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第3話:夫の幼馴染みの無自覚なマウント
昼下がりの工房は、オーブンの熱気と職人たちの活気に満ちていた。
イレーネは焼き上がったばかりの新作菓子の状態を一つ一つ確認しながら、手元の帳簿に細かくメモを書き込んでいく。
徹夜明けの身体は鉛のように重かったが、立ち止まればそのまま意識を手放してしまいそうだったため、あえてせわしなく動き回っていた。
「奥様、少し休んでくだせえ。顔色が悪すぎますぜ」
太い腕に火傷の痕をいくつも持つベテラン職長のダニエルが、見かねたように声をかけてきた。
彼のぶっきらぼうな口調には、現場の実務を一身に背負うイレーネへの確かな敬意と案じが含まれていた。
「ありがとうございます、ダニエル。でも、明後日のパーティーに向けて、この生地の寝かせ時間をあと十五分調整したいのです。ここが味の決め手になりますから」
「……奥様がそう言うなら止めやしませんが。あまり無理をなさらないように……」
ダニエルが渋々作業に戻ろうとしたその時、工房の重厚な扉が無遠慮に開かれた。
「フェリクス様ぁ、ここがあの有名なリュミエールの厨房なんですねぇ! すごぉい、お砂糖のいい匂い!」
舌足らずで甘えるような高い声と共に、ふわりと安っぽく甘ったるい香水の匂いが流れ込んできた。
イレーネは思わず眉をひそめそうになるのを、すんでのところで堪えた。
繊細な香りを扱う菓子工房において、強い香水は御法度だ。
しかし、注意の言葉を飲み込まざるを得なかったのは、声の主の隣に、工房のオーナーである夫、フェリクスが立っていたからだ。
「そうだよ、アニエス。ここが僕の自慢の店さ。――やあ、イレーネ。仕事中すまないね」
フェリクスは悪びれる様子もなく、小柄で華奢な令嬢をエスコートして足を踏み入れた。
アニエス・ローラン男爵令嬢。
フェリクスの幼馴染みであり、没落寸前の実家を持つ彼女は、ヴァルトハイム伯爵家からの――正確には、イレーネが血の滲むような思いで稼ぎ出した工房の利益からの――多大な援助を受けて、のうのうと暮らしている。
ふんわりとしたパステルピンクのドレスに身を包み、大きな潤んだ瞳を瞬かせる彼女はどこからどう見ても、庇護されるべき可憐な存在を体現していた。
「ごきげんよう、イレーネ様! お邪魔してごめんなさい。フェリクス様が、どうしても私に新しい工房を見せたいっておっしゃるから……」
アニエスは申し訳なさそうに小首を傾げてみせたが、その目はまっすぐにイレーネの顔――より正確には、化粧気のない肌と、目の下の濃い隈――を捉えていた。
「まあ、イレーネ様。お顔の色が……、とてもお疲れのようですねぇ」
「ええ。明後日の新作発表に向けて、少し立て込んでおりますので」
イレーネが淡々と、事実だけを静かに述べると、アニエスは両手を頬に当てて大げさにため息をついた。
「本当に、奥様は強くて働き者でいらっしゃって、羨ましいです。私なんて、少し寝不足になっただけですぐに倒れてしまうくらい体が弱くて……。フェリクス様にも『君は一人じゃ何もできないんだから』って、いつも心配をおかけしてばかりで」
言葉の表面上はイレーネを褒め、自分を下げているように聞こえる。
しかし、同性であるイレーネには、その裏に隠された鋭い棘がはっきりと見えていた。
『あなたは女を捨ててあくせく働いていて可哀想。私なんて何もしなくても、フェリクス様に守ってもらえるのよ』
無自覚なのか、あるいは計算し尽くされたものなのか。
どちらにせよ、有能な女を可愛げがないと暗に見下す、典型的なマウントだった。
「アニエスは昔から不器用だからね。お茶を淹れさせても火傷をするし、書類なんて見たら三秒で眠ってしまう。僕がついていてやらないと、本当に危なっかしくて見ていられないんだ」
フェリクスは困ったように笑いながらも、その声には自分を頼りにしてくれる無力な存在に対する優越感と、強い庇護欲が滲み出ていた。
彼はアニエスの肩を軽く叩き、イレーネに向かって爽やかに言う。
「イレーネのように何でも一人で完璧にこなせる強い女性も素晴らしいけれど、アニエスのような手のかかる女の子も、放っておけないだろう? 彼女の実家は今、資金繰りで苦労しているからね。僕の力で、少しでもこの子の笑顔を守ってやりたいんだよ」
(……その力とは、一体誰が昼夜問わず働いて生み出したものだと思っているのですか)
