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第2話:早すぎた評価
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数日後、ベルンハルト様に連れられて辿り着いたシルヴェスター辺境伯領は、想像を絶する極寒の地でした。
早速私たちは屋敷の玄関をくぐりました。
しかし、そこで待ち受けていたのは、冷気以上に冷たい視線でした。
「閣下。……随分と華奢なお荷物を拾ってこられたものですな」
現れたのは、古株の家令である初老の男性でした。
背筋は伸びていますが、右膝をわずかに庇っているのが動作分析から見て取れます。
「ギュンター。彼女は客ではない。俺の……、その、協力者だ」
「協力者? 王都の温室育ちの令嬢に、この過酷な北の地で何ができると言うのです」
ギュンター氏は私を値踏みするように一瞥し、鼻を鳴らしました。
「……まあ、いいでしょう。まずは食事になさってください」
案内された食堂で供されたのは、茶色い塊のスープと、硬そうな黒パンでした。
「……これは?」
「干し肉と根菜の煮込みだ。冬場の貴重なタンパク源だ」
ベルンハルト様が真顔で説明します。
私はスプーンでスープを掬い、香りを嗅ぎました。
保存状態の悪い脂質が劣化した、独特の油臭さと、獣肉特有の獣臭さ。
口に運ぶと、強烈な塩気と臭みが口いっぱいに広がり、思わず眉間が寄りました。
「……不味いか」
「率直に申し上げますと、味覚受容体が拒否反応を示しております」
「まあ、当然の反応だな」
ベルンハルト様はガクリと肩を落としました。
「栄養価は高いんだが、どうしても保存過程で臭みが出る。兵士たちの士気にも関わる問題なんだが……、俺の料理の腕でも、この臭みだけはどうにもならん」
意外でした。
戦場の死神と呼ばれる彼が、兵士の食事事情にこれほど心を痛めているとは。
私は眼鏡を押し上げ、立ち上がりました。
「閣下。厨房をお借りしてもよろしいでしょうか?」
許可を得て厨房に入ると、私は持参したアロマケースを開きました。
そこには、私物である乾燥ハーブやスパイスがずらりと並んでいます。
「ふん、お嬢様のままごとですか」
様子を見に来たギュンター氏が、入り口で腕を組んで嘲笑します。
「閣下、その干し肉を一度湯通ししてください。表面の酸化した脂を落とします」
「ああ、わかった」
ベルンハルト様は迷いなくエプロンを装着し、手際よく肉を処理し始めました。
「次に、この臭みを消すためにマスキング効果を利用します。ローズマリーとセージ、そしてタイムを投入。これらは抗酸化作用が高く、肉の臭みをハーブの香りで上書きします」
「なるほど」
「さらに、クローブを二粒。これに含まれるオイゲノールが殺菌と防腐、そして食欲増進効果をもたらします。最後に、隠し味にジュニパーベリーを」
私がハーブを鍋に投げ込むと、厨房の空気が一変しました。
ツンとした獣臭さが消え、森の清涼感を含んだ、豊かで食欲をそそる香りが立ち込めます。
「……ほう」
ギュンター氏の嘲笑が消え、鼻をヒクつかせているのが分かりました。
「仕上げです。閣下、塩分は控えめに、代わりに煮詰めた果実酒でコクを出してください」
「任せろ。火加減はどうする?」
「弱火でコトコトと。タンパク質の凝固を防ぎつつ、香りを移します」
数十分後、そこには黄金色に輝くシチューが完成していました。
「……信じられん」
食堂でスプーンを運んだギュンター氏が、目を見開いて絶句しました。
「あの臭くて硬い干し肉が……、柔らかく、香り高い。ハーブの香りが肉の旨味を引き立てている」
「香りは味覚の八割を支配します。嗅覚情報を操作することで、脳に美味と錯覚させているのです」
私が淡々と解説すると、ギュンター氏はバツが悪そうに咳払いをしました。
しかし、彼の苦難はまだ終わっていません。
先ほどから、低気圧の接近に伴い、彼がしきりに膝をさすっているのを私は見逃していませんでした。
「ギュンターさん。失礼ですが、右膝がお痛みでは?」
「……ッ! なぜそれを」
