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第1話:強さを纏う妻
王都の郊外に位置するクライスト伯爵領。
その一角にある陶磁器工房は、今日も熱気と土の匂いに包まれていた。
窯の温度管理、釉薬の調合比率、そして次期シーズンの出荷計画。
それら全てを取り仕切っているのは、工房長でもなければ、当主であるクライスト伯爵でもない。
色素の薄いアッシュグレイの髪を、一筋の後れ毛もなく完璧に結い上げた若き女性――アデライド・ベルンハルトだった。
「アデライド様、こちらの釉薬ですが、指示通りの発色が出ません」
「酸化炎の温度が高すぎたのね。窯の排気口をあと二センチ絞って。それと、この青磁は冷却時間を三十分延ばすこと。急冷すれば貫入が入りすぎて商品価値が下がります」
職人の報告に対し、アデライドは即座に答えを返した。
その声は鈴を転がすように美しいが、同時に氷のような冷静さを帯びている。
「……申し訳ありません、アデライド様」
「謝罪は結構です。次は失敗しないために、工程表を見直してください。材料費も無限ではありませんから」
淡々とした指摘に、職人たちは恐縮して頭を下げる。
クライスト伯爵家は代々、この地方特有の白土を使った陶器生産を生業としてきた。
しかし、父である現伯爵の放漫経営により、数年前までは破産寸前だったのだ。
それを立て直したのが、長女であるアデライドだった。
彼女は自ら現場に入り、最新のデザインを取り入れて販路を拡大した。
今やクライストの陶器は王都の貴族たちにも愛用されるブランドとなりつつある。
「やあ、アデライド」
昼下がりの工房に、父であるクライスト伯爵がふらりと現れた。
彼は娘が積み上げた書類の山を見ても、労いの言葉一つかけない。
「お父様。今月の売上報告書はこちらです。先月比で一割増ですが、燃料費の高騰が利益を圧迫しています」
「ああ、数字のことはお前に任せているから好きにしなさい。それより、これだ」
父が差し出したのは、王都の流行を報じる三流ゴシップ紙だった。
そこには『悲劇の令嬢、元婚約者の不貞により心神喪失か』という扇情的な見出し。
主役は、アデライドの三つ下の妹、ソフィアだ。
「ソフィアが可哀想でならない。あの男に裏切られてからというもの、部屋に引きこもって泣いてばかりだ。……アデライド、お前は強い子だから分からんだろうが、ソフィアは繊細なんだ。姉として、もっと気にかけてやりなさい」
アデライドの手が、一瞬だけ止まった。
ペン先が書類に小さなインクの染みを作る。
「……気にかける、とは。具体的にどうしろと仰るのですか? 私は実家の経営を立て直し、ソフィアのドレス代や社交費もそこから捻出していますが」
「金の話をしているんじゃない! 気持ちの話だ。お前は昔から可愛げがない。ソフィアのように素直に甘えることもできんのか」
父は忌々しげに吐き捨てると、工房を出て行った。
残されたアデライドは、インクの染みを吸い取り紙で丁寧に押さえた。
表情は変わらない。
ただ、胸の奥底に沈殿した重たい鉛のようなものが、また少し嵩を増しただけだ。
――強い子。
幼い頃から呪いのように聞かされてきた言葉。
泣かなかったから強いのではない。
泣いても誰も見てくれなかったから、泣くのを止めただけなのに。
夕刻。
アデライドは実家の工房を後にし、馬車で三十分ほどの距離にある婚家――ベルンハルト伯爵邸へと戻った。
玄関ホールに足を踏み入れると、執事長のサイラスが深々と頭を下げる。
「お帰りなさいませ、奥様」
「ただいま、サイラス。……エリアス様は?」
「まだお戻りではありません。しかし、今朝ほど『今日は必ず十九時までには帰る』と仰せつかっております」
サイラスの言葉に、アデライドの表情がわずかに和らいだ。
今日は、結婚三周年の記念日だった。
夫のエリアス・ベルンハルトは、アデライドとは対照的な人だ。
蜂蜜色の髪に、温和なヘーゼルの瞳。
誰に対しても優しく、声を荒げたところなど見たことがない。
「ディナーの準備は整っております。奥様がお好きな鴨のコンフィと、旦那様がお好きな赤ワインをご用意しました」
「ありがとう。着替えてきますね」
自室に戻り、アデライドは今夜のために新調した、深いミッドナイトブルーのドレスに袖を通した。
装飾は控えめだが、肌の白さを引き立てる上品なデザインだ。
鏡の前で髪を整えながら、彼女は自分に言い聞かせる。
エリアスは優しい人だ。
実家の両親のように、アデライドを便利な道具として扱ったりはしない。
彼女の仕事にも理解を示してくれるし、口数こそ多くはないが、穏やかな家庭を築けているはずだ。
――ただ、少しだけ。
彼の中での優先順位が、アデライドではない誰かに向くことが多いだけで……。