イレーネの胸の奥で、冷たい黒い感情がふつふつと泡立ちそうになった。
イレーネは焼き上がったばかりの新作菓子の状態を一つ一つ確認しながら、手元の帳簿に細かくメモを書き込んでいく。
徹夜明けの身体は鉛のように重かったが、立ち止まればそのまま意識を手放してしまいそうだったため、あえてせわしなく動き回っていた。
「奥様、少し休んでくだせえ。顔色が悪すぎますぜ」
太い腕に火傷の痕をいくつも持つベテラン職長のダニエルが、見かねたように声をかけてきた。
彼のぶっきらぼうな口調には、現場の実務を一身に背負うイレーネへの確かな敬意と案じが含まれていた。
「ありがとうございます、ダニエル。でも、明後日のパーティーに向けて、この生地の寝かせ時間をあと十五分調整したいのです。ここが味の決め手になりますから」
「……奥様がそう言うなら止めやしませんが。あまり無理をなさらないように……」
ダニエルが渋々作業に戻ろうとしたその時、工房の重厚な扉が無遠慮に開かれた。
「フェリクス様ぁ、ここがあの有名なリュミエールの厨房なんですねぇ! すごぉい、お砂糖のいい匂い!」
舌足らずで甘えるような高い声と共に、ふわりと安っぽく甘ったるい香水の匂いが流れ込んできた。
イレーネは思わず眉をひそめそうになるのを、すんでのところで堪えた。
繊細な香りを扱う菓子工房において、強い香水は御法度だ。
しかし、注意の言葉を飲み込まざるを得なかったのは、声の主の隣に、工房のオーナーである夫、フェリクスが立っていたからだ。
「そうだよ、アニエス。ここが僕の自慢の店さ。――やあ、イレーネ。仕事中すまないね」
フェリクスは悪びれる様子もなく、小柄で華奢な令嬢をエスコートして足を踏み入れた。
アニエス・ローラン男爵令嬢。
フェリクスの幼馴染みであり、没落寸前の実家を持つ彼女は、ヴァルトハイム伯爵家からの――正確には、イレーネが血の滲むような思いで稼ぎ出した工房の利益からの――多大な援助を受けて、のうのうと暮らしている。
ふんわりとしたパステルピンクのドレスに身を包み、大きな潤んだ瞳を瞬かせる彼女はどこからどう見ても、庇護されるべき可憐な存在を体現していた。
「ごきげんよう、イレーネ様! お邪魔してごめんなさい。フェリクス様が、どうしても私に新しい工房を見せたいっておっしゃるから……」
アニエスは申し訳なさそうに小首を傾げてみせたが、その目はまっすぐにイレーネの顔――より正確には、化粧気のない肌と、目の下の濃い隈――を捉えていた。
「まあ、イレーネ様。お顔の色が……、とてもお疲れのようですねぇ」
「ええ。明後日の新作発表に向けて、少し立て込んでおりますので」
イレーネが淡々と、事実だけを静かに述べると、アニエスは両手を頬に当てて大げさにため息をついた。
「本当に、奥様は強くて働き者でいらっしゃって、羨ましいです。私なんて、少し寝不足になっただけですぐに倒れてしまうくらい体が弱くて……。フェリクス様にも『君は一人じゃ何もできないんだから』って、いつも心配をおかけしてばかりで」
言葉の表面上はイレーネを褒め、自分を下げているように聞こえる。
しかし、同性であるイレーネには、その裏に隠された鋭い棘がはっきりと見えていた。
『あなたは女を捨ててあくせく働いていて可哀想。私なんて何もしなくても、フェリクス様に守ってもらえるのよ』
無自覚なのか、あるいは計算し尽くされたものなのか。
どちらにせよ、有能な女を可愛げがないと暗に見下す、典型的なマウントだった。
「アニエスは昔から不器用だからね。お茶を淹れさせても火傷をするし、書類なんて見たら三秒で眠ってしまう。僕がついていてやらないと、本当に危なっかしくて見ていられないんだ」
フェリクスは困ったように笑いながらも、その声には自分を頼りにしてくれる無力な存在に対する優越感と、強い庇護欲が滲み出ていた。
彼はアニエスの肩を軽く叩き、イレーネに向かって爽やかに言う。
「イレーネのように何でも一人で完璧にこなせる強い女性も素晴らしいけれど、アニエスのような手のかかる女の子も、放っておけないだろう? 彼女の実家は今、資金繰りで苦労しているからね。僕の力で、少しでもこの子の笑顔を守ってやりたいんだよ」
(……その力とは、一体誰が昼夜問わず働いて生み出したものだと思っているのですか)
イレーネの胸の奥で、冷たい黒い感情がふつふつと泡立ちそうになった。
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