「歩行時の加重バランスが左に偏っています。それに今日は湿度が高い。古傷が疼く条件が揃っています」
私は懐から、小瓶を取り出しました。
先ほどの料理中に、余ったハーブで即席で作ったものです。
「ジュニパーベリーとローズマリーを植物油に漬け込んだ湿布液です。これらは血行を促進し、鎮痛作用があります。お湯で温めたタオルにこれを垂らし、膝に当ててみてください」
「そんな、香りのついた油ごときで……」
半信半疑のギュンター氏でしたが、痛みに耐えかねて試すことになりました。
温かい蒸しタオルを膝に乗せ、数分後。
「……おお……!」
ギュンター氏の表情が、驚きから安堵へと緩みました。
「痛みが……、引いていく。芯から温まって、鉛のように重かった膝が嘘のように軽い!」
「ローズマリーのカンファー成分による局所刺激作用と、温熱効果の相乗効果です」
ギュンター氏は立ち上がり、私の前に歩み寄ると――深く、深く頭を下げました。
「申し訳ございませんでした、奥様」
「……奥様?」
「私は貴女様を、何もできないお飾りだと侮っておりました。ですが、そんなことはありませんでした」
ギュンター氏は顔を上げ、潤んだ瞳で私を見つめました。
「貴女様こそ、このシルヴェスター家に必要な方です。この老骨、今日より貴女様の忠実な下僕となりましょう! 反対する者がいれば、私がすべて黙らせてみせます!」
「よかったな、エレノア」
横で見ていたベルンハルト様が、穏やかな声をかけました。
「俺は身体を作る飯しか作れん。だが、お前は……、心の栄養を作れるんだな」
「心の、栄養……?」
「ああ。旨いという感動や、痛みが消える安らぎ。それはこの領地にはなかったものだ。……来てくれて、ありがとう」
その不器用ながらも真っ直ぐな称賛の言葉に、私の胸の奥がトクンと跳ねました。
王宮では蔑ろにされてきた私の技術。
それがここでは、こんなにも感謝され、必要とされている。
「……どういたしまして。契約ですので、当然の仕事をしたまでです」
私は熱くなりそうな顔を隠すように、少しそっけなく答えました。
こうして、私は辺境での最初の一歩を、予想以上の高評価で踏み出すことになったのです。
しかし、これはまだ改革の始まりに過ぎませんでした。
早速私たちは屋敷の玄関をくぐりました。
しかし、そこで待ち受けていたのは、冷気以上に冷たい視線でした。
「閣下。……随分と華奢なお荷物を拾ってこられたものですな」
現れたのは、古株の家令である初老の男性でした。
背筋は伸びていますが、右膝をわずかに庇っているのが動作分析から見て取れます。
「ギュンター。彼女は客ではない。俺の……、その、協力者だ」
「協力者? 王都の温室育ちの令嬢に、この過酷な北の地で何ができると言うのです」
ギュンター氏は私を値踏みするように一瞥し、鼻を鳴らしました。
「……まあ、いいでしょう。まずは食事になさってください」
案内された食堂で供されたのは、茶色い塊のスープと、硬そうな黒パンでした。
「……これは?」
「干し肉と根菜の煮込みだ。冬場の貴重なタンパク源だ」
ベルンハルト様が真顔で説明します。
私はスプーンでスープを掬い、香りを嗅ぎました。
保存状態の悪い脂質が劣化した、独特の油臭さと、獣肉特有の獣臭さ。
口に運ぶと、強烈な塩気と臭みが口いっぱいに広がり、思わず眉間が寄りました。
「……不味いか」
「率直に申し上げますと、味覚受容体が拒否反応を示しております」
「まあ、当然の反応だな」
ベルンハルト様はガクリと肩を落としました。
「栄養価は高いんだが、どうしても保存過程で臭みが出る。兵士たちの士気にも関わる問題なんだが……、俺の料理の腕でも、この臭みだけはどうにもならん」
意外でした。
戦場の死神と呼ばれる彼が、兵士の食事事情にこれほど心を痛めているとは。
私は眼鏡を押し上げ、立ち上がりました。
「閣下。厨房をお借りしてもよろしいでしょうか?」
許可を得て厨房に入ると、私は持参したアロマケースを開きました。
そこには、私物である乾燥ハーブやスパイスがずらりと並んでいます。
「ふん、お嬢様のままごとですか」
様子を見に来たギュンター氏が、入り口で腕を組んで嘲笑します。
