婚約破棄ですか? 損切りの機会を与えてくださり、本当にありがとうございます

水上

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第15話:歯車と産業革命

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 ノルト領に、新しい音が加わりました。
 それは、大地を叩くツルハシの音でも、風の音でもありません。

 重低音を響かせて回り続ける、巨大な水車の音です。

「すげえ……。なんてパワーだ!」

 新設された工業地区。
 その中心にある鍛冶工房で、ガンツ親方の叫び声が轟きました。
 彼の目の前では、川から引き込んだ水流を動力源とする巨大な鉄槌が、一定のリズムで赤熱した鉄塊を打ち続けています。

 人間の腕力では到底不可能な重い一撃が、硬い鉄を粘土のように変形させていきます。

「見てください、お嬢様! こいつは化け物だ! 俺たちが三人がかりで半日かけて叩く鉄板が、たった数分でペラペラになりやがる!」

 ガンツ親方は、まるで新しい玩具を与えられた子供のように目を輝かせていました。

「これが、水力ハンマーです」

 私は騒音に負けないよう声を張りました。

「水の位置エネルギーを運動エネルギーに変換し、カム機構を介して往復運動に変える。職人の腕は仕上げや調整といった高度な作業に集中させ、単純な力仕事はすべて水に任せるのです」

 隣で腕を組んでいたルーカス閣下が、満足げに頷きます。

「トルク計算は適正値だ。水流の変動に合わせてギア比を変えられるよう変速機も組み込んである。完璧な物理運動だ」

 この水車動力は、鍛冶場だけではありません。
 隣の製材所では巨大な丸鋸を回転させ、製粉所では石臼を回しています。

 王都では、これら全てを人力か、高価な奴隷、あるいは気まぐれな風の精霊に頼っています。
 しかし、私たちは二十四時間疲れを知らない重力と水を手に入れました。

「生産性は王都の手作業工房と比較して、約五倍向上しました」

 私は手帳に数字を書き込みました。

「これで、農具も、建材も、生活用品も、爆発的な速度で量産可能です。まさに産業革命の夜明けですわ」

 その時でした。
 工房の外が何やら騒がしくなりました。

「お嬢様! 王都からの使いだという馬車が!」

 マリーの報告を受け、私とルーカス閣下は工房を出ました。
 そこには、泥だらけの車輪をした、豪華な装飾の馬車が停まっていました。
 王家の紋章が入っています。

 馬車から降りてきたのは、ふくよかな体型に、脂ぎった顔をした貴族の男でした。
 確か、財務省の徴税官、ボルゾイ子爵です。

「オッホン! ……なんと埃っぽい場所だ。これだから辺境は嫌なのだ」

 ボルゾイ子爵はハンカチで鼻を押さえながら、周囲をねめ回しました。
 しかし、彼の視線はすぐに驚愕に変わりました。

 廃材で作られた美しいモザイク模様の街並み。
 空に伸びる緑の塔。
 そして、響き渡る産業の轟音。

「な、なんだこれは? ここは不毛の地ノルト領のはず……」

「ようこそ、ボルゾイ子爵。当領地になにかご用でしょうか?」

 私が進み出ると、彼はハッと我に返り、尊大な態度を取り戻しました。

「うむ。エリーゼ・フォン・ノイマンだな。本日は王太子殿下の代理として、特別税の徴収に参った」

「特別税?」

「そうだ。貴様が王都から多くの職人を不当に引き抜いた件についてだ。これは人材強奪税および技術流出補填金として、金貨五億枚を支払ってもらう!」

 金貨五億枚。
 私が父から巻き上げた手切れ金と同額です。
 どうやら、こちらの懐事情を探り、資金を全額吐き出させて事業を潰すつもりですね。

「……ふっ」

 私は思わず吹き出してしまいました。

「な、何がおかしい!」

「いえ、あまりに法的な根拠が稚拙でしたので」

 私はマリーから書類ケースを受け取り、一枚の羊皮紙を取り出しました。

「子爵。ここにあるのは、私がノルト領の統治権を譲渡された際の契約書です。父ノイマン侯爵と王家の印がございます」

 私は契約書の第十条を指差しました。

「『本領地は今後十年間、王都への納税義務を免除され、独自乃裁量権を持つ経済特区とする』。……この条文は、王家が『どうせ税など取れない不毛の地だ』と判断して認めたものです。今さら撤回はできませんよ」

「ぐっ……、し、しかし、新たな法律を作れば……」

「法の不遡及をご存じないのですか? 事後に定めた法で、過去の行為を罰することはできません。これは法治国家の基礎です」

 私は一歩踏み出しました。
 背後では、巨大な水力ハンマーがドスン、ドスンと、まるで私の言葉を後押しするように地響きを立てています。

「それに、職人たちは強奪されたのではありません。貴方たちが正当な対価を払わないから、自らの意思で市場原理に従って移動したのです。文句があるなら、彼らを引き留められるだけの魅力的な待遇を用意することですね」

「き、貴様……、王家に逆らう気か!」

「逆らってなどいません。契約(ルール)を遵守しているだけです」

 私は眼鏡の奥から冷ややかな視線を送りました。

「お引き取りください。それとも、この水力ハンマーの威力を、その贅肉で試してみますか?」

 ガンツ親方が、真っ赤に焼けた鉄の棒を持って、ニヤリと笑いながら前に出ました。
 ボルゾイ子爵は悲鳴を上げ、転がるように馬車へ逃げ込みました。

「覚えておれ! 殿下が黙っていないぞ!」

 捨て台詞を残し、馬車は逃げるように去っていきました。

「……やれやれ。これで王都にも知れ渡ったな」

 ルーカス閣下が、遠ざかる馬車を見送って呟きました。

「ええ。ここがもはや、搾取できるゴミ捨て場ではなく、無視できない勢力になったことが……」

 私は手帳を開きました。
 今日この瞬間から、フェーズが変わります。
 これまでは内政の時間でしたが、これからは外圧との戦いが始まります。

「向こうは次に何をしてくると思う?」

「力押しでしょうね。物理的な嫌がらせ……、おそらくは物流の封鎖あたりかと」

 私は工業地区の煙突を見上げ、不敵に微笑みました。

「望むところです。彼らが街道を塞ぐなら、私たちは地図を書き換えましょう。……さあ、次の計算の始まりですわ」
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