婚約破棄ですか? 損切りの機会を与えてくださり、本当にありがとうございます

水上

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第9話:命をつなぐ勾配

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 工事開始から四日目。
 ノルト領の荒野には、規則正しいツルハシの音が響き渡っていました。

 それは、これまで死の沈黙に支配されていたこの土地が刻む、新しい心拍のようでした。

「――ストップ! そこ、掘りすぎだ!」

 ルーカス閣下の怒声が飛びました。
 作業の手を止めた村人の若者が、不満げに顔を上げます。

「なんだよ、偉そうに。深く掘ったほうが水がたくさん流れるだろうが」

「馬鹿者。水理学を舐めるな」

 ルーカス閣下は、三脚に据えた測量儀を指差しながら、埃まみれの顔で説教を始めました。

「我々が目指している勾配は、1/300だ。三百メートル進んで、ようやく一メートル下がる。この絶妙な角度だけが、水路を壊さず、かつ澱ませずに水を運ぶことができる」

「はあ? そんな平坦で水が流れるわけねえだろ!」

「流れるんだ。重力加速度は嘘をつかない。逆に、君のように深く掘りすぎて急勾配にすれば、流速が上がりすぎて底面が侵食され、数年で水路は崩壊する」

 若者はチンプンカンプンといった顔です。
 私は現場監督用のテントから出て、冷たい麦茶(貴重な備蓄の茶葉を使いました)を差し入れつつ、助け舟を出しました。

「聞いてください。急な坂道でお金を転がすとどうなります?」

「へ? そりゃあ、勢いよく転がって……、どこかへ行っちまうな」

「ええ。逆に、平らな道だと動きませんね。水も同じです。速すぎれば資産(水路)を削り取り、遅すぎれば負債(土砂)が溜まる。長く安定して利益を得るには、適正なペース配分が必要なのです」

 若者は首を傾げながらも、「まあ、嬢ちゃんが言うなら……」と渋々納得して作業に戻りました。
 食料の現物支給と、私の分かりやすい(?)経済的例え話のおかげで、彼らの信頼度は徐々に向上しています。

 しかし、問題は人の心ではなく、物理的な障害でした。

 工事七日目。
 最大の危機が発生しました。

「……こいつは無理だ。人間の手じゃあ、どうにもならねえ」

 現場の空気が凍りついています。
 水路のルート上に、巨大な岩盤が立ち塞がっていたのです。
 黒光りする硬質な花崗
 。ツルハシの刃が立つどころか、弾かれて火花が散るだけです。

「迂回ルートは?」

「ありません、お嬢様」

 マリーが図面を見ながら即答します。 

「ここを避ければ、勾配の計算が狂い、水は村まで届きません」

 村長ハンスさんが、地面にツルハシを投げ捨てました。

「やっぱり駄目だったんだ。魔法使いがいなきゃ、この岩は砕けねえ。ここまでやったが、終わりだ」

 その言葉が伝染し、作業員たちの間に諦めの溜息が広がります。
 これが、学習性無力感。
 彼らは長年、魔法という特権技術を持たない自分たちの無力さを刷り込まれてきました。

 私は懐中時計を見ました。
 午後二時。
 太陽は最も高く、岩肌を焼き付けています。

「ルーカス閣下。岩の表面温度は?」

「直射日光で六十度近くまで上昇している。……まさか、エリーゼ嬢、あれをやる気か?」 

「ええ。物理法則は、魔法使いだけの特権ではありませんから」

 私は村人たちに向き直り、声を張り上げました。

「諦めるのは早いです! 今すぐ、調理場から薪と一番安い酢を全て持ってきなさい!」

「酢だあ? 料理でもする気かよ!」

「いいから急いで! これは化学実験です!」

 私の剣幕に押され、村人たちが樽を運んできました。
 私は岩の周りに薪を積み上げさせ、火を放ちました。
 燃え盛る炎が、真夏の太陽で熱せられた岩を、さらに灼熱地獄へと変えていきます。

「もっと! 岩が赤くなるまで燃やしなさい!」

 一時間後。

 岩は数百度の熱を持ち、陽炎が揺らめいています。
 村人たちは汗だくで遠巻きに見ています。

「今です! 酢をかけなさい!」

 私の合図で、数人がかりで樽を傾けました。
 大量の酢が、灼熱の岩にかかります。

 凄まじい蒸気と、鼻をつく酸の匂いが立ち込めました。
 そして……。

 雷のような音が響き、巨大な一枚岩に、無数の亀裂が走りました。

 熱衝撃による破壊。
 急激な温度変化による膨張と収縮の差が、硬い岩の結合を内側から引き裂いたのです。
 さらに酢酸が岩の成分(カルシウム)と反応し、脆くしています。

「さあ、叩きなさい! 今ならガラス細工のように砕けるはずです!」

 呆然としていた若者が、恐る恐るツルハシを振り下ろしました。
 すると、先ほどまで刃が立たなかった岩が、ボロボロと崩れ落ちました。

「く、砕けた……。砕けたぞおおお!」

「魔法じゃねえ! 酢と火で砕いたんだ!」

「うおおおおおっ!」

 歓声が上がりました。
 それは単に岩が砕けた喜びではなく、彼らの中にあった、魔法がなければ何もできない、という呪いが砕けた瞬間でした。

「やれやれ。君は岩だけでなく、常識まで粉砕するのが好きらしい」

 ルーカス様が私の隣で、煤だらけの顔で笑っています。

「これは投資ですわ、閣下。彼らに自信という資産を持たせるための」

 私はハンカチで額の汗を拭いました。
 目の前では、村人たちが狂ったように岩を砕き、道を開いています。
 その背中は、昨日までとは別人のように頼もしく見えました。

 障害はクリアされました。
 あとは、この道を水で満たすだけです。
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