「お前は無臭でつまらない」と捨てられたのですが、隣国との友好の証を調合している私がいなくなっても大丈夫なのですね?

水上

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第1話:婚約破棄とスカウト

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「エレノア・ヴァーベナ! 貴様との婚約を、今この場をもって破棄する!」

 王太子オスカー様の甲高い声が、王宮の大広間の喧騒を切り裂きました。

 音楽が止まり、数百人の視線が私たちに突き刺さります。

 壇上のオスカー様の隣には、男爵令嬢のミリア様がしなだれかかっていました。

「……理由を伺ってもよろしいでしょうか、殿下」

 私が冷静に問い返すと、ミリア様が「ひどいっ!」と声を上げて泣き崩れるフリをしました。

「とぼけないでください、エレノア様! 貴女、わたくしに嫉妬して、ドレスに毒入りの香水をかけましたわね!?」

 ミリア様がデコルテを露わにすると、そこには確かに赤い発疹が広がっていました。

 周囲から「なんと恐ろしい」「やはり地味な女は陰湿だ」という囁きが聞こえてきます。

 オスカー様が勝ち誇ったように鼻を鳴らしました。

「見たか! ミリアの柔肌が赤く腫れ上がっている。これが証拠だ!」

 私はため息を一つ飲み込み、静かに歩み寄りました。

「近づくな!」と叫ぶオスカー様を無視して、ミリア様の首元を至近距離で観察します。
 紅斑の形状、小水疱の分布、そして……、この独特の刺激臭。

「……なるほど」

「何がなるほどだ!」

「接触性皮膚炎です」

 私はミリア様が身につけている、大ぶりの金色のネックレスを指差しました。

「ミリア様。そのネックレス、最近露店などで購入された安物ではありませんか?」

「な、何をおっしゃいますの! これは由緒ある……」

「その金色の塗料、剥がれかけていますよ。そしてその下地に使われている塗料……、成分はカシューナッツ殻液、あるいはハゼノキ由来の合成樹脂ですね」

 会場が静まり返ります。
 私は淡々と、講義をするように続けました。

「つまり、ウルシ科の植物に含まれるウルシオール類似成分によるアレルギー反応です。私が調合した香水はすべて天然香料由来であり、そのような粗悪な合成樹脂は一切使用しておりません。もし私の香水が原因なら、発疹はドレスにかかった部分全体に広がるはず。ですが、その症状はネックレスが触れている部分に集中しています」

 私は眼鏡の位置を直し、冷ややかな視線をミリア様に向けました。

「自作自演で私を陥れようとしたのか、それとも単に安物を身につけてかぶれるほど無知だったのか……、どちらにせよ、私の調香技術への冒涜ですわ」

 論理という名のメスで解剖されたミリア様は、顔を真っ赤にして口をパクパクさせています。

 周囲の貴族たちも「安物のアレルギー?」「自作自演か……」と白い目を向け始めました。

 これで誤解は解けたはず。
 そう思った瞬間でした。

「うるさい、うるさい、うるさいッ!」

 オスカー様が駄々っ子のように叫びました。

「理屈などどうでもいい! 私が言いたいのは、そういう可愛げのないところが嫌いだと言っているんだ!」

 ……はい?

 オスカー様は私を指差しました。

「お前はいつもそうだ。成分がどうだ、効能がどうだ……。私が求めているのは、情熱的で甘美なロマンスなんだ!」

 そして、彼は私を見下して吐き捨てました。

「お前は無臭でつまらない。女としての色気も、魅力もない!」

 無臭。
 調香師にとって、仕事中に香りを纏わないのは基本中の基本です。

 それが「つまらない」と言われるとは。
 オスカー様は酔いしれたように続けます。

「私とミリアの間には真実の愛がある! 運命という甘い香りに導かれた、熱く燃え上がる愛がな!」

 ああ……、頭が痛くなってきました。
 私はオスカー様の目をまっすぐに見つめました。

「殿下。調香師として一つだけ忠告させていただきます」

「なんだ、負け惜しみか?」

「殿下のおっしゃる真実の愛とやらは、揮発性の高いトップノートのようなものですわ」

 私はミリア様がつけている、鼻が曲がりそうなほど甘ったるい香水の匂いに顔をしかめました。

「香りは強烈ですが、持続時間はわずか15分。……人生という長いベースノートを共にするには、あまりに軽すぎます」

「なっ……!?」

 絶句するオスカー様に、私は優雅なカーテシーを捧げました。

「ですが、ご安心ください。これからは貴方様の好む甘い香りに包まれて、どうぞお幸せに。私は領地経営の補佐や、殿下の体調管理のためのアロマ調合、外交用香油の開発といった雑務から解放され、静かに暮らさせていただきますので」

「ああ、追放だ! 二度と私の前に顔を見せるな!」

 怒髪天を突く勢いのオスカー様を背に、私は踵を返しました。

 背後から罵声が聞こえますが、私の心は驚くほど晴れやかでした。
 これで理不尽な激務から解放される。

 出口へ向かう私の足取りは軽く、明日からのスローライフに思いを馳せていました。
 しかし、大広間の扉に手をかけようとしたその時です。

「……おい」

 低く、地を這うような声に呼び止められました。
 振り返ると、壁際の柱に寄りかかっていた大柄な男性が、私を見下ろしていました。

 黒い髪に、獲物を狙う猛禽類のような金色の瞳。

 社交界には似つかわしくない、野性的な威圧感を放つその男性は、北の辺境伯、ベルンハルト・フォン・シルヴェスター様でした。

 戦場の死神と恐れられる彼が、なぜ私に?

 ベルンハルト様は私の前に立つと、ぶっきらぼうに言いました。

「あんた、あの発疹の原因を一目で見抜いたな」

「……ええ。それが何か?」

「ウルシの毒消しには、何が効く」

「初期段階なら、マンサクの蒸留水で冷湿布をするのが効果的ですが……」

 私が答えると、彼は凶悪な顔をわずかに歪め――ニヤリと笑いました。

「なるほど……、実は有能だと囁かれていた噂は、本当らしいな」

「はい?」

「その知識、俺が買う。うちの領地に来い」

「……はい?」

 王都を追放されたその日。

 私はなぜか、最も恐ろしいと言われる辺境伯様に拉致……、いえ、スカウトされることになったのです。
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