婚約破棄ですか? 損切りの機会を与えてくださり、本当にありがとうございます

水上

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第14話:効率賃金と職人たちの夜逃げ

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 垂直農法タワーの成功により、ノルト領はかつてない食料の豊かさを手に入れました。

 真っ赤なトマト、瑞々しいレタス。
 倉庫には穀物が積み上がり、餓死の恐怖は過去のものとなりました。

 しかし、領主館の執務室――元は廃屋のダイニングでしたが、今では磨き上げられた廃材のテーブルが置かれています――で、私は新たな課題に直面していました。

「……鍋が足りませんわね」

 私は在庫リストを見ながら呟きました。

「トマトスープを作るための鍋も、農具を修理する金槌も、服を縫う針も不足しています。食料というソフトは整いましたが、産業基盤というハードが圧倒的に欠けています」

 向かいの席で、水路のメンテナンス計画を練っていたルーカス閣下が顔を上げました。

「輸入すればいいのではないか? 農作物の輸出益があるだろう」

「短期的にはそうします。ですが、それでは付加価値が外部に流出するだけです。この領地で鉄を打ち、革をなめし、製品を作る。そうして初めて経済圏は自立します」

 私は眼鏡のブリッジを押し上げ、結論を述べました。

「職人が必要です。それも、一級品の技術を持ったプロフェッショナルたちが」

「だが、腕利きの職人は王都に店を構えているだろう? こんな辺境に来てくれるものか?」

「来ますよ。……いえ、状況を作り出すのです」

 私は手帳に一つの数式を書きました。
 それは経済学における、効率賃金仮説に基づく計算式でした。

     *

 一方、その頃の王都。
 下町の鉄工所街は、重苦しい空気に包まれていました。

 鍛冶場から響く音には覇気がなく、煤けた路地には失業者が溢れています。

「おい、ガンツ。また税金が上がるってよ」

 老舗の鍛冶屋、鉄の腕の親方ガンツは、隣の革細工師の言葉にハンマーを叩きつけました。

「ふざけんじゃねえ! 先月も王太子妃殿下のドレス代だとかで、売上の三割を持っていかれたばかりだぞ!」

「今度は王都美化税だとさ。メインストリートをピンク色にする工事費が足りないらしい」

「ピンク色だあ!? そんなくだらねえことのために、俺たちの血と汗を吸い上げるってのか!」

 ガンツは地団駄を踏みました。
 彼は腕利きの鍛冶師です。
 かつては王家の剣も打っていましたが、最近は支払いが滞納続き。
 材料費すら賄えず、弟子たちに給料を払うこともままなりません。

 技術への敬意も、労働への対価もない。
 あるのは理不尽な搾取だけ。
 職人としての誇りが、王都の泥にまみれていく感覚でした。

 そんな時です。
 ふらりと店に入ってきた旅の商人が、ガンツに一枚の羊皮紙を渡したのは。

「……なんだこりゃ? 求人票?」

 ガンツは眉をひそめて紙を読み上げました。

『急募:鍛冶師、大工、革細工師。経験者優遇』

『勤務地:ノルト領』

『給与:王都平均相場の1.5倍を保証(金貨での即日払い)』

『福利厚生:断熱材入り住居完備、新鮮な野菜食べ放題、温泉(予定)あり』

 ガンツの手が震えました。

「い、1.5倍だと? それに、この断熱材入り住居ってのは噂の……」

「旦那、これだけじゃありませんぜ」

 商人が声を潜めて囁きました。

「向こうの領主様は、技術ってものを正しく理解してなさる。『良い仕事には良い報酬を』。それがノイマン様の口癖だそうで」

 良い仕事には、良い報酬を。
 当たり前のことですが、今の王都では失われてしまった理です。

 ガンツは店内を見回しました。
 寒さに震えながら、空きっ腹を抱えて作業する弟子たち。
 冷え切った暖炉。

「……おい、野郎ども」

 ガンツは低い声で呼びかけました。

「荷物をまとめろ。大事な道具だけ持ってりゃいい」

「親方? どこへ行くんです?」

「決まってんだろ。俺たちの腕を、ちゃんとしてくれる場所だ」

 その夜、王都の裏門から、奇妙な行列が続々と出ていきました。

 鍛冶師、大工、ガラス職人、縫製士。
 王都の産業を支えてきた熟練工たちが、家族を連れ、家財道具を荷車に積んで夜逃げを始めたのです。

 衛兵が止めようとしましたが、彼らは手に通行許可証を持っていました。
 それは、私が事前に商会を通じたルートで配布しておいたものでした。

     *

 数日後、ノルト領。
 続々と到着する馬車の列を、私は領主館のテラスから出迎えました。

「お嬢様、すごい数です。王都のギルドから、マイスター級の職人が二十名以上も」

 マリーが驚きの声を上げます。

「当然の結果です。高い給料を提示することは、慈善事業ではありません」

 私はルーカス閣下に説明しました。

「市場相場より高い賃金を払うことで、労働者の離職を防ぎ、やる気を引き出し、より優秀な人材を選別できる。結果として、生産性は賃金上昇分以上に向上し、トータルコストは下がる。これが効率賃金仮説です」

「なるほど。安物買いの銭失いをしている王都とは逆を行くわけか」

 広場では、ガンツ親方が涙を流しながら、支給されたトマトにかぶりついていました。

 そして、用意された工房――廃材のブリコラージュで作られた、機能的で暖かい仕事場――を見て、彼は私の前に跪きました。

「領主様……。こんな立派な工房を、俺たちに使わせてくれるんですか?」

「ええ。ただし、条件があります」

 私は彼に、設計図の束を渡しました。

「貴方の技術で、この図面にある新型農具と水力加工機を作ってください。期待していますよ、マイスター」

「へい! へい! 俺の命に代えても、すげえもんを作ってみせまさぁ!」

 ガンツ親方の瞳に、職人の炎が戻りました。

 こうして、ノルト領に技術というピースが埋まりました。
 水、食料、住居、そして産業。
 国としての骨格が出来上がりつつあります。

 一方、技術者を失った王都がどうなるか。
 馬の蹄鉄一つ直せなくなり、王太子殿下の軍靴の底が剥がれる日も、そう遠くはないでしょう。

 私の復讐は、真綿で首を絞めるように、確実に進行しているのです……。
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