「閣下、その干し肉を一度湯通ししてください。表面の酸化した脂を落とします」
「ああ、わかった」
ベルンハルト様は迷いなくエプロンを装着し、手際よく肉を処理し始めました。
「次に、この臭みを消すためにマスキング効果を利用します。ローズマリーとセージ、そしてタイムを投入。これらは抗酸化作用が高く、肉の臭みをハーブの香りで上書きします」
「なるほど」
「さらに、クローブを二粒。これに含まれるオイゲノールが殺菌と防腐、そして食欲増進効果をもたらします。最後に、隠し味にジュニパーベリーを」
私がハーブを鍋に投げ込むと、厨房の空気が一変しました。
ツンとした獣臭さが消え、森の清涼感を含んだ、豊かで食欲をそそる香りが立ち込めます。
「……ほう」
ギュンター氏の嘲笑が消え、鼻をヒクつかせているのが分かりました。
「仕上げです。閣下、塩分は控えめに、代わりに煮詰めた果実酒でコクを出してください」
「任せろ。火加減はどうする?」
「弱火でコトコトと。タンパク質の凝固を防ぎつつ、香りを移します」
数十分後、そこには黄金色に輝くシチューが完成していました。
「……信じられん」
食堂でスプーンを運んだギュンター氏が、目を見開いて絶句しました。
「あの臭くて硬い干し肉が……、柔らかく、香り高い。ハーブの香りが肉の旨味を引き立てている」
「香りは味覚の八割を支配します。嗅覚情報を操作することで、脳に美味と錯覚させているのです」
私が淡々と解説すると、ギュンター氏はバツが悪そうに咳払いをしました。
しかし、彼の苦難はまだ終わっていません。
先ほどから、低気圧の接近に伴い、彼がしきりに膝をさすっているのを私は見逃していませんでした。
「ギュンターさん。失礼ですが、右膝がお痛みでは?」
「……ッ! なぜそれを」
「歩行時の加重バランスが左に偏っています。それに今日は湿度が高い。古傷が疼く条件が揃っています」
私は懐から、小瓶を取り出しました。
先ほどの料理中に、余ったハーブで即席で作ったものです。
「ジュニパーベリーとローズマリーを植物油に漬け込んだ湿布液です。これらは血行を促進し、鎮痛作用があります。お湯で温めたタオルにこれを垂らし、膝に当ててみてください」
「そんな、香りのついた油ごときで……」
半信半疑のギュンター氏でしたが、痛みに耐えかねて試すことになりました。
温かい蒸しタオルを膝に乗せ、数分後。
「……おお……!」
ギュンター氏の表情が、驚きから安堵へと緩みました。
「痛みが……、引いていく。芯から温まって、鉛のように重かった膝が嘘のように軽い!」
「ローズマリーのカンファー成分による局所刺激作用と、温熱効果の相乗効果です」
ギュンター氏は立ち上がり、私の前に歩み寄ると――深く、深く頭を下げました。
「申し訳ございませんでした、奥様」
「……奥様?」
「私は貴女様を、何もできないお飾りだと侮っておりました。ですが、そんなことはありませんでした」
ギュンター氏は顔を上げ、潤んだ瞳で私を見つめました。
「貴女様こそ、このシルヴェスター家に必要な方です。この老骨、今日より貴女様の忠実な下僕となりましょう! 反対する者がいれば、私がすべて黙らせてみせます!」
「よかったな、エレノア」
横で見ていたベルンハルト様が、穏やかな声をかけました。
「俺は身体を作る飯しか作れん。だが、お前は……、心の栄養を作れるんだな」
「心の、栄養……?」
「ああ。旨いという感動や、痛みが消える安らぎ。それはこの領地にはなかったものだ。……来てくれて、ありがとう」
その不器用ながらも真っ直ぐな称賛の言葉に、私の胸の奥がトクンと跳ねました。
王宮では蔑ろにされてきた私の技術。
それがここでは、こんなにも感謝され、必要とされている。
「……どういたしまして。契約ですので、当然の仕事をしたまでです」
私は熱くなりそうな顔を隠すように、少しそっけなく答えました。
こうして、私は辺境での最初の一歩を、予想以上の高評価で踏み出すことになったのです。
しかし、これはまだ改革の始まりに過ぎませんでした。
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