げました。
「……なんだと?」
「そこの項です。車軸のねじりモーメントを考慮するなら、そこはマイナスになるはずです。でないと、計算結果が発散して車軸は爆発することになりますよ」
青年は目を見開き、慌てて枝を動かして再計算を始めました。
数秒後。
彼はガバッと立ち上がり、私に詰め寄ってきました。
「正解だ……。君の言う通りだ! 符号が逆だったから、解が収束しなかったんだ!」
あまりの勢いに、私は一歩後ずさりました。
彼は私の肩を掴まんばかりの勢いで(実際には礼儀正しく距離を保ちつつ)、興奮して捲し立てます。
「素晴らしい。この国で、このレベルの解析を理解できる人間がいるとは! 君はどこの教授だ? いや、その若さでは……」
「……ただの通りすがりの投資家ですわ」
私は丁寧に一礼しました。
顔をよく見れば、記憶にある顔立ちです。
社交界には滅多に顔を出さないため、噂でしか聞いたことがありませんでしたが。
「お見受けしたところ、ルーカス・ヴァン・オイラー公爵閣下とお見受けします。現国王陛下の弟君であらせられる」
そう告げると、彼は――ルーカス公爵は、つまらなそうに「ああ」と頷きました。
「そうだ。世間では氷の公爵などと呼ばれているらしいがね。……君の名は?」
「エリーゼ・フォン・ノイマンと申します。元・王太子婚約者ですが、現在はただの無職です」
「ノイマン? ああ、あの歩く計算機と揶揄されていた令嬢か。噂は聞いていたが、まさかこれほどの知性を持っているとは」
彼は初めて、私という人間に興味を持ったようでした。
その瞳は、女性を見る目ではなく、未知の定理を発見した学者の目です。
「それで、エリーゼ嬢。君の指摘のおかげで原因は特定できた。だが、現状が変わったわけではない。予備の車軸はないし、修理には時間がかかる」
「閣下、目的地はどちらへ?」
「北だ。私の領地へ戻る途中だ。兄上と予算委員会で喧嘩をしてね。あんな非論理的な会議に出るくらいなら、領地で論文を書いている方がマシだ」
奇遇ですね。
私も、似たような理由で家を追い出されたところです。
私は瞬時に計算しました。
王弟である彼を味方につけるメリット。
彼の政治力、そして何より、このマニアックなまでの理系脳。
私の計画にとって、彼は最強の変数になり得る。
「でしたら、私の馬車に同乗されませんか? 私も北のノルト領へ向かう途中です」
「……君の馬車に? 見ず知らずの男女が同室というのは、世間体が悪いのではないか?」
「世間体というパラメータを気になさるのですか? 非効率ですわ」
私は微笑みました。
「それに、道中退屈していたのです。先ほどの積分の続きについて、議論相手が欲しいと思っていました」
「……ほう」
ルーカス公爵の口元が、微かに緩みました。
それは、彼が見せた初めての人間らしい表情でした。
「悪くない提案だ。君の馬車の積載量計算が正しければ、私が乗ってもサスペンションは耐えられるだろう」
「ええ、マリーの体重を含めても、あと八十キログラムの余裕があります。閣下はお痩せになっているので問題ありません」
「交渉成立だ」
彼は御者たちに指示を出し、最低限の荷物を持って私の馬車へと乗り込んできました。
狭い車内。
向かい合う座席。
しかし、そこに甘い雰囲気は微塵もありません。
「さて、エリーゼ嬢。先ほどの式の応用だが、流体力学の観点から見ると――」
「ええ、ベルヌーイの定理を適用すべきですね。ですが、魔力干渉を考慮すると……」
馬車が動き出すと同時に、私たちは熱っぽい議論を開始しました。
マリーが呆れた顔で、二人分の新しい紅茶を淹れてくれます。
窓の外の景色など目に入らないほど、濃密で知的な時間が流れていきます。
王都で見捨てた愛などよりも、はるかに刺激的で、生産的な共鳴が、そこにはありました。
こうして私は、最強の、そして少々面倒くさいパートナーを手に入れたのです。
北へ向かう街道は、徐々に舗装が剥がれ、馬車の揺れが激しくなっていました。
私の膝の上で、紅茶のカップがカタカタと音を立てます。
マリーが淹れた紅茶の水面が揺れていますが、決してこぼれることはありません。
彼女が振動の周期に合わせて、絶妙にトレイの角度を調整しているからです。
人間ジャイロスコープですね。
素晴らしい技術です。
「お嬢様、前方に障害物です」
御者の声と共に、馬車が緩やかに停止しました。
私は地図から顔を上げ、窓の外を確認します。
街道の真ん中に、立派な黒塗りの馬車が停まっていました。
車輪の軸が折れたようで、大きく傾いています。
紋章は見えませんが、車体の装飾を見る限り、高位貴族のものでしょう。
「……迂回するには道幅が狭すぎますね」
私は懐中時計を確認しました。
予定より十五分の遅れ。
無視して通り過ぎたいところですが、物理的に通行不可です。
私はため息をつき、ショールを羽織って馬車を降りました。
「マリー、貴女は待機を。少し様子を見てきます」
「護身用のスタンガン(魔導具)をお持ちください」
「助かります」
私はマリーから渡された杖型の護身具を手に、故障車へと近づきました。
近づくにつれ、奇妙な光景が目に入りました。
馬車の周りで御者たちが慌てふためいている傍らで、一人の青年が地面にしゃがみ込んでいるのです。
銀色の長髪。