その一角にある陶磁器工房は、今日も熱気と土の匂いに包まれていた。
窯の温度管理、釉薬の調合比率、そして次期シーズンの出荷計画。
それら全てを取り仕切っているのは、工房長でもなければ、当主であるクライスト伯爵でもない。
色素の薄いアッシュグレイの髪を、一筋の後れ毛もなく完璧に結い上げた若き女性――アデライド・ベルンハルトだった。
「アデライド様、こちらの釉薬ですが、指示通りの発色が出ません」
「酸化炎の温度が高すぎたのね。窯の排気口をあと二センチ絞って。それと、この青磁は冷却時間を三十分延ばすこと。急冷すれば貫入が入りすぎて商品価値が下がります」
職人の報告に対し、アデライドは即座に答えを返した。
その声は鈴を転がすように美しいが、同時に氷のような冷静さを帯びている。
「……申し訳ありません、アデライド様」
「謝罪は結構です。次は失敗しないために、工程表を見直してください。材料費も無限ではありませんから」
淡々とした指摘に、職人たちは恐縮して頭を下げる。
クライスト伯爵家は代々、この地方特有の白土を使った陶器生産を生業としてきた。
しかし、父である現伯爵の放漫経営により、数年前までは破産寸前だったのだ。
それを立て直したのが、長女であるアデライドだった。
彼女は自ら現場に入り、最新のデザインを取り入れて販路を拡大した。
今やクライストの陶器は王都の貴族たちにも愛用されるブランドとなりつつある。
「やあ、アデライド」
昼下がりの工房に、父であるクライスト伯爵がふらりと現れた。
彼は娘が積み上げた書類の山を見ても、労いの言葉一つかけない。
「お父様。今月の売上報告書はこちらです。先月比で一割増ですが、燃料費の高騰が利益を圧迫しています」
「ああ、数字のことはお前に任せているから好きにしなさい。それより、これだ」
父が差し出したのは、王都の流行を報じる三流ゴシップ紙だった。
そこには『悲劇の令嬢、元婚約者の不貞により心神喪失か』という扇情的な見出し。
主役は、アデライドの三つ下の妹、ソフィアだ。
「ソフィアが可哀想でならない。あの男に裏切られてからというもの、部屋に引きこもって泣いてばかりだ。……アデライド、お前は強い子だから分からんだろうが、ソフィアは繊細なんだ。姉として、もっと気にかけてやりなさい」
アデライドの手が、一瞬だけ止まった。
ペン先が書類に小さなインクの染みを作る。
「……気にかける、とは。具体的にどうしろと仰るのですか? 私は実家の経営を立て直し、ソフィアのドレス代や社交費もそこから捻出していますが」
「金の話をしているんじゃない! 気持ちの話だ。お前は昔から可愛げがない。ソフィアのように素直に甘えることもできんのか」
父は忌々しげに吐き捨てると、工房を出て行った。
残されたアデライドは、インクの染みを吸い取り紙で丁寧に押さえた。
表情は変わらない。
ただ、胸の奥底に沈殿した重たい鉛のようなものが、また少し嵩を増しただけだ。
――強い子。
幼い頃から呪いのように聞かされてきた言葉。
泣かなかったから強いのではない。
泣いても誰も見てくれなかったから、泣くのを止めただけなのに。
夕刻。
アデライドは実家の工房を後にし、馬車で三十分ほどの距離にある婚家――ベルンハルト伯爵邸へと戻った。
玄関ホールに足を踏み入れると、執事長のサイラスが深々と頭を下げる。
「お帰りなさいませ、奥様」
「ただいま、サイラス。……エリアス様は?」
「まだお戻りではありません。しかし、今朝ほど『今日は必ず十九時までには帰る』と仰せつかっております」
サイラスの言葉に、アデライドの表情がわずかに和らいだ。
今日は、結婚三周年の記念日だった。
夫のエリアス・ベルンハルトは、アデライドとは対照的な人だ。
蜂蜜色の髪に、温和なヘーゼルの瞳。
誰に対しても優しく、声を荒げたところなど見たことがない。
「ディナーの準備は整っております。奥様がお好きな鴨のコンフィと、旦那様がお好きな赤ワインをご用意しました」
「ありがとう。着替えてきますね」
自室に戻り、アデライドは今夜のために新調した、深いミッドナイトブルーのドレスに袖を通した。
装飾は控えめだが、肌の白さを引き立てる上品なデザインだ。
鏡の前で髪を整えながら、彼女は自分に言い聞かせる。
エリアスは優しい人だ。
実家の両親のように、アデライドを便利な道具として扱ったりはしない。
彼女の仕事にも理解を示してくれるし、口数こそ多くはないが、穏やかな家庭を築けているはずだ。
――ただ、少しだけ。
彼の中での優先順位が、アデライドではない誰かに向くことが多いだけで……。
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