「お前は無臭でつまらない」と捨てられたのですが、隣国との友好の証を調合している私がいなくなっても大丈夫なのですね?

水上

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第5話:王都壊滅

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 王都の王宮、王太子の執務室。

 かつては整然とし、清涼な空気に満ちていたその部屋は、今や淀んだ空気と、ピリピリとした殺伐な気配に支配されていた。

「……クソッ、頭が割れそうだ」

 王太子オスカー・フレデリックは、自身のこめかみを押さえて呻いた。
 目の下には濃い隈が刻まれ、かつての輝くような美貌は見る影もなくやつれ果てている。

 エレノアを追放してから数ヶ月。
 オスカーの生活は、坂を転がり落ちるように崩壊していた。

「殿下、決裁書類が滞っております。早く署名を」

「うるさい! 少しは休ませろ! ……昨夜も一睡もできなかったんだ」

 不眠。
 それが全ての始まりだった。

 以前はベッドに入ればすぐに深い眠りにつくことができていた。  
 だが今は、目を閉じると不安と動悸に襲われ、悪夢を見ては飛び起きる日々が続いている。

 オスカーは知らなかったのだ。

 寝室の枕元に置かれていた目立たない小瓶――エレノアが安眠のために調合していたラベンダーとスイートオレンジのブレンドが、彼の自律神経を整えていたことを。

 彼女がいなくなり、メイドがその空になった小瓶を捨てたその日から、彼の安眠は消滅した。

「失礼しますぅ。オスカー様、お疲れですかぁ?」

 ノックもなしに執務室に入ってきたのは、現在の婚約者であるミリアだ。
 彼女はピンク色のフリルたっぷりのドレスを揺らし、愛らしい笑顔で近づいてくる。

「ミリアか……」

「お顔色が優れませんわ。わたくしが愛の力で癒やして差し上げます!」

 ミリアはそう言うと、オスカーの首に腕を回し、抱きついてきた。
 その瞬間、強烈な甘ったるい花の香りがオスカーの鼻腔を直撃した。

「うっ……!?」

 ズキン、と脳を貫くような痛み。

 気圧の変化による偏頭痛持ちのオスカーにとって、ミリアが愛用する濃厚な合成香料の香水は、ただの毒ガスでしかなかった。

 以前は、執務室には常にペパーミントやユーカリの香りが微かに漂っており、それが頭痛を和らげ、集中力を高めてくれていた。

 もちろん、それもエレノアのおかげだったのだが。

「……離れろ、ミリア。匂いがきつい」

「ええっ? ひどいですわ! これは殿下のために特注した情熱なローズですのよ? 地味なエレノアの消毒液みたいな匂いより、ずっと素敵でしょう?」

「その匂いが頭に響くと言っているんだ!」

 オスカーが思わず怒鳴ると、ミリアはビクリと肩を震わせ、瞳に涙を浮かべた。

 まただ。
 最近は常にイライラして、感情のコントロールが効かない。

 そこへ、血相を変えた側近が飛び込んできた。

「で、殿下! 緊急事態です! 王室図書館より報告が!」

「今度はなんだ!? これ以上、私を煩わせるな!」

「そ、それが……、古代の翻訳資料と、隣国との通商条約の原本が……、虫に食われました!」

「はあ? 虫だと?」

 側近が差し出した書面には、無残な報告が記されていた。
 紙魚やチャタテムシといった害虫が大量発生し、貴重な古文書や重要書類を食い荒らしたというのだ。

「馬鹿な! 王室図書館は厳重に管理されていたはずだぞ!」

「それが……、これまではエレノア様が、書架の隅々に特製の防虫香――クローブや樟脳を絶妙に配合したサシェを配置されていたようです。エレノア様がいなくなり、それらが期限切れで撤去された途端、一気に虫が湧きまして……」

「防虫香だと……? そんな地味なものを、あいつが?」

 オスカーは愕然とした。

 エレノアは何も言わなかった。
 ただ黙々と、目立たない場所で、国の知財を守っていたというのか。

 条約の原本が破損したとなれば、再締結には多大な労力と、相手国への譲歩が必要になる。

「な、なによそれ! たかが紙切れ数枚じゃない!」

 ミリアが横から口を挟んだ。

「そんなことより、来週の舞踏会のドレスを選んでください。ねぇ、オスカー様ぁ」

 その無神経な声が、張り詰めていた側近たちの神経を逆撫でした。

「……いい加減になさってください」

 震える声で言ったのは、長年オスカーに仕えてきた筆頭補佐官だった。

「紙切れ数枚だと? あれがどれほど国益に関わるか、貴女には理解できないのですか! エレノア様は……、あの方は、我々が気づくよりも早く、常に先回りして環境を整えてくださっていた!」

 補佐官は充血した目でオスカーを睨みつけた。

「殿下もです! ここ数日の殿下の判断ミス、癇癪……、見ていられません! 我々の疲労も限界です。以前はエレノア様が差し入れられたリフレッシュ・アロマのおかげで激務もなんとか乗り切れましたが、今はただの地獄だ!」

「き、貴様、誰に向かって口を……」

「もう疲れました。……辞めさせていただきます」

 補佐官は懐から辞表を取り出し、デスクに叩きつけた。
 それを合図に、控えていた他の文官たちも次々と声を上げた。

「私もです」

「やってられません」 

「前の婚約者様の頃は、こんなことはなかったのに……」

 白い辞表が雪のようにデスクに積み上がっていく。

「ま、待て! お前たちがいなくなったら、誰がこの山のような書類を処理するんだ!」

 オスカーが叫ぶが、彼らは冷ややかな目を向けるだけだった。

「真実の愛とやらで、なんとかされたらどうですか? ……失礼します」

 最後の一人が部屋を出て行き、重厚な扉が閉ざされた。

 残されたのは、呆然とするオスカーと、状況が飲み込めずキョトンとしているミリアだけ。

「……な、なんなのですか、あいつら! 不敬罪で処刑しましょうよ!」

 ミリアがキャンキャンと喚く。
 その高い声が、頭痛をさらに加速させる。

 オスカーはようやく気づき始めていた。
「お前は無臭でつまらない」と切り捨てた元婚約者。

 彼女は無臭だったのではない。
 空気のように、あって当たり前、なければ死に至る酸素のような存在だったのだと。

「……エレノア」

 彼女の名前を呼んでも、返ってくるのは甘ったるい頭痛を誘う香水の匂いだけ。

 だが、崩壊はこれで終わりではなかった。
 さらに致命的となる外交問題が、すぐそこまで迫っていたのである。
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