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第6話:辺境と王都の残酷な対比
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「……信じられん。ここが、あの凍えるような僻地だったとは」
シルヴェスター辺境伯領の奥地。
かつては地熱で雪が溶け、ただ泥濘んでいるだけだった場所に、今、王都の貴族たちが列をなしていました。
湯気が立ち上る大露天風呂。
そこには、私が調合した乾燥ハーブ(カモミール、ラベンダー、そして血行促進用のジンジャー)が浮かべられ、あたり一面に極上の香りが漂っています。
「ああ、なんて良い香り……。王都の騒がしさを忘れるわ」
「肌がツルツルになるぞ。それに、なんだか呼吸が楽になった気がする」
湯に浸かる貴族たちの顔は、一様に蕩けていました。
ここは、私がプロデュースし、ベルンハルト様が建設を指揮したハーブ・スパ・リゾート。
豊富な地熱エネルギーを利用した温泉に、アロマテラピーの要素を掛け合わせた、この国初の香りの湯治場です。
「……大盛況だな、エレノア」
湯上がり処で様子を見ていたベルンハルト様が、信じられないものを見る目で私を見ました。
彼の手には、キンキンに冷えた自家製ハーブレモネードと、湯上がりの体に染み渡る特製デトックス・サンドイッチが握られています。
「ええ。それだけストレス過多の人がたくさんいるということです。交感神経を鎮める転地療法と、嗅覚による大脳辺縁系への直接アプローチ。この二つが揃えば、人はお金を惜しみません」
私が答えると、ベルンハルト様は苦笑しました。
「お前のその、夢のない分析も嫌いじゃないが……。客を見てみろ。みんな、心から笑っている」
視線の先には、美味しい料理に舌鼓を打ち、温泉で温まった体を休める人々の姿。
その中には、かつて私を「地味だ」と嘲笑っていた令嬢たちの姿もありましたが、今はすっぴんの顔を赤らめ、「このサンドイッチ、最高!」「王都のケーキより美味しいわ!」とベルンハルト様の料理を絶賛しています。
「……王都では、俺たちは野蛮な辺境伯と地味な調香師だった。だが今、ここは王都よりも輝いている」
ベルンハルト様が、そっと私の肩を抱き寄せました。
「お前が変えたんだ。俺たちの世界を」
その温かい言葉と、彼の体温。
以前なら「心拍数上昇、要検査」と判断していたその感覚を、今の私は静かに受け入れていました。
これが幸福という感覚なのでしょう。
一方、私たちがそんな満ち足りた時間を過ごしていた頃。
遠く離れた王都の王宮では、国を揺るがす大事件が勃発していました。
*
「――これは一体、どういうつもりだッ!!」
王宮の謁見室に、隣国の大使の怒号が響き渡った。
床には、クリスタルガラスの美しい小瓶が叩きつけられ、無残に砕け散っている。
そして、そこから漂ってくるのは……、鼻が曲がるような腐敗臭だった。
「うっ……!?」
玉座の近くにいた王太子オスカーは、ハンカチで鼻を覆った。
隣にいるミリアに至っては、「おえっ、くさい!」と叫んで逃げ出そうとしている。
「我々を侮辱する気か! 友好の証である王家の香油。……それが、蓋を開けた途端に分離し、腐った油のような悪臭を放つとは!」
大使の顔は怒りで真っ赤だった。
王家の香油は、この国の主要な輸出品であり、隣国との友好関係を繋ぐ重要な外交ツールだ。
かつては、その透き通るような黄金色と、数年経っても劣化しない高貴な香りが絶賛されていた。
「誤解だ! 作り方は以前と同じはず! 素材も最高級のものを……」
オスカーが必死に弁明しようとしますが、大使は聞く耳を持たなかった。
「同じ? これがか!? 成分が分離して濁りきっているではないか! こんなものを王妃陛下に献上できるか! ……国交断絶も辞さないと思え!」
大使は憤然と踵を返し、謁見室を出て行った。
残されたのは、絶望的な静寂と、耐え難い悪臭だけ。
「……ミリア」
オスカーは、震える声で婚約者を呼んだ。
ミリアは青ざめた顔で、柱の陰に隠れている。