透き通るようなアイスブルーの瞳。
彫刻のように整った美貌の持ち主ですが、その行動は異常でした。
彼は木の枝を手に持ち、地面の土埃の上に、延々と数式を書き連ねていたのです。
「……負荷係数が想定と異なる。車軸の材質におけるヤング率の誤記か? いや、路面の摩擦抵抗の変数を過小評価していたか?」
ブツブツと呟きながら、彼は一心不乱に計算を続けています。
御者の一人が泣きそうな顔で声をかけていました。
「あ、あの、閣下……、計算は後にして、馬車を持ち上げるのを手伝って……」
「静かにしろ。今、この車軸が折れた物理的要因を解明しなければ、修理しても再発する。これは構造力学的な欠陥の可能性があるんだ」
……なるほど。
変人ですね。
しかし、私は彼の書いている数式を見て、眼鏡の奥で目を細めました。
地面に書かれているのは、応力解析の微分方程式。
かなり高度な式ですが――致命的なミスがあります。
「あの、失礼ですが」
私が声をかけると、青年は煩わしそうに顔だけをこちらに向けました。
「なんだ? 今は忙しい。通行の邪魔なら謝罪するが、この解が出るまで動かせない」
「いえ、そうではなくて。その三行目の積分定数、符号が逆ではありませんか?」
青年動きがピタリと止まりました。
彼は恐ろしい形相で地面を凝視し、それから弾かれたように私を見上げました。
「……なんだと?」
「そこの項です。車軸のねじりモーメントを考慮するなら、そこはマイナスになるはずです。でないと、計算結果が発散して車軸は爆発することになりますよ」
青年は目を見開き、慌てて枝を動かして再計算を始めました。
数秒後。
彼はガバッと立ち上がり、私に詰め寄ってきました。
「正解だ……。君の言う通りだ! 符号が逆だったから、解が収束しなかったんだ!」
あまりの勢いに、私は一歩後ずさりました。
彼は私の肩を掴まんばかりの勢いで(実際には礼儀正しく距離を保ちつつ)、興奮して捲し立てます。
「素晴らしい。この国で、このレベルの解析を理解できる人間がいるとは! 君はどこの教授だ? いや、その若さでは……」
「……ただの通りすがりの投資家ですわ」
私は丁寧に一礼しました。
顔をよく見れば、記憶にある顔立ちです。
社交界には滅多に顔を出さないため、噂でしか聞いたことがありませんでしたが。
「お見受けしたところ、ルーカス・ヴァン・オイラー公爵閣下とお見受けします。現国王陛下の弟君であらせられる」
そう告げると、彼は――ルーカス公爵は、つまらなそうに「ああ」と頷きました。
「そうだ。世間では氷の公爵などと呼ばれているらしいがね。……君の名は?」
「エリーゼ・フォン・ノイマンと申します。元・王太子婚約者ですが、現在はただの無職です」
「ノイマン? ああ、あの歩く計算機と揶揄されていた令嬢か。噂は聞いていたが、まさかこれほどの知性を持っているとは」
彼は初めて、私という人間に興味を持ったようでした。
その瞳は、女性を見る目ではなく、未知の定理を発見した学者の目です。
「それで、エリーゼ嬢。君の指摘のおかげで原因は特定できた。だが、現状が変わったわけではない。予備の車軸はないし、修理には時間がかかる」
「閣下、目的地はどちらへ?」
「北だ。私の領地へ戻る途中だ。兄上と予算委員会で喧嘩をしてね。あんな非論理的な会議に出るくらいなら、領地で論文を書いている方がマシだ」
奇遇ですね。
私も、似たような理由で家を追い出されたところです。
私は瞬時に計算しました。
王弟である彼を味方につけるメリット。
彼の政治力、そして何より、このマニアックなまでの理系脳。
私の計画にとって、彼は最強の変数になり得る。
「でしたら、私の馬車に同乗されませんか? 私も北のノルト領へ向かう途中です」
「……君の馬車に? 見ず知らずの男女が同室というのは、世間体が悪いのではないか?」
「世間体というパラメータを気になさるのですか? 非効率ですわ」
私は微笑みました。
「それに、道中退屈していたのです。先ほどの積分の続きについて、議論相手が欲しいと思っていました」
「……ほう」
ルーカス公爵の口元が、微かに緩みました。
それは、彼が見せた初めての人間らしい表情でした。
「悪くない提案だ。君の馬車の積載量計算が正しければ、私が乗ってもサスペンションは耐えられるだろう」
「ええ、マリーの体重を含めても、あと八十キログラムの余裕があります。閣下はお痩せになっているので問題ありません」
「交渉成立だ」
彼は御者たちに指示を出し、最低限の荷物を持って私の馬車へと乗り込んできました。
狭い車内。
向かい合う座席。
しかし、そこに甘い雰囲気は微塵もありません。
「さて、エリーゼ嬢。先ほどの式の応用だが、流体力学の観点から見ると――」
「ええ、ベルヌーイの定理を適用すべきですね。ですが、魔力干渉を考慮すると……」
馬車が動き出すと同時に、私たちは熱っぽい議論を開始しました。
マリーが呆れた顔で、二人分の新しい紅茶を淹れてくれます。
窓の外の景色など目に入らないほど、濃密で知的な時間が流れていきます。
王都で見捨てた愛などよりも、はるかに刺激的で、生産的な共鳴が、そこにはありました。
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