婚約破棄ですか? 損切りの機会を与えてくださり、本当にありがとうございます

水上

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第10話:青き資産の開通式

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 工事開始から十四日目。
 ついに、その瞬間が訪れました。

 ノルト領の村の広場には、完成したばかりの水路の終点となる貯水池――今はまだ、ただの巨大な穴ですが――を囲むように、全住民が集結していました。

 全員、顔は土埃で真っ黒。
 手には血豆と切り傷。
 服はボロボロです。

 しかし、その瞳には、二週間前のような濁った諦めはありません。
 あるのは、焦げるような期待と、わずかな不安。

「時間です、お嬢様」

 マリーが懐中時計を差し出しました。
 正午。
 太陽が真上に来た時、約束の刻限です。

「始めましょう」

 私は頷き、手に持っていた小さな手鏡を太陽に向けました。
 角度を調整し、十二キロメートル彼方、山の中腹にいるルーカス閣下に向けて反射光を送ります。

 光による通信。
 単純ですが、光速で伝わる最も速いシグナルです。

 数秒後。

 山の方角から、キラリと鋭い光が返ってきました。
 水門開放の合図です。

 ゴクリ、と誰かが唾を飲み込む音が聞こえました。
 最初は、何も起きません。
 風の音だけが、乾いた荒野を吹き抜けていきます。

「……やっぱり、ダメなんじゃねえか?」

 若者の一人が不安そうに呟いた、その時でした。

 地響きのような、あるいは遠雷のような低い音が、大地の底から響き始めました。
 音は次第に大きくなり、やがて水路の上流から、白い飛沫が見え始めます。

「み、水だ……」

「水が来たぞおおお!!」

 叫び声と共に、濁流が押し寄せました。
 計算された1/300の勾配を滑り落ちてきた雪解け水は、巨大な運動エネルギーの塊となって、村まで到達したのです。

 乾ききった貯水池に、激しい勢いで水が流れ込みます。
 最初は土埃を巻き込んで茶色かった水は、やがて透き通った青色へと変わり、水位を上げていきました。

 冷気を含んだ風が、広場に吹き渡ります。
 それは砂の匂いではなく、生命の匂いでした。

「水だ……、本物の、水だ……」

 村長のハンスさんが、よろよろと貯水池の縁に歩み寄りました。
 彼は震える手で水を掬い、顔を洗いました。
 そして、濡れた顔を上げた時、その目から溢れていたのは、水滴なのか涙なのか、区別がつきませんでした。

「う、ううっ……。魔法使いもいねえのに……、俺たちが、俺たちの手で、水を引いたんだ……」

 その言葉を皮切りに、歓声が爆発しました。
 抱き合って喜ぶ者、水路に飛び込む子供たち、天を仰いで神ではなく、物理法則に感謝する者。

 私はその光景を、少し離れた場所から静かに眺めていました。
 手帳を開き、水資源確保:完了の項目にチェックを入れます。

 これで、生存に必要な最低ラインは超えましたね。

 この水があれば、作物が育ちます。衛生環境が改善し、労働人口も増えるでしょう。
 水はただの液体ではありません。
 経済活動における血液です。

「……感動的な光景だな」

 いつの間にか山から戻ってきたルーカス閣下が、私の隣に立っていました。
 彼もまた、泥だらけの姿でしたが、そのアイスブルーの瞳は満足げに輝いています。

「閣下の流速計算、完璧でしたわ。一分一秒の狂いもなく到達しました」

「君の設計こそ見事だった。あの岩盤破砕のアイデアがなければ、工期は守れなかっただろう」

 私たちは視線を交わし、ふっと笑い合いました。
 言葉以上のものが通じ合う瞬間。
 それは恋愛感情という不確定な変数よりも、もっと強固な信頼という定数でした。

「エリーゼ嬢。これで第一段階は終了だ。次はどうする?」

 ルーカス閣下の問いに、私は広場の向こう、廃材の山と化した古い家々を見据えました。

「衣食住の住。そして産業基盤の確立です。水があっても、住む場所が廃墟では人は定着しません」

 私は眼鏡のブリッジを押し上げ、不敵に宣言しました。

「王都が捨てた廃材を使って、世界で一番美しい街を作りましょう。リリィ様が羨んで地団駄を踏むような、宝石箱のような街をね」

 広場では、まだ歓声が止まりません。
 その熱狂を背に、私たちは次の計算を始めていました。
 荒野の開拓は終わりました。
 ここからは、文明の構築です。

 私の復讐劇は、まだ序章に過ぎません。
 この水が、やがて大河となって王都の経済を飲み込むその日まで、私の計算の手が止まることはないのです。
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