「お前……、『私にも作れますわ!』と言ったよな? エレノアがやっていたことなんて、ただ材料を混ぜるだけだと」
「だって! 同じ分量で混ぜましたもの! バラの花びらを油に漬けて……」
「なら、なぜこんなことになったんだ!」
「知りませんわよ! きっと材料が悪かったんですわ! それか、容器が汚れていたとか……!」
ミリアの責任転嫁に、オスカーは頭を抱えた。
彼は知らなかった。
エレノアが作っていた香油は、単に混ぜていたわけではないことを。
気温や湿度に合わせた抽出温度の微調整、天然の酸化防止剤(ビタミンEを含む植物油)の配合比率、そして何より、成分の分離を防ぐための乳化の技術。
それらは全て、エレノアの膨大な知識と経験に裏打ちされた職人芸だった。
素人が見様見真似で作れるような代物ではなかったのだ。
「……終わりだ」
オスカーはその場に崩れ落ちた。
不眠と頭痛で思考能力が低下した頭でも、状況の深刻さは理解できた。
外交問題に発展すれば、王太子としての地位すら危うい。
国内の貴族たちも、最近話題の辺境のスパ・リゾートに夢中で、王宮の求心力は地に落ちている。
「殿下……」
側近の一人が、恐る恐る声をかけました。
「もう、あの方にお願いするしかありません」
「……あの方?」
「エレノア様です。彼女なら、この香油を復元し、大使の怒りを鎮めることができるかもしれません。それに、あの辺境の活況を見るに……、彼女の知識は、我々の想像を遥かに超えていたのです」
オスカーは、砕け散った香油の瓶を見つめた。
かつて切り捨てた女。
だが、その女がいなければ、この国は腐った油のように劣化していく。
「……馬車を用意しろ」
オスカーは、充血した目で立ち上がった。
その瞳には、狂気じみた決意の光が宿っている。
「辺境へ行く。……エレノアを連れ戻すんだ」
「でもぉ、オスカー様ぁ……」
「黙れミリア! お前も来るんだ! エレノアに土下座してでも許しを乞うんだよ!」
なりふり構わぬ王太子一行が、北へ向かって出発したのはその日の夜のことだった。
しかし、彼らはまだ気づいていなかった。
一度酸化して劣化した関係は、二度と元の新鮮な状態には戻らないという残酷な真理に……。
シルヴェスター辺境伯領の奥地。
かつては地熱で雪が溶け、ただ泥濘んでいるだけだった場所に、今、王都の貴族たちが列をなしていました。
湯気が立ち上る大露天風呂。
そこには、私が調合した乾燥ハーブ(カモミール、ラベンダー、そして血行促進用のジンジャー)が浮かべられ、あたり一面に極上の香りが漂っています。
「ああ、なんて良い香り……。王都の騒がしさを忘れるわ」
「肌がツルツルになるぞ。それに、なんだか呼吸が楽になった気がする」
湯に浸かる貴族たちの顔は、一様に蕩けていました。
ここは、私がプロデュースし、ベルンハルト様が建設を指揮したハーブ・スパ・リゾート。
豊富な地熱エネルギーを利用した温泉に、アロマテラピーの要素を掛け合わせた、この国初の香りの湯治場です。
「……大盛況だな、エレノア」
湯上がり処で様子を見ていたベルンハルト様が、信じられないものを見る目で私を見ました。
彼の手には、キンキンに冷えた自家製ハーブレモネードと、湯上がりの体に染み渡る特製デトックス・サンドイッチが握られています。
「ええ。それだけストレス過多の人がたくさんいるということです。交感神経を鎮める転地療法と、嗅覚による大脳辺縁系への直接アプローチ。この二つが揃えば、人はお金を惜しみません」
私が答えると、ベルンハルト様は苦笑しました。
「お前のその、夢のない分析も嫌いじゃないが……。客を見てみろ。みんな、心から笑っている」
視線の先には、美味しい料理に舌鼓を打ち、温泉で温まった体を休める人々の姿。
その中には、かつて私を「地味だ」と嘲笑っていた令嬢たちの姿もありましたが、今はすっぴんの顔を赤らめ、「このサンドイッチ、最高!」「王都のケーキより美味しいわ!」とベルンハルト様の料理を絶賛しています。
「……王都では、俺たちは野蛮な辺境伯と地味な調香師だった。だが今、ここは王都よりも輝いている」
ベルンハルト様が、そっと私の肩を抱き寄せました。
「お前が変えたんだ。俺たちの世界を」
その温かい言葉と、彼の体温。
以前なら「心拍数上昇、要検査」と判断していたその感覚を、今の私は静かに受け入れていました。
これが幸福という感覚なのでしょう。
一方、私たちがそんな満ち足りた時間を過ごしていた頃。
遠く離れた王都の王宮では、国を揺るがす大事件が勃発していました。
*
「――これは一体、どういうつもりだッ!!」
王宮の謁見室に、隣国の大使の怒号が響き渡った。
床には、クリスタルガラスの美しい小瓶が叩きつけられ、無残に砕け散っている。
そして、そこから漂ってくるのは……、鼻が曲がるような腐敗臭だった。
「うっ……!?」
玉座の近くにいた王太子オスカーは、ハンカチで鼻を覆った。
隣にいるミリアに至っては、「おえっ、くさい!」と叫んで逃げ出そうとしている。
「我々を侮辱する気か! 友好の証である王家の香油。……それが、蓋を開けた途端に分離し、腐った油のような悪臭を放つとは!」
大使の顔は怒りで真っ赤だった。
王家の香油は、この国の主要な輸出品であり、隣国との友好関係を繋ぐ重要な外交ツールだ。
かつては、その透き通るような黄金色と、数年経っても劣化しない高貴な香りが絶賛されていた。
「誤解だ! 作り方は以前と同じはず! 素材も最高級のものを……」
オスカーが必死に弁明しようとしますが、大使は聞く耳を持たなかった。
「同じ? これがか!? 成分が分離して濁りきっているではないか! こんなものを王妃陛下に献上できるか! ……国交断絶も辞さないと思え!」
大使は憤然と踵を返し、謁見室を出て行った。
残されたのは、絶望的な静寂と、耐え難い悪臭だけ。
「……ミリア」
オスカーは、震える声で婚約者を呼んだ。
ミリアは青ざめた顔で、柱の陰に隠れている。
「お前……、『私にも作れますわ!』と言ったよな? エレノアがやっていたことなんて、ただ材料を混ぜるだけだと」
「だって! 同じ分量で混ぜましたもの! バラの花びらを油に漬けて……」
「なら、なぜこんなことになったんだ!」
「知りませんわよ! きっと材料が悪かったんですわ! それか、容器が汚れていたとか……!」
ミリアの責任転嫁に、オスカーは頭を抱えた。
彼は知らなかった。
エレノアが作っていた香油は、単に混ぜていたわけではないことを。
気温や湿度に合わせた抽出温度の微調整、天然の酸化防止剤(ビタミンEを含む植物油)の配合比率、そして何より、成分の分離を防ぐための乳化の技術。
それらは全て、エレノアの膨大な知識と経験に裏打ちされた職人芸だった。
素人が見様見真似で作れるような代物ではなかったのだ。
「……終わりだ」
オスカーはその場に崩れ落ちた。
不眠と頭痛で思考能力が低下した頭でも、状況の深刻さは理解できた。
外交問題に発展すれば、王太子としての地位すら危うい。
国内の貴族たちも、最近話題の辺境のスパ・リゾートに夢中で、王宮の求心力は地に落ちている。
「殿下……」
側近の一人が、恐る恐る声をかけました。
「もう、あの方にお願いするしかありません」
「……あの方?」
「エレノア様です。彼女なら、この香油を復元し、大使の怒りを鎮めることができるかもしれません。それに、あの辺境の活況を見るに……、彼女の知識は、我々の想像を遥かに超えていたのです」
オスカーは、砕け散った香油の瓶を見つめた。
かつて切り捨てた女。
だが、その女がいなければ、この国は腐った油のように劣化していく。
「……馬車を用意しろ」
オスカーは、充血した目で立ち上がった。
その瞳には、狂気じみた決意の光が宿っている。
「辺境へ行く。……エレノアを連れ戻すんだ」
「でもぉ、オスカー様ぁ……」
「黙れミリア! お前も来るんだ! エレノアに土下座してでも許しを乞うんだよ!」
なりふり構わぬ王太子一行が、北へ向かって出発したのはその日の夜のことだった。
しかし、彼らはまだ気づいていなかった。
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