「お前は無臭でつまらない」と捨てられたのですが、隣国との友好の証を調合している私がいなくなっても大丈夫なのですね?

水上

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第7話:幸せな香り

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 シルヴェスター辺境伯領の屋敷。
 その応接室には、かつてないほどの重苦しい空気が漂っていました。

「……エレノア! 頼む、戻ってきてくれ!」

 目の前で土下座せんばかりに頭を下げているのは、王太子オスカー・フレデリック殿下です。

 最後に会ってからまだ数ヶ月しか経っていないというのに、頬はこけ、目の下にはどす黒い隈があり、金色の髪は艶を失ってパサパサです。

 その隣には、ミリア様が小さくなって震えています。
 彼女もまた、自慢の巻き髪が乱れ、以前のような覇気が消え失せています。

 私は優雅に紅茶を一口飲み、静かにカップを置きました。

「戻ってきてくれとは、妙なことを仰いますね。私は殿下に『無臭でつまらない』と解雇された身ですが」

「あ、あれは間違いだったんだ! 魔が差したというか、その……、ミリアの香水に惑わされていただけだ!」

 オスカー様は必死に言い募ります。

「お前がいなくなって、何もかもが上手くいかない。不眠も、頭痛も、害虫も……、そして、あの王家の香油もだ! あれが腐って、隣国と戦争になりかけている。お前の知識が必要なんだ!」

 なるほど。
 自己保身のための懇願ですか。

 私は冷めた目で彼を見つめました。

「殿下。香油の件ですが、それは当然の結果です」

「な、なんだと?」

「あの香油のベースに使われているオリーブオイルは、酸化安定性が低い品種です。私が管理していた時は、トコフェロールを添加し、さらに窒素置換を行って酸化を防いでいました。素人の方がただ混ぜただけなら、一週間で過酸化脂質となり、悪臭を放つのは必然です」

 私が淡々と事実を述べると、ミリア様が息を呑みました。

「そ、そんな難しいこと、知りませんでしたわ……!」

「無知は罪ではありませんが、無知なままその領域に土足で踏み込むのは罪です」

 私の言葉に、ミリア様は顔を真っ赤にして俯きました。

 オスカー様は椅子から立ち上がり、身を乗り出しました。

「分かった! 分かったから! もう一度やり直そう、エレノア! 私が悪かった。やはり私にはお前しかいないんだ。これこそが真実の愛だったと気づいたんだ!」

 彼は両手を広げ、私の手を取ろうとしました。
 その目には、狂気じみた期待の色が浮かんでいます。

「愛している、エレノア。地味でもいい、無臭でもいい! お前がそばにいてくれるだけでいいんだ!」

 その手が私に触れそうになった、その時です。

 骨太な手が、オスカー様の手首を万力のように掴み上げました。

「……彼女に、気安く触れるな」

 低い、地獄の底から響くような声。

 それまで私の背後に黙って控えていたベルンハルト様が、オスカー様を睨みつけていました。

「へ、辺境伯……! こ、これは王家の問題だ! 部外者は引っ込んでいろ!」

「部外者? 笑わせるな。エレノアは領地経営における最高責任者であり、俺の……、将来の伴侶だ」

 ベルンハルト様の言葉に、私の心臓が跳ねました。

「それに、あんたの言っていることは愛じゃない。ただの依存だ。自分の尻も拭えなくなった子供が、母親に泣きついているだけだろうが」

「なっ、なんだと……!」

 図星を突かれたオスカー様が顔を引きつらせます。

「殿下。ベルンハルト様の仰る通りです」

「エ、エレノア……?」

「殿下。貴方様は先ほど『戻ってきてくれ』と仰いましたが……、世の中には不可逆反応というものがございます」

 私はゆっくりと、彼に死刑宣告を突きつける裁判官のように言葉を紡ぎました。

「一度酸化して劣化したオイルは、二度と元の新鮮な状態には戻らないんですよ?」

「……っ!」

「私と殿下の関係も同じです。貴方様の裏切りという触媒によって、信頼は完全に酸化し、腐敗しました。今更どんな抗酸化剤を投入しても、手遅れです」

 オスカー様は口をパクパクさせ、何かを言おうとしましたが、声になっていません。
 私はダメ押しとばかりに、口元を覆いました。

「それに、生理的に無理、というのは言葉が強すぎるので優しく言い換えますと……」

 私は冷徹な瞳で、かつての婚約者を見据えました。

「私の嗅覚受容体が、貴方という存在を危険物として拒絶反応を示しております。これ以上接近されますと、嘔吐中枢が刺激される恐れがありますので、早急にご退室願えますか?」

 シン……、と。
 応接室に静寂が落ちました。

「危険物……」

「廃棄物と言い換えても構いませんわ」

 オスカー様は膝から崩れ落ちました。

 プライドも、希望も、すべて粉々に砕け散った音が聞こえた気がしました。

 ベルンハルト様が手を叩き、控えていた屈強な衛兵たちを呼びました。

「この方々を丁重にお送りしろ。二度と敷居を跨がせるな」

「はっ!」

 衛兵たちに両脇を抱えられ、ズルズルと引きずられていくオスカー様とミリア様。

「エレノアァァァ!」

「こんなの嘘よぉぉぉ!」

 という悲痛な叫び声が廊下に響き渡り、やがて聞こえなくなりました。

 これから二人には、後悔してもしきれない、残酷な処罰が課されることでしょう。 
 しかし、私にはもう関係ありません。

 嵐が去った後の応接室。
 再び静寂が戻ってきましたが、先ほどまでの淀んだ空気は一掃されていました。

「……容赦ないな、お前は」

 ベルンハルト様が呆れたように、けれど楽しそうに笑いました。

「事実を述べたまでです。それに……」

 私は視線を逸らし、少しだけ声のトーンを落としました。

「私の人生に必要な香りは、もう見つけましたので」

「……ん?」

「分かりませんか? 鈍感ですね」

 私は立ち上がり、彼の前に歩み寄りました。

 そして、勇気を出して、彼の服――少し前まで料理中だったので、まだスパイスの香りが残っています――をぎゅっと掴みました。

「……クローブの温かさと、バジルの力強さ。そして微かな、甘いキャラメルのような香り。……これが、私の心を落ち着かせる、唯一の香りです」

 顔から火が出そうです。
 こんな非論理的で、詩的な表現をするなんて。

 ベルンハルト様は一瞬きょとんとしていましたが、次第にその意味を理解し、耳まで真っ赤に染めました。

「……それこそ、今更だな」

 彼は私の手を優しく包み込み、引き寄せました。

「俺の人生の味付けには、お前が必要だ。……エレノア。俺と、婚約してくれ」

 ストレートすぎる言葉。
 でも、それが彼らしくて、私の胸は幸福感で満たされました。

「……はい。喜んでお受けします」

「ああ。……これからも、二人で最高の領地を作ろう。美味い飯と、良い香りに満ちた場所を」

 ベルンハルト様が私を抱きしめます。
 その腕の中は温かく、心地よい香りに包まれていました。

「そうですね。まずはオスカー様たちが残していった悪臭を消臭するために、強力な消臭スプレーの開発から始めましょうか」

 私たちは顔を見合わせ、声を上げて笑いました。

 窓の外には、ハーブ園の美しい緑と、湯治場の湯気が広がっています。
 無臭でつまらないと言われた私は、世界で一番香り高い幸せを手に入れました。

 私の新しい人生は、ここから始まります。

 そしてそれは、決して揮発して消えることのない、永遠に続く穏やかで幸せな香りとなることでしょう